語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第6回】吉田義人
(秋田工業高→明治大→伊勢丹→USコロミエ→三洋電機→福岡サニックスボムズ)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載・第6回は、世界に誇るWTB「吉田義人」を紹介したい。19歳で初めて日本代表に選ばれ、キャプテンとして明治大を大学日本一に導き、ワールドカップに2度出場。日本人選手として世界選抜に3度も選ばれた。そして、ファンの記憶に残る伝説的なトライの数々──。まさに日本ラグビー界のレジェンドである。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
※※※※※
吉田義人/1969年2月16日生まれ、秋田県男鹿市出身photo by AFLO
身長170cm──。吉田義人というラガーマンは、決して大きな体躯ではない。
しかし、この男は爆発的な瞬発力と鋭いステップを武器に、1980年代から2000年代にかけて世界のラグビーシーンを一気に駆け抜けた。
「コンタクトする機会を少なくし、できるだけ相手に捕まらないように、低く、鋭く動くことを考えていた。スピードを落とさず、ステップを鋭角に踏んでいくことが真骨頂だったので、つま先の角度にまでこだわった」
この本人の言葉からも、ラグビーに対する繊細さがうかがえる。
『YOSHIDA』の名を世界に知らしめたトライと言えば、やはり世界選抜でのダイビングトライだろう。吉田自身も「すばらしいトライだった」と自画自賛するほど、思い出に残るトライのひとつに挙げている。
1992年、ニュージーランド・ラグビー協会の100周年記念試合と称して、オールブラックスと世界選抜チームが試合を行なうことになった。その世界選抜チームに、吉田は日本人選手で唯一選出される。
33年前の4月22日、開催地ウェリントンで「伝説のトライ」は生まれた。
【スコットランド相手に歴史的勝利】前半30分、イングランド代表CTBジェレミー・ガスコットがタックルを受けながらも絶妙なパントキックを蹴る。そのボールを追いかけ、吉田は快足を飛ばし、ダイブして胸でキャッチ。そのままインゴールに押さえたトライは、今もニュージーランドで語り継がれる名シーンだ。
当時、オールブラックス相手にトライを挙げた日本人選手は誰もいなかった。しかも吉田は、オールブラックス戦の1カ月前に試合で左鎖骨を骨折し、満身創痍の状態で臨んでいた。そのエピソードもまた、伝説に華を添えている。
吉田は秋田県男鹿市出身。小学3年で楕円球と出会った当初はFWだったという。子どもの頃は山中を駆け回って足腰を鍛え、生い茂る樹木を相手に見立ててステップを切り、ラグビーのスキルを磨いたという逸話もある。
中学時代は学校になかったラグビー部を創設。FWからWTBに転向して頭角を表し、高校は地元の名門・秋田工業に進学した。そして高校1年時、吉田はいきなり「花園」こと全国高校ラグビー大会を制し、高校日本代表にも選ばれた。
昔から教師志望だったため、当初は日体大への進学を希望していた。しかし、明治大の名将・北島忠治監督から「日本を背負う逸材」と高く評価され、紫紺のジャージーを選んだ。
エリートの集まる明治大でも吉田の能力は抜きん出ており、1年生ながらレギュラーを獲得。今も語り継がれる名勝負「雪の早明戦」にも出場し、19歳で早くも日本代表に選出された。
そして20歳で迎えた大学3年生の1989年5月、吉田はその名を全国に轟かす。東京・秩父宮ラグビー場で行なわれたスコットランド代表との大舞台で、強烈なプレーをラグビーファンの前で見せつけたのだ。
日本代表を率いる知将・宿澤広朗監督から先発WTBに抜擢された吉田は、前半18分にCTB平尾誠二からのパスを受けると、すかさず相手陣の裏にパントキック。それを自ら快速を飛ばしてキャッチし、スコットランドから先制トライを奪ったのである。
その後はスコットランドの反撃を食らうも、宿澤ジャパンは懸命の守備で相手を1トライに抑えて28-24の大金星。日本代表がラグビーの伝統国から初めて白星を獲得した歴史的勝利に貢献した。
【早稲田のライバル今泉清にリベンジ】吉田は「早明戦」でも、語り継がれる試合をつくった。
大学ラストイヤーで迎えた対抗戦、キャプテンに就任した吉田は早稲田大からリードを奪って試合を進める。しかし試合終盤、相手のエースFB今泉清にトライを許し、24-24の引き分けに持ち込まれてしまう。
そのリベンジを果たすべく、明治大は大学選手権の決勝まで駒を進め、再び早稲田大と戦う舞台を整える。国立競技場に詰めかけた6万人の大観衆は、固唾を飲んで試合を見守った。
12-13で迎えた後半26分、明治大にビッグプレーが生まれる。ラインアウトを起点にFWが縦に突いて左サイドへ展開すると、ハーフウェイラインでパスを受けた吉田の前には大きなスペースができた。
「今度こそ、勝負をつけないといけない」
揺るぎない決意でこの試合に臨んだ吉田は、自慢のスピードを活かして対峙する今泉を抜き去ったあと、今度は緩急をつけたランでさらに3人をかわし、左隅に逆転トライを決めた。これが決め手となって明治大を優勝に導いた吉田は、「最も『前へ』を体現できた試合だった」と振り返った。
1991年にイングランドを中心に開催された第2回ワールドカップ。ラグビーの母国で躍動した吉田の姿も鮮明に思い出せる。
日本が誇る韋駄天は、善戦したアイルランド戦でビッグゲイン見せ、ワールドカップ初勝利を飾ったジンバブエ戦では2トライを重ねた。このワールドカップでの活躍が翌1992年の世界選抜チーム選出につながった。
また、社会人では強豪チームを選ぶことなく、誘いを受けた伊勢丹で働きながら9年間、競技を続けた。そして2000年、「残り少ない選手生命をかけて、日本ラグビーに貢献したい」と決意し、フランスのUSコロミエへ移籍。日本人初のフランス1部リーグに所属するプロラグビー選手にもなった。
世界に対して果敢に挑み続けた吉田は、帰国すると三洋電機(現・埼玉ワイルドナイツ)、福岡サニックスボムズ(宗像サニックスブルース/2022年休部)でのプレーを経て、2003年に惜しまれつつも現役引退。
【日本が誇る伝説のフィニッシャー】セカンドキャリアはラグビー指導だけでなく、スポーツ教育に力を入れて、2004年から横河電機、2009年から「北島監督に恩返しをしたい」と4年間、母校である明治大学の指揮も執り、14年ぶりの対抗戦優勝に寄与した。
現在は7人制ラグビーの専門チーム「サムライセブン」を創設し、一般社団法人日本スポーツ教育アカデミーを発足させて理事長に就任。さらには母校の秋田工業でも指導するなど、今でも「ラグビーを通じて日本の子どもたちが世界にチャレンジしていってほしい」とラグビーと教育をキーワードに精力的に活動を続けている。
「WTBは文字どおり『翼』。相手を抜いてトライをする。それがWTBの仕事であり、魅力だった」(吉田)
紫紺と桜のジャージーで「11番」を背負い続けた吉田義人は、「ボールを持ったら何かをしてくれる」期待感にあふれていた、日本が誇るフィニッシャーだった。
【関連記事】
◆キャプテンとして生まれた男・箕内拓郎「ブレイブ・ブロッサムズ」の愛称はこの男なしに誕生しなかった
◆日本ラグビーの「鉄人」はこうして生まれた大野均が18歳の遅咲きスタートから最多98キャップを得るまで
◆プレースキック時の暗黙のマナーを例外化した男・今泉清伝説の1990年 早明戦では「光の道が見えた」
◆初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道日本人でも世界に通用することを証明した
◆ミスターラグビー平尾誠二は「僕らの太陽」だった学生時代の悔しさを胸に10年後「神戸製鋼V7」を達成