定岡正二と篠塚和典が明かす長嶋茂雄エピソード「おい、定岡!相撲をとるぞ」「シノ、腐るなよ」

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定岡正二と篠塚和典が明かす長嶋茂雄エピソード「おい、定岡!相撲をとるぞ」「シノ、腐るなよ」

1月23日(木) 22:10

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定岡正二×篠塚和典

長嶋一次政権"投打のドラ1コンビ"対談中編

(前編:高校時代と、巨人の若手時代原辰徳は「ほかの選手とは違った」>>)

巨人で長らく主力打者として活躍した篠塚和典氏と、江川卓氏や西本聖氏とともに先発3本柱として活躍した定岡正二氏による対談の中編。長嶋茂雄氏とのエピソードを中心に、定岡氏の広島戦での強さなど、当時の印象的な出来事を振り返ってもらった。

1975年、巨人の指揮を執った長嶋茂雄photo by Sankei Visual

1975年、巨人の指揮を執った長嶋茂雄photo by Sankei Visual





【定岡が感じていた期待】【動画で見る】原辰徳、地獄のキャンプ裏話篠塚和典×定岡正二 スペシャル対談①



――定岡さんは1982年にキャリアハイとなる15勝を挙げ、江川卓さん、西本聖さんとともに先発3本柱としてチームを牽引しました。

定岡正二(以下:定岡) 僕は二軍暮らしが長かったですが、土台をしっかり作った自負がありました。なので、一軍で1勝できれば勝ち星を積み重ねていく自信はあったんです。1980年にプロ初勝利を含む9勝、1981年に11勝、1982年に15勝を挙げることができて、「やってきたことに間違いはなかった」と思いましたね。

昔の巨人は、二軍で成績を残しても、一軍で2、3回ダメだったら二軍に落とされる感覚がありました。常にあとがない精神状態で集中できたこともよかったのかもしれません。

――定岡さんのプロ1年目は、長嶋茂雄監督の第一次政権の1年目。長嶋監督からの期待も感じていましたか?

定岡 入団したときに「20勝するんだ!」と背中をたたかれましたし、「20」の背番号を背負ったこともあって期待は感じていました。1982年には15勝しましたし、次のシーズンは20勝に到達できるんじゃないか、とも思いましたが......。1982年がピークになりましたね(笑)。

篠塚和典(以下:篠塚) 1983年は、春先に6連勝したり絶好調でしたよね。でも、腰痛を発症したのが痛かった。自分も、腰痛には長く悩まされましたが。

――少しさかのぼりますが、定岡さんが11勝を挙げ、リーグ優勝と日本一を達成した1981年はいかがでしたか?

定岡 僕らは巨人に入団した当初から、「優勝だけではダメだ。日本一じゃないと巨人は世間から認められない」と教育されていましたから。そういう意味では、日本一になって壁を乗り越えた実感はありましたね。

シノ(篠塚氏の愛称)は日本シリーズ第6戦でタイムリーも打ったけど、このシーズンはシノもすごく活躍したよね。若い選手たちが台頭し始めて、みんながいい感じでプレーしていたと思います。

――1982年は、原辰徳さんがチーム1位の33本塁打をマークするなど成長。一時期は4番も務めるなど存在感を示しました。

篠塚 いいタイミングで原が入ってきてくれたんです。長嶋さんと王貞治さんが抜け、ちょっと"華"が欠けてしまっていたので。そういう意味では、原というスター性のある選手が入ってきたことはチームにとって大きかったですし、彼がしっかりやってくれればチームはよくなるだろうという思いはありました。

【定岡は広島戦に強かった?】――ちなみに、定岡さんは広島戦に強かったですが、何が要因でしたか?

定岡 当時の赤ヘル打線は山本浩二さんや衣笠祥雄さんを中心に、強力な打線で一瞬も気が抜けなかったんです。あと、広島市民球場が狭くて、ちょっと間違えたらスタンドまで運ばれるという怖さと背中合わせだったのが、集中力を高めることにつながったのかなと。ヘルメットやユニフォームの赤が印象的だったし、ちょっと気持ちが燃え上がったのかもしれない(笑)。

篠塚 広島戦は自信を持って投げているように見えましたよ。逆に、ヤクルトのようにセンターから逆方向へ打つバッターが多いチームに苦戦していた印象です。

定岡 ヤクルト戦ではよく打たれたね......。それも下位のバッターに(笑)。野球って面白いよね。広島戦に関しては、確かに自信を持って投げていました。まだ若かったですし、浩二さん、衣笠さんを抑えるごとに自信がついていった感じです。向こうも、僕に対して苦手意識を持っていましたね。

ふたりに対しては、ほぼ真ん中に投げていたんです。ホームランボールですよ。それを5、10センチくらい曲げると凡打になるんです。浩二さんには「もう顔を見るのも嫌だ」って言われましたよ。ピッチャーとしてはうれしいですね。

――篠塚さんが、マウンドの定岡さんに声をかけにいくことはありましたか?

篠塚 年下ですし、それはなかったですね。ファーストには先輩の中畑清さんがいて、ショートにも先輩の河埜和正さんがいましたから。

定岡 今と昔で、野手がマウンドに行く回数に違いがあるのかな。個人的には任せてもらったほうがうれしいんだけど、ベンチワークとしてちょっと間を作るためには必要かもしれないね。僕らの頃は、野手がピッチャーに声をかけるっていうのはあまりなかったような気がします。

篠塚 今は、タオルや水を持っていったりしますからね。

定岡 あのシーンを見ていると、だったら野手にも「お茶とお菓子を持っていってあげて」と思っちゃう(笑)。キャッチャーも汗をかいているわけだし。あくまで個人的な意見になりますが、過保護という感じに見えて、僕はあまり好きじゃないかな。

【篠塚が「本当の意味で恩返しできた」シーズン】――おふたりの、長嶋茂雄監督とのエピソードで印象に残っていることは?

定岡 シノはたくさんあると思うし、聞きたいな。

篠塚 長嶋さんが僕をドラフト1位で指名すると決めたのですが、周囲から反対されていたらしいんです。それをミスターが「責任を持つから」と言って指名してくれたっていう話をあとから聞いて。なので「長嶋さんに恥をかかせていけない」っていう思いで現役時代はずっとやっていました。

その意味で、自分が一軍の舞台で活躍する姿を見せたかったのですが、そういう姿を見せる前にミスターは監督を退任された。僕が一人前になれば長嶋さんの顔も立たせることができたわけですが、それが果たせずにショックでしたね......。

――退任された後も気にかけてくれていたんですか?

篠塚 原にセカンドのポジションを奪われる形になった1981年のシーズンに、「シノ、腐るなよ」と声をかけてもらいました。結果的にこの年はセカンドのポジションに返り咲き、いい打率(.357)を残せましたし、期待に応えられてよかったなと。

ただ、本当の意味で恩返しできたかなと思えたのは、1984年に初めて首位打者のタイトルを獲った時です。「これで長嶋さんが僕を獲ったことが間違いじゃなかった」と証明できたんじゃないかと。1984年のロサンゼルス五輪でカール・ルイスの取材をしたり、充電期間中だった長嶋さんに報告したら喜んでくれて、『ありがとう!シノ/名人・篠塚利夫』(「利夫」は当時の登録名)という文庫本(1985年1月1日発刊 )を書いてくれたんです。

定岡 (本を書いてもらったことは)ないな、俺は(笑)。

篠塚 肩の荷をひとつ下ろすことができた思いでしたね。

【お茶目エピソード、華麗な守備指導も】 定岡 自分も、長嶋さんが喜ぶ顔が見たいという思いでやってきて、一軍で初勝利を挙げた時に喜んでくれるかなと思ったら、「次だぞ」と声をかけられたんです。「確かに、次が大事だ」と気づかされましたし、そこから本当の意味でプロ野球選手としてスタートしたと思っています。長嶋さんは日本で一番愛されて、野球からも愛された人ですから、そういう方に少しでも近づけるようにと思いながら僕らはプレーしていました。



面白かったのは、長嶋さんが伊豆に来てくれた時のことです。優勝した年のオフだったと思いますが、ピッチャー陣が伊豆でトレーニングをしていた時に長嶋さんが海岸まで来て、「おい、定岡!相撲をとるぞ」と(笑)。

僕らはトレーニングウェアで、長嶋さんはジャケットを脱いだ。僕は若かったですし、負ける気はしなかったのですが、長嶋さんを投げたらまずいでしょ(笑)。かといって負けたら、「ちゃんと鍛えているのか?」と言われるんじゃないか、とも思いました。

――どうされたのですか?

定岡 最終的には押し出したんです。そうしたら長嶋さんが「おお、強くなったな」って(笑)。あの相撲で、長嶋さんと通じ合えた気がしましたね。

篠塚 それは初めて聞きました(笑)。

定岡 初めて話したんじゃないかな。長嶋さんはそういうお茶目なところがあるよね。「向かってこい」とかさ。でも、やるほうは本当に大変ですよ......。どう対処すればいいのかって。

キャンプの時にブルペンで投げていたら、長嶋さんがキャッチャーの前に立ったりするのもそう。「定岡、ここに投げてくるんだ」って顔のあたりを指すのですが、投げられませんよ。ぶつけちゃったら新聞の一面ですから(笑)。長嶋さんが指定したあたりに気持ちを込めて投げたら「おぉ、いい球だ」って。それで大げさに逃げますからね(笑)。

篠塚 お茶目なところもあるんですよね。

定岡 守備で「こうやるんだ」という指導はあったの?

篠塚 ありますよ。一次政権の時は実際に動いて見せてくれたのですが、マネはできません。僕がプロ入り1、2年目の時だったと思いますが、多摩川グラウンドで長嶋さんがグラブをはめて、逆シングルで捕る時の動きや、捕った後の投げ方を見せてくれました。すごく滑らかな動きでしたね。

定岡 やっぱり滑らかなんだ?

篠塚 僕たちが「動きがきれいだな」と思えたということは、ファンの方たちにもそう見えていたと思います。プロとして"魅せる"意識も大事なんだなと思わされましたし、そういうことも意識して守備の練習をするようになりました。口だけじゃなくて、実際に動いて見せてくれるからわかりやすいんです。

定岡 ランニングも一緒に走ってくれたしね。半周で切り上げて「おう、よろしく!」って言って帰っていく(笑)。一緒に走れただけでも財産だよね。

篠塚 見ていて楽しいというか、長嶋さんがどこにても目がいってしまいますよね。スーパースターというのは長嶋さんのことを言うんだなと思わされましたよ(笑)。

(後編:定岡正二が明かすドジャースキャンプ秘話親友・篠塚和典とは「これからも一緒に野球界を盛り上げていきたい」>>)

【プロフィール】

■定岡正二(さだおか・しょうじ)

1956年11月29日生まれ、鹿児島県出身。1974年のドラフト1位で巨人に入団。長嶋茂雄監督の指揮のものもと、1980年にプロ入り初勝利を挙げた。藤田元司監督が就任して最初のシーズンとなった1981年にはプロ入り初の2ケタ勝利(11勝)。翌年にはオールスターに初出場、自己最多の15勝を挙げ、同年代の江川卓や西本聖とともに"先発3本柱"として活躍した。通算成績51勝42敗3セーブ。現役引退後は、タレントとしても活躍の場を広げた。

■篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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