イビツァ・オシムを日本に連れてきた祖母井秀隆。欧州から数々の指導者を招き入れ、日本サッカーに新たなメソッドを流入させた。そんな祖母井が「私が選んだきっと最後の監督になる」と語ったのは日本人監督・上島達也だった。既存の日本流の指導とは一線を画す上島の指導とは――。
2005年ナビスコカップ決勝に挑むイビツァ・オシムPhoto by Ryuichi Kawakubo/AFLO SPORT
イビツァ・オシムがSKシュトゥルム・グラーツを率いてチャンピオンズリーグに出続けていたころ、ピクシー(ドラガン・ストイコヴィッチ)はじめ、バルカン半島のフットボーラーたちは誰もが口を揃えて言った。「オファーするクラブはたくさんあるだろうが、彼はカネでは動かないよ」。
実際、欧州のビッグクラブがどれだけ高額な提示をしても動かなかったオシムだが、2003年にひとりの人物を信頼して、遠い極東のクラブで指揮を執ることを決意した。ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)のGMだった祖母井秀隆である。祖母井は古くから、独自に培った人脈を活かして中東欧の名将たちを次々と来日させていた。ブランコ・エルスナー(スロベニア)、ヤン・フェルシュライエン(オランダ)、ニコラエ・ザムフィール(ルーマニア)、ズデンコ・ベルデニック(スロベニア)、ジョゼフ・ベングロシュ(スロバキア)......。オーストリアの代表監督から、FIFAのコーチングスクールの重鎮まで、祖母井が海外から招いた多様な指導者が日本サッカーに新しいメソッドを流入させた。
そして切り札がオシムだった。このボスニア人が2003年にジェフの指揮官に着任してからの衝撃は、今さら書くまでもない。残留争いの常連と言われていたジェフに人もボールも走る先進的なサッカーで初戴冠(2005年ナビスコカップ)をもたらし、2006年には日本代表監督に就任。翌年、志半ばで病に倒れるもサラエボに帰国後は3つの民族に分裂していた祖国のサッカー協会を統一してW杯ブラジル大会に導いた。オシムは2022年5月1日にその生涯を閉じたが、サラエボ、グラーツ、そして日本と指導者として関わったそれぞれの地で追悼の催しが行なわれた。没後、オシムが成し遂げた偉大な功績を知ると同時に、あらためてこの人物を2003年に招聘した祖母井の慧眼と行動力を感じる。
その祖母井が「私が選んだおそらく最後となる監督がいるのでぜひ会って欲しい」と言うので、客員教授を務めている淑徳大学まで会いに行った。同大学サッカー部のGMとして選任したのは、上島達也監督。そこにいたのは、まったく無名の日本人監督であった。『「監督を決める」仕事―世界が認めた日本人GMの 逃げないマネジメント』(ダイヤモンド社)という著書を出し、「ヨーロッパサッカー100年の知恵」が欲しいから、との理由で外国人監督にこだわっていた祖母井がなぜ上島を選んだのか?この問いの答えから、今の日本サッカーと日本社会が透視されてきた。祖母井が言う。
「私はサッカーを通じて、若い人たちの人生が豊かになって欲しいと思って大学でも教えて来ました。ところが、今の日本社会は人や物事に対する評価がすべて数字になっている。人間には点数ではすぐに測り知れない能力が潜在的にあるんですよ。大阪体育大学で二軍の選手を受け持ったときも選手たちの可能性を押さえつけずに育てて来ました」
祖母井が大阪体育大サッカー部を指導していた1980年代、同大学は選抜された一軍の学生だけがグラウンドを使用でき、二軍はハーフコート、三軍は走るだけというメニューだった。同じ部費を払っているのにおかしいではないかと、部長に対して声を上げた祖母井はグランド使用率を同じにした。二軍の選手を育て上げ、トップのチームを追い落とすところまで押し上げた。潜在的な能力を認めようとせず、サッカーをする機会さえ奪ってしまう在り方に疑義を呈して、二軍に落とされていた選手たちで結果を出した。
―どんな選手に対しても可能性を否定せずに選手を育てあげ、自身も国内外の何百人というサッカー監督を見て来た祖母井さんが、上島さんに惹かれたのはどんなところだったのでしょうか。
「上島さんとは日独フットボールアカデミーで知り合ったんですが、それが縁で週に二回ほど、大学を見てもらった。そうしたら選手たちがみるみるうちに変わっていった。上島さんは汗をかいて努力を継続する選手を大事にして、試合に出していくんです。それも残り5分の出場とかではなくて先発で出して育てていく。先だっての千葉商科大学での試合では象徴的なことがありました。高校時代に一試合も出ていない選手をフルタイムで出場させたんです。そうしたらその試合のベストプレーヤーになったんです。部員35人全員がサッカーをしているという感覚ですね」
祖母井は上島の新しい発想を評価していた。
「どこの指導者も技術を学ばせて蹴れるようになってから、ゲームに入れて行く。でも上島さんは、そもそも逆の発想なんですね。まずピッチの上がどういう状況にあるのか。そこでどういうふうに動くべきかを考えさせてから技術をつけさせる。練習でもあえてテーマを言わずに、自分で判断させる。今はサッカー協会が主導するようなコーチングの教本があって、そこに集中していきますが、オシムさんも言っていたようにその教則の不意を突くのがサッカーの進歩じゃないですか。オシムさんはホワイトボードを使ったミーティングもやらなかったんですが、上島さんの指導は今の日本の主流にあるものとは反対に位置するもので、それが新鮮でしたね」
(つづく)
後編>>祖母井秀隆が語る日本サッカーに本当に必要なこと
■Profile
祖母井秀隆(うばがいひでたか)
1951年生まれ。1995年よりジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)の育成部長、1997年から2006年までGMを務めた。2007年より、フランス・リーグ2部のグルノーブル・フット38のGMに就任。欧州クラブでGMを務めた初めての日本人となった。その後、2010年から2014年まで京都サンガF.C.のGMを務め、2016年より淑徳大学客員教授、サッカー部アドバイザーに就任した。
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