佐竹雅昭はK-1休養中、ビートたけしの番組などで活躍「空手家=食えない」という構図を打破した

photo by web Sportiva

佐竹雅昭はK-1休養中、ビートたけしの番組などで活躍「空手家=食えない」という構図を打破した

4月10日(木) 0:10

提供:
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生第14回

(第13回:バンナ戦後のK-1長期休養の真相ヘビー級での連戦に医師から警告「脳が委縮するかもしれない」>>)

現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第14回は、長期休養中の芸能活動、そこで学んだことを語った。

K-1休養時のことについて語った佐竹photo by Tanaka Wataru

K-1休養時のことについて語った佐竹photo by Tanaka Wataru





【休養中もメディア出演のオファーが続々】過酷な激闘の連続で脳へのダメージが蓄積した佐竹は、1995年5月から休養に入った。K-1が開催される前からテレビに多数出演し、格闘技界でトップの人気を誇っていたが、主な活動をリングから芸能界に移した。その芸能活動への思いをこう語る。

「僕が就職するのをやめて空手の道に進んだ頃は、格闘技や空手などは一部のマニアだけが見ていた世界だったんです。いろんな人に、『空手なんかやってお金になるの?』と聞かれましたよ。

もともと空手を始めたのは、ケンカに強くなりたい、『空手バカ一代』の世界を極めたいという思いだけだったんですけど、空手でウイリー・ウイリアムスに勝ち、リングスでも負けず、K-1では世界一にはなれませんでしたがグランプリで準優勝をして、格闘技を知らない方々からも強さを認められるようになりました。そうなってくると今度は、空手、格闘技の世界をどう変えていくか、と考えるようになったわけです。

"空手家=食えない"という構図を打破しようと芸能界にチャレンジして、さまざまな方のおかげで稼げるようになった。『佐竹はお笑いばっかりやってる』なんて批判されたこともありましたけどね」

持ち前の明るいキャラクターと笑いのセンスあふれる話術で、テレビ、ラジオ局から引っ張りだこになっていた佐竹のもとには、休養でリングを離れてからもオファーが絶えなかった。

撮影は欠場前からしていたが、休養から2カ月後の1995年7月には主演映画『1・2の三四郎』(市川徹監督)が公開。小林まことのプロレス漫画を映画化した作品で、佐竹は主人公の「東三四郎」を演じた。

「漫画の『1・2の三四郎』は大好きでしたから、オファーをいただいた時はうれしかったですよ。ただ、プロレスをやったことがなかったですから、映画に出演していたプロレスラーの高野拳磁さんなどに、ロープワークなどいろいろな動きを教えていただきました。

プロレスシーンは、横浜の鶴見区にあった屋台村・ヨンドンで、カットなしのノンストップで撮影。自分で言うのもなんですが、悪くない動きだったと思いますよ。プロレスは格闘技と全然違いますが、ちゃんと訓練しないとできないジャンルだと勉強になりました」

【「本物のトップ」たちに学んだこと】ラジオは2局で、テレビでも多くのレギュラー番組を持つようになった。1995年10月からは、ビートたけしがMCを務めた『超天才・たけしの元気が出るテレビ‼』(日本テレビ系)へのレギュラー出演が決定。たけしや同じレギュラーの出演者など、芸能界のトップスターと交流を持った。

「たけしさんは格闘技が好きで優しい方でした。俳優の松方弘樹さんにも、収録が終わるとよく食事に連れていっていただきましたし、ロケでよく一緒になった島崎俊郎さんとも仲良くさせていただいた。一流のタレントさんは、根っこが真面目で気配りがすごい方ばかり。本物のトップとはこういう方たちなんだと思いましたね」

強烈な記憶が残っているのは、元日の特番だった『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ‼』(日本テレビ系)だという。多くのお笑い芸人たちが過酷な企画に挑戦しながらクイズに答えていく番組で、佐竹はリング上でミットを持ったダチョウ倶楽部、松村邦洋らに蹴りを叩き込むなど、存在感を放った。

「あの番組は、とにかくお金をかけてましたね。何百人というタレント、スタッフが熱海や沖縄などでムチャクチャやるんですよ。覚えてるのは、ヘリコプターに乗ってクイズの問題に答える企画。回答する時に地上を走っているトレーラーに飛び降りるんです(笑)。飛び降りる時にはトレーラーの周りが爆発するんですが、あれはすごかったですねぇ(爆笑)」

当時のギャラは「1本で100万円ぐらいいただいていました」と明かす。収録が終われば夜の街へ誘われ、さまざまな人脈を築いた。もともと「ハリウッドスターになりたい」という夢も抱いていた佐竹にとって、芸能活動は性に合っていたという。

「あの頃は楽しかったです。逆に、楽しくないとあそこまで燃えられなかったでしょう。お金がほしい、といよりも、知らない世界を感じたかった思いのほうが強かったです。『あぁ、テレビの世界はこういうところなのか』と教えられましたし、一流のタレントさんの半端じゃないエネルギーも実感できた。たくさん知らない人と出会って、そこから"人を学ぶ"ということが自然と身についていったと思います。その経験は、今の人生においてものすごく役に立っています」

そんななかで、将来のビジョンも思い描いていったという。

「静養しながら、『次のステップにつなげるための準備をしないといけない』と考えていました。リングでの闘いは、早めに"定年"がくることがわかっていましたからね。それに、K-1はいつか廃れていくと思っていました。これまでも話してきましたが、K-1の組織は脆弱で危ないなと感じていましたからね。ブームが起きた興行でも、一歩間違えると多額の借金を抱えますし、"絶対"はない世界。だから、格闘技界とは違う方たちから学んでいかないといけないと考えていました」

リングから離れて1年あまり。活動の場を広げてさまざまな学びを得ると同時に、肉体的なダメージも回復していった。脳へのダメージも、医師からは「これだけ休んだから、以前よりは大丈夫です」と診断されたという。

そして1996年の夏、K-1事務局から参戦オファーが届く。対戦相手は、同年の5月に初めて「K-1グランプリ」を制覇したスイス出身の空手家、アンディ・フグ。その試合は、初めてゴールデンタイムで生中継することが決まっていた。

(つづく)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

【関連記事】
【第13回を読む】バンナ戦後のK-1長期休養の真相ヘビー級での連戦に医師から警告「脳が委縮するかもしれない」
◆サム・グレコ戦で自覚した「脳へのダメージ」の蓄積その後のキモ戦は「キャリアのピーク」
◆佐竹雅昭が前田日明に「勝った」と思った瞬間石井館長が激怒したリングス最後の試合の内情
【写真】女優・ラウンドガール・格闘家の「三刀流」 宮原華音フォトギャラリー
◆魔裟斗が振り返るKIDとの伝説の一戦。予想外のダウンにやっぱり「KIDは持っている」
Sportiva

新着ニュース

エンタメ アクセスランキング

急上昇ランキング

注目トピックス

Ameba News

注目の芸能人ブログ