【レジェンドランナーの記憶】1992年バルセロナ五輪、谷口浩美は転倒している瞬間も「むしろ冷静で、脱げたシューズがどこにあるのかを確認していた」

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【レジェンドランナーの記憶】1992年バルセロナ五輪、谷口浩美は転倒している瞬間も「むしろ冷静で、脱げたシューズがどこにあるのかを確認していた」

4月16日(水) 1:05

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8位入賞にとどまった谷口浩美は、報道陣に苦笑いで「こけちゃいました」と語ったphoto by Nikkan Sports/AFLO

8位入賞にとどまった谷口浩美は、報道陣に苦笑いで「こけちゃいました」と語ったphoto by Nikkan Sports/AFLO





【不定期連載】五輪の42.195kmレジェンドランナーの記憶.1

谷口浩美さん(中編)

日本が誇るレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は1992年バルセロナ五輪の「こけちゃいました」で一躍、時の人となった谷口浩美さん。全3回のインタビュー中編は、いよいよバルセロナ五輪のレースを振り返る。日本中が「あっ!」と声を上げた、あの転倒シーンの裏側を聞いた。

>>>前編を読む

【五輪直前、恐怖と重圧で右ひざがガクガクと震えた】1991年の東京世界陸上で優勝した谷口浩美は、翌1992年バルセロナ五輪のマラソン代表に選出された。バルセロナ五輪で勝つためにレースの台本を書き、練習メニューを構成し、本番に向けての準備を始めた。

だが、その矢先、まさかの事態が起きた。

「右足の中足骨を疲労骨折してしまったんです」

バルセロナのラスト5kmが上り坂なので、その対応をすべく宮崎県延岡市で合宿をしていたが、ある日、練習が終わると右足に違和感を覚えた。検査をすると疲労骨折が判明し、谷口は5月27日から6月27日までの1カ月間、三重県の病院に極秘入院をした。考えていた練習メニューをこなせず、金メダルの台本も崩れた。

「(退院して)本番まで1カ月ちょっとしかなくて、練習が十分できていなかったので不安がすごく大きかったんです。すると、それが体にも出てしまって......。

バルセロナに入る前にロンドンで調整したのですが、最後の練習で5000mを走り、14分40秒ぐらいでいければと考えていました。夕方の練習だったので、お昼ご飯を食べて移動する前にトイレに入ったんです。そうしたら突然、右ひざがガクガクと勝手に動き出して、どうにも止まらない。両手で抑えて用を済ましたんですけど、貧乏ゆすりではなかった。5000mを設定通りに走れるかどうかで五輪の結果が見えてしまうという怖さとプレッシャーによる震えだったんです」

谷口は、前年の東京世界陸上でも日の丸をつけて走ったが、五輪は規模も注目度もまるで違った。故障した自分をサポートしてスタートラインに立たせてくれた人、選考会で競った選手、応援してくれる人、いろいろな人の思いを感じ、また、全国民の期待が自分の背中に乗っかっているような感覚に襲われた。

「いてもたってもいられないほどのすごいプレッシャーを感じていました」

【本番で一番気をつけていた「給水」】ただ、レースは冷静に分析できていた。前日記者会見で「レースでは何に一番気をつけていますか」と問われると、「給水です」と答えた。東京世界陸上の経験から、今回もそこがポイントになると考えていた。

「東京の世界陸上は、夏の暑さで60名中24名が途中棄権したんです。その時、多くの選手が給水をしっかり取らないといけないことを理解したと思います。バルセロナでは160名近くが走ります。暑いのでペースがかなり遅くなるなか、給水所に選手がワッと押し寄せてくる。その中で自分のボトルをつかみ、しっかりと給水しないといけないですし、給水所からアウトする際は素早く、混雑に巻き込まれないようにしないといけない。給水が重要ポイントになると思っていました」

バルセロナ五輪のマラソンの給水所は、現在の世界大会のように国ごとに一定の間隔で設けられているのではなく、日本選手のスペシャルドリンクは中国と韓国と同じテーブルに置かれた。時速約20kmというスピードで走りながら、自分のボトルがどこにあるか見極め、素早く取るのは容易ではない。谷口はゲームセンターにあるクレーンゲームのように上からわしづかみするのがベストだと考え、確実に遂行するための練習も行なっていた。

「五輪ではだいたい2.5kmごとにゼネラル(主催者が用意したドリンク)があって、10kmごとにスペシャルがありました。レース前半はともかく、(余裕のなくなってくる)後半には2.5kmごとにある給水を取らないと、水なしで6分以上走ることになり、脱水状態になってしまいます。特に、スペシャルの給水所ではちょっと遅れても確実に取ることを優先し、どうやって追いかけていくのかというところまで考えていました」

【後続の選手のつま先が谷口のかかとに......】ところが、その給水でアクシデントに巻き込まれてしまう。21km地点から中山竹通がスピードを上げ、レースが動くと感じた谷口は、本格的に勝負が始まる前の22.5km地点の給水を取ることにした。そして、右手でボトルをつかみ、加速しようと左足を着地させた瞬間、後ろを走っていた選手のつま先が谷口のかかとに引っかかり、シューズが脱げた。スピードが落ち、後続の選手に「危ない」と押されて転倒した。

「前に押されて転倒した瞬間は、何が起きたのかわからないという感じではなかったです。むしろ冷静で、どうやったらケガをしないかを考えていました。左肩を巻き込んで横に倒れれば顔を地面にぶつけず、ケガもしないだろうと。

同時に、シューズを履き直して走るのか、脱げたまま走るのかも判断しないといけない。路面が硬いし、後半に石畳があるから裸足だとつらいから履き直そうと決め、倒れ込んでいる間にもシューズが給水テーブルの下にあることを確認し、すぐに起き上がって取りに行き、何事もなかったように走り出しました」

谷口は靴下を履いておらず、シューズの靴べろを引っ張るとスポっと足が入り、そのまま前を追った。この時、谷口は給水ボトルを握っていた。シューズを履き直して、なぜ給水ボトルを手にして走り始めたのか。まったく記憶がなかった。

「無意識にボトルをつかんでいるんです。それはたぶん、給水のボトルを取ることが日々の練習のなかで自分の脳というか体にすりこまれていたからでしょう」

転倒し、シューズを履き直してスタートするまで30秒ほど経過していた。

「前との距離をいかに詰めていくか。ジワリジワリいくのか、一気にいくべきか。自分の経験からジワリジワリといく方を選択し、30kmを16番目に通過したんです。入賞は10位までだから、あと6人抜けばいいと思い、少し気が楽になりました」

当時のマラソンは、現在のように8位までが入賞扱いではなく、10位まで入賞ということが多かった。だが、バルセロナ五輪の入賞は8位まで。それをすっかり失念していた谷口は、35km地点で12位に上ると、「あと2人追い越せば入賞だ」とテンションが上がった。しかし、ふと気がついた。

「あっ、(今回は)8位(までが)入賞だって突然気がついて。それからは、あと4人、あと4人って心の中で言い続け、前だけを見て走り続けました。そうして、競技場になんとか8位で戻ってこられたのです」

【「谷口さん、大変なことになっています」】競技場では、旭化成の後輩の森下広一が銀メダルを獲得し、中山は4位でゴールしていた。谷口は8位でゴール。男子マラソンに出場した日本人3名全員が入賞という史上初の快挙を達成した。

「ゴールした時は、やっと終わったという感じでした。やっぱり9位じゃダメなので、8位で入賞できてよかったとホッとしました」

汗にまみれながらインタビュールームに入った谷口は、マイクを向けられると、笑顔でこう答えた。

「途中でこけちゃいました。靴が脱げたんで、それを拾いにいったので。まぁ、これも運ですね。精一杯やりました」

谷口はこう回想する。

「私が転んだシーンをみんな、映像で見ていないんだろうなって思っていたんです。しかも、前年の世界陸上のチャンピオンが8位かよって思っていたんじゃないかなというのが自分のなかにあったので......。何が起きたのかを伝えないといけない。それで、『転んで8位になっちゃいました』と言い訳したんです」

数日後に帰国した成田空港では、メダルを獲得した選手はマスコミの取材エリアが設けられた左側の通路に進み、それ以外の選手は右側の通路に進むよう指示された。谷口は右側に進んだが、自分の後ろを大勢のマスコミが追いかけてきた。

「谷口さん、大変なことになっています」

そう言って記者が見せてくれたスポーツ紙の一面には、「こけちゃいました、谷口」との大見出しとともに谷口の写真がデカデカと掲載されていた。

(文中敬称略)

>>>後編を読む(4月17日配信予定)

谷口浩美 (たにぐち・ひろみ)/1960年生まれ、宮崎県南郷町(現日南市)出身。小林高校では全国高校駅伝に3年連続出場し、2、3年時は同校の2連覇に貢献。日本体育大学では2年時から3年連続で箱根駅伝の6区を走り、いずれも区間賞を獲得(3、4年時は区間記録を更新)。旭化成に入社後は主にマラソンで活躍し、1991年の世界陸上東京大会で金メダルを獲得したほか、1992年バルセロナ、1996年アトランタと二度のオリンピックにも出場。1997年に現役を引退すると、実業団や大学での指導を経たのち、2020年3月まで地元の宮崎大学の特別教授を務める。マラソンの自己最高記録は2時間7分40秒(1988年北京国際)。

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