謎に包まれた技術集団が製作した!? ミステリアスなランチア・デルタ・インテグラーレ【前編】

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謎に包まれた技術集団が製作した!? ミステリアスなランチア・デルタ・インテグラーレ【前編】

4月3日(木) 9:11

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ランチアは世界ラリー選手権を6度制した。その最先端技術開発チームが作り上げたアウテックデルタインテグラーレ Evo 1 マルティーニ6 プロトタイプを、リチャード・ヘーゼルティンが駆った。

【画像】どこにでもあるインテグラーレとはまったくの別物?謎に満ちたプロトタイプ(写真5点)


かつての英空軍レイブナム基地を訪れ、そのデコボコ道でスラロームを試す。ガタガタガタ、ガーン、ヒューッヒューッ、ガタガタガタ……。天国、という言葉がいちばんふさわしい。そしてブーストと、その繰り返し。想像してみてほしい。サフォークの外れに位置するこの土地は、かつては英空軍の中心的存在で、空を埋め尽くすようにしてB-17フライングフォートレスが飛び交っていたという。ところが、いまここに残っているのは、重力との戦いに敗れた残骸か、建物の部品くらいだ。残骸といっても、近くにある整備の行き届いた建物からやってきたとはとても思えないものだ。これは極秘任務を帯びた施設の破片で、基地周辺の堡塁を駆け下りるランチア・デルタ・インテグラーレにとって嬉しい置き土産とはいいがたい。もっとも、私たちが地権者から正式な使用許可を得ていることなど、デルタはお構いなしの様子。それよりも軽快なステップを踏むこと忙しくて仕方ないようだ。

試作前夜の産物なのか
これは、ホモロゲーションの取得を目的としたスペシャルモデルではなく、謎に包まれた技術集団が「気まずい移行期」に製作した車両だ。しかも、この車については様々な”神話”や噂話が語られている。そのなかでも間違いないと思われるのが、アウテック(Autec)という当たり障りのない看板を掲げた頭脳集団が製作したという説である。この技術コンサルタントは数多くの量産モデルを手がけたほか、フィアットのミラフィオリ工場近くの小さな設備でプロトタイプの製作にも携わっていた。たとえアウテックという名前に聞き覚えがなかったとしても、その設立当時に組織の舵取り役を務めていた人物の名前であれば、誰もが知っているはず。そのエンジニアこそ、誰あろうダンテ・ジアコーサだったのだ。

インテグラーレの役割を理解するには、まず、オリジナルモデルがどのようにして生まれたかを知る必要がある。1980年代前半、ラリー界は大変革のときを迎えていた。

グループBによるラリーは、オフロードで行なわれるモータースポーツとしてひとつの頂点を極めた時代だった。スペシャルステージを疾走するのは”ステロイドを大量に注入されたような”車両で、これを命知らずなドライバーたちが操るだけでなく、巨額な資金が投じられたイベントではルールを都合のいいように解釈する謀略が横行し、これらを巡って抗議の応酬が繰り返された。いずれにせよ、グループBが活躍した5シーズンのラリーは、退屈や陳腐といった言葉とは無縁の存在だった。

そして、輝かしい時代は幕を閉じる。1986年、モータースポーツを統括するFISAは計画中だったグループS構想(純粋に競技のためだけに開発された車両で、ホモロゲーション取得に必要な生産台数はわずかに10台)を凍結。しかも、トゥール・ド・コルスでヘンリ・トイヴォネンが凄惨な事故死を遂げたことを受け、グループBも急遽、終焉を迎えることとなる。ミドシップの無骨なマシンは、あまりに速く、あまりに危険と判断されたのだ。そして量産車をベースにしたグループAを主軸に据えるレギュレーションが1987年に導入されると、ランチアはモンスターマシンのデルタS4で得た知見を活用し、まったく新しいラリーカーを短期間で作り上げることとなる。

デルタGr.A
その開発を担ったのは、フィアットとランチアの実質的なコンペティション部門として長らく活動してきたアバルトだった。そしてWRCの新たなチャレンジャーのベースとして選ばれたのは、またもやデルタだった。ただし、ミドシップだった従来型とは異なり、量産モデルの面影を色濃く残すスタイリングとされた。1979年にデビューしたとき、デルタはパフォーマンス・アイコンとなりうるポテンシャルをいくつも示していた。ただし、そのときはそのとき。165bhpを発生する2リッター・ツインカム・ターボ4気筒エンジンを搭載し、革新的な4WDシステムを採用した真新しいHF4WD(アバルトの社内呼称はSE043)は、1987年のWRCメイクスタイトルを易々と勝ち取ったのである。

HF 4WDは翌シーズンも開幕2連勝を達成したが、ここで新たにデビューしたインテグラーレにバトンは引き継がれる。1988年のフランクフルトショーでロードカーが発表されたニューウェポンは、大型のギャレットT3ターボを装着して最高出力は20bhp向上。最大トルクは303Nmに達した。ワイドなタイヤとグレイの15インチ軽合金ホイールをカバーするためにブリスター型のオーバーフェンダーを装備し、前:後=56:44の比率で駆動力を配分したインテグラーレは、もはや超常現象とでもいうべき優れたタイヤ・グリップを発揮。0-60mph加速を6.6秒でこなすとともに、最高速度は213km/hをマークするなど、まさに比類なきパフォーマンスを生み出したのである。

このニューモデルは1988年シーズンに爆発的な戦闘力を発揮。最終戦を待たずしてマニュファクチュアラー・タイトルを獲得する。それでも勝利の余韻に浸っている余裕はなかった。翌年、ランチアはまったく新しい16バルブ・エンジンを既存の8バルブ・エンジンと並行して投入。そのもっとも顕著な識別点は力強く突き出したボンネットバルジだが、ワイドなホイールとタイヤも人々の注目を集めるには十分だった。前後のトルク配分はリア寄りの47:53とされて舗装路におけるハンドリングが改善。そのラリーカーはサンレモ・ラリーでデビューすると、早速、成功に向けた道を歩み始める。しかも最高出力は量産車でさえ5500rpmで200bhpを発揮していたが、1991年10月には210bhpを生み出すエボリューション・モデルが誕生した。

もともとワイドだった前後トレッドが拡幅されたため、ホイールアーチはさらに迫力ある形状に改められるとともに、それまでの組み立て式から一体成型に製法が見直された。さらに、フロントのマクファーソン・ストラット式サスペンションはトップマウント部をより高い位置にすることで接地性を改善。フロントのバンパー部に冷却気採り入れ口を設けることでエンジンルーム内の温度上昇を防いだほか、テールゲートに新設された角度調整式ルーフスポイラーはダウンフォースの増加に役立てられた。さらにランチアは続々と限定モデルを投入するのだが、その手始めとして翌年の1月にデビューしたのが「5ワールド・チャンピオン」で、これはインテグラーレが5年連続でWRCチャンピオンに輝いたことを祝福するモデルだった。そして、この年の終わりには、さらにもうひとつのタイトルを獲得したのである。


アニエリ一族のために作られた?
このインテグラーレ”マルティーニ6”ではステッチが施されたターコイズ・ブルーのアルカンターラでインテリアトリムが彩られた。ところで、ワークスチームによるラリー参戦は1992年で終了したものの、インテグラーレは”アディショナル・タイム”に突入し、1年後にはまさに究極と呼ぶに相応しいモデルが登場する。ランプレディがデザインした伝統的な2リッター・ユニットはさらに改良が施されて最高出力は215bhpに到達。それ以外のモディファイはコスメティック系やデテールの見直しが中心だったが、生産台数を少なくすることで希少性を高めていく(なかには想像力を掻き立てる"ファイナル・エディション"なるモデルもあった)。そして1994年11月をもってインテグラーレのモデルライフは終焉を迎えたが、結果的に総生産台数は4万4296台に上った(編集部註:日本は1万台弱を輸入した最大の顧客だった)

これは、ホモローゲーション・スペシャルにとって悪い数字ではない。たとえば、最初に8バルブ仕様がデビューしたとき、イギリス市場のために確保されたのはたった50台だったが、それでも販売店はこのような車にマーケットが存在するとは思っていなかった模様だ。

おそらく、われわれが試乗したマルティーニ6であれば、ディディエ・オーリオル、ユハ・カンクネン、そしてミキ・ビアシオンといったドライバーたちが駆るマルティーニ・カラーのインテグラーレが、エグゾーストパイプから炎をまき散らしながら宙を舞うシーンが思い起こされたことだろう。いずれにせよ、エクステリアを飾るカラーリングとそこかしこに見られる特別なディテールは、この試乗車がどこにでもあるインテグラーレとはまったくの別物であることを物語っている。そもそもこの個体、書類上は最初のオーナーが実在しない企業だったことになっているが、実際はアニエリ一族のために作られた可能性が高いと見られる。

現時点ではっきりとしているのは、アウテックとロドルフ・ガッフィーノ・ディ・ロッシ技師が率いるスクデリア・デル・ピロータによって、このインテグラーレが作られたという事実だ。ちなみにスクデリア・デル・ピロータは、いくつかの重要な佳作の製作にも関わっていて、そのなかにはジャンニ・アニエッリのために作られたワンオフのインテグラーレ・コンバーティブル、そして教皇のヨハネ・パウロ2世に贈られたランチア・ジウビレオ・ランドレーなどが含まれる。こうした事実からもアニエッリ家との深い結びつきがうかがえるほか、いくつかの情報源は、このインテグラーレはもともとジャンニの息子であるエドアルドのために作られたもので、彼が逝去した後の2000年終盤に「適切な」ディーラーに売却されたと伝えている。

”Powered by Abarth”のロゴ
ボディの四隅に配置されたプロポーションは完璧で、スペシャルステージで障害物との接触を招く無駄なオーバーハングは皆無。インテグラーレのスタイリングは、まるで「棺の釘」のように強固で、それは精緻なエンジニアリングを象徴しているようにも思える。マルティーニ・ストライプはボディーサイドいっぱいに描かれた。そしてフロントフェンダーにはブレーキ冷却に用いられる縦型の排気用スリットが設けられているが、これはスリットの一部が埋められているベースモデルと異なり、オーバーフェンダーの膨らんだ部分全体が排気孔とされている。「パワード・バイ・アバルト」と描かれたテールゲートのバッジもこのモデルだけのもの。つまり、見れば見るほど新たな発見がある車なのだ。通常はルーフの両サイドに見える「雨どい」が平坦とされているのも特徴的。それはまるで、後に"Evo2"と非公式に呼ばれることになるモデルのプロトタイプのようでもある。

車両に乗り込むと、これがワンオフであることを示すヒントがさらに見つかる。ダッシュボードの造形は1970年代後半に作られたものだが、同様のことは安っぽく見えるスイッチ類についてもいえる。これこそ、デビュー当時は1.3リッター・エンジンを積むシティコミューターに過ぎなかったデルタというモデルの出自を物語るものだ。いっぽうで、アルカンターラで覆われたレカロのバケットシートは、どんな観点から吟味しても競技車両にふさわしい装備だ。パワーウィンド用に思えるセンターコンソール上のスイッチもこのモデルだけの特徴だ。これで通常のモデルでは、スパナが必要なリアスポイラーの角度調整が、車内からスイッチの操作だけで可能にしている。そしてエンジンを切ると、スポイラーは常にフラットなポジションに復帰する機能まで備わる。

マルティーニ・レーシングのロゴが入ったオーディオのカバーも開閉はスイッチで行なう。オーディオシステム自体も他にはないハイファイ仕様で、スピーカーはカーペットの下側に設けることで見えないように工夫されている。

サスペンションの仕様はどこかの時点で変更された模様であり、たとえば4本のダンパーには、本来、オイルリザーバーが取り付けられていたと見られる。この装備は、ハンドリングを損なうことなく、快適性をさらに向上させるために設けられたものだ。アウテックは、フェラーリ・エンジンを積んだテーマ8.32でも同様のことを試みたが、コストの観点により量産車では省かれてしまった。

・・・後編に続く。


編集翻訳:大谷達也Transcreation:Tatsuya OTANI
Words:Richard HeseltinePhotography:Jonathan Jacob
THANKS TO Paul Baker, omologatoconsultancy.com
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