今江敏晃インタビュー(中編)
18年間の現役生活で、数えきれないほどの投手と対戦してきた今江敏晃氏。そのなかで今でも印象に残っている投手を3人挙げてもらった。また、尊敬してやまないイチロー氏との知られざるエピソードとは?
18年間の現役生活で通算1682安打を放った今江敏晃氏photo by Sankei Visual
【印象に残る3人の名投手】
──現役時代18年間、通算6506打席において印象深い投手を3人挙げてください。
今江
一番打ちあぐねたのは、日本ハムのダルビッシュ有投手(現・パドレス)です。150キロを超えるストレート、11種類とも言われる多彩な変化球、絶妙なコントロール......私より3歳下ですが、完全にもてあそばれているというか、まともに勝負させてもらえなかった感覚が少なからずあります
──どういうことでしょうか?
今江
彼は緩い変化球を投げたりするなど、"遊び心"を持った投球で試合をつくってきます。しかし、いったんスイッチが入ると、スライダーは背中側から大きく曲がってストライクゾーンに入ってきます。しかも長い手足で三塁側にインステップして投げられると、さらに打ちづらい。そこに150キロ近いツーシームを懐に攻め込まれる。4打席立って、ヒットを1本打てるかどうか。本当に打つのが大変な投手でした。
──2人目は誰でしょうか。
今江
フォークボールという球種に特化して選ばせていただきます。フォークというのは、2つに大別されます。少し高めのゾーンから落ちてきて、見逃してもストライクになる軌道のもの。もうひとつは、ストライクゾーンの高さから落ちてきて空振りを狙う軌道のものです。私のなかで、強烈なフォークの印象に投手がいます。
──今江さんの現役当時なら、佐々木主浩さんか、上原浩治さんですか?
今江
佐々木さんとは対戦したことがないのでわかりません。上原さんのフォークは、スプリット系でしたので、鋭く速く落ちる感じでした。正解は、広島の永川勝浩さんです。永川さんのフォークには、度肝を抜かれました。ストライクゾーンから一度はるかに上に上がって、まるで天井から「ズドーン!」と落ちてくるイメージです。そのボールを見た時、ものすごい衝撃を受けて、次の球は逆にワクワクしていたのを覚えています。「目付けをどこにすればいいんだろう」と、考えた記憶があります。翌年からの対戦は、半分楽しみ、でも半分は脅威でしたね。
──最後のひとりは誰でしょうか。
今江
これも交流戦で戦った投手なのですが、三浦大輔さんです。カウント3ボールから、ストライクゾーンからボール球になるフォークを投げてきて、振らせようと誘ってきたのです。まさに「これぞプロの投球」という感じで、今でも印象に残っています。
──具体的にどのあたりが印象的だったのでしょうか。
今江
ひと昔前のパ・リーグは、パワー系の投手が多くて、3ボールや2ボールになったら、ストレートで押すピッチャーがほとんどでした。でも三浦さんは、最後まで変化球で攻めてきた。もし僕の次の打者がピッチャーだったらその配球も理解できるのですが、次は1番打者でした。それでもストライクゾーンの際どいところに変化球を投じて、勝負をかけてきたのです。それ以外の対戦でも、三浦さんはコースギリギリのところに投げ分け、ストライクの出し入れをしてきました。腕の振りが同じで、どんな球種を投げるのか判断がつきませんでした。
──三浦投手は、チームが弱かった時代が長くて通算184敗していますが、現役25年で172勝しています。
今江
通算奪三振数は、NPB歴代10位以内に入っていると聞きました(※)。最後まで勝負をかけて、結果的に奪三振数も伸びていったのでしょうね。驚くようなスピードボールがあるわけではないですし、バットに当たらない変化球を投げるわけではない。それでも投球術を駆使して、プロの世界であれだけの記録を残したのはすごいと思います。
※NPB歴代9位の2481奪三振
【イチローのレーザービームに身震い】
──今江さんは、イチローさんの大ファンだったのですよね?
今江
1995年の阪神・淡路大震災の直後、「がんばろう神戸」を合言葉に、オリックスがパ・リーグを制しました。当時12歳で、京都に住んでいた僕にとってイチローさんはスーパースターでした。
──イチローさんのどのあたりが好きだったのですか。
今江
当時イチローさんは「dj honda」のキャップを後ろ向きに被って、ダボダボのデニムをはき、エアマックスのスニーカー、ベルトをたらすファッション。そのスタイルがカッコよくて、母親におねだりして似たような服を買ってもらいました(笑)。ほかにもイチローさんのポスターを部屋に貼り、下敷きや印刷のサイン入り色紙も、いまだに大事に持っています。そういえば、当時イチローさんは三ツ矢サイダーのCMに出ていましたね。
──2006年に第1回WBCで一緒にプレーしたのは、最高の思い出だったのではないですか。
今江
本当に夢のような時間をいただきましたが、畏れ多くて......。初対面の時にあいさつしたのですが、緊張しすぎてまったく覚えていません。記憶があるのは、練習が始まってシートノックからです。三塁は岩村明憲さんと僕でしたが、ある時「ちょっと順番を変わってもらえないですか」とお願いしたんです。その理由は、イチローさんの"レーザービーム"を受けたかったからです。ライトからバックサードの送球を実際に受けて、「おお、これがあのレーザービームか」と、送球を待つわずかな瞬間、感動で体が震えました。
──WBCでは決勝でキューバを破って、世界一を達成しました。そういえば、同じWBCメンバーの川﨑宗則さんのイチローファンぶりも有名でしたね。
今江
福岡合宿の時、川﨑さんと僕はイチローさんに食事に連れていってもらいました。そこで本物のイチローさんを前にふたりして、「僕はイチローさんのこんなことを知っているぞ」と、"イチローマニア"ぶりを競っていました(笑)。僕はイチローさんの本を買って持っていましたから、けっこう知っていましたよ。
──素顔のイチローさんはいかがでしたか。
今江
ユニフォームを着ている時は、「イチローを演じている」部分はあると思います。普段のイチローさんはとても気さくで、親切な方です。アメリカの自宅にも、川﨑さんと僕を招待してくれました。イチローさんの愛車に乗せてもらい、弓子夫人の手料理に舌鼓を打ち、愛犬・一弓とたわむれました。ふだんは人懐っこい一弓なのに、僕はかなり吠えられて「ゴリ(今江)はおそらく、動物のにおいがするんだな」って、イチローさんに笑われましたね(笑)。本当に貴重な時間を過ごさせてもらいました。先ごろの日米での野球殿堂入り、心から祝福申し上げたいです。
つづく
今江敏晃(いまえ・としあき)
/1983年8月26日、京都府出身。PL学園から2001年のドラフトでロッテから3巡目で指名され入団。05年にレギュラーに定着し、132試合に出場して打率.310、8本塁打、71打点。阪神との日本シリーズでは8打席連続安打を記録するなど、チームの日本一に貢献しMVPを獲得。その翌年3月に開催された第1回WBCの日本代表に選出され、世界一に貢献。10年の中日との日本シリーズでも勝負強さを発揮し、自身2度目のMVPに輝いた。15年オフにFAで楽天に移籍し、19年限りで現役引退。20年から楽天のコーチに就任し、24年は一軍監督。チームを初の交流戦優勝に導くも、10月に監督契約解除が球団より発表され退団することになった。現在は評論家として活躍中
【関連記事】
【後編】今江敏晃が指揮官としてこだわった「機会とタイミング」 楽天初の交流戦制覇はこうして実現した
【前編】今江敏晃にプロでやっていける自信を植え付けた「PL学園の竹バット」と「センター返し」
【里崎智也と五十嵐亮太のパ・リーグ優勝予想】「VISION2025」最終年のロッテ、ソフトバンクの「ポスト甲斐拓也」を語った
【人気記事】高校野球未経験の和田康士朗はなぜ独立リーグ入団から1年でロッテ入りを果たせたのか
【人気記事】夢も希望もなかった17歳の帰宅部員は、4年後に球界を代表するスピードスターとなった