曽野綾子さんに正田巌さんと、親しい方々が逝去し、深く悲しまれている美智子さま /(C)JMPA
3月18日(火) 21:00
「2月28日には、長年の交流があった作家・曽野綾子さん、そして今度は正田巌さん……。
大切な方を次々に失い、美智子さまは深く悲しまれています。悲嘆にくれる美智子さまに、上皇さまが優しく寄り添われているそうです」
そう語るのは皇室担当記者。美智子さまの長兄、正田巌さんが3月5日に逝去した。享年93。
「美智子さまは、4月3日まで喪に服されます。三笠宮妃百合子さまの『墓所百日祭の儀』が終わったことに伴い、上皇ご夫妻は3月14日に豊島岡墓地を拝礼される予定でしたが、それも取りやめられました」(前出・皇室担当記者)
日清製粉の社長を務めた正田英三郎さんと、その妻・富美子さんの長女として誕生された美智子さま。4人きょうだいで、亡くなった巌さんは3歳年上の兄だった。
「巌さんは東京大学法学部を優秀な成績で卒業し、日清製粉ではなく、日本銀行に入行しました。学究肌の思索的な方で、このお兄さまを美智子さまはとても敬愛し、信頼されていたのです。社交的でユーモアを好む美智子さまとは性格は対照的でしたが、巌さんは読書が好きで、同じく本が好きな美智子さまとは、お話も合ったのでしょう」(前出・皇室担当記者)
巌さんは、“穏やかな秀才”なだけではなく、芯の強さも持っていた。正田家に激震が走ったのは、’58年のこと、美智子さまが“皇太子妃候補”となったのだ。
宮内庁の申し出に対して母・富美子さんは「うちの娘はお役にたてるものではありません」と、一度はお断りしている。当時、一般国民が皇太子妃になるのは前例のないことだったのだ。だが上皇さまは美智子さまへのアプローチを続けられ、正田家の意見は割れることに……。
皇室に詳しいメディアプロデューサーの渡辺満子さんはこう語る。
「’58年11月には箱根の富士屋ホテルで家族会議が行われました。そのとき、ご家族のなかで最後まで結婚に反対されたのは、巌さんだったそうです。
お気持ちを整理するため欧州旅行にお出かけになり、一度はお断りの手紙を書かれた美智子さまのお気持ちを大切に思い、ご結婚後のことも、兄として心から心配されていたのだと思います」
そんな巌さんの心配は現実のものとなった。
「宮中では、ことあるごとに民間出身である美智子さまの言動が批判され、“粉屋の娘”といった心ない陰口がささやかれることもありました。とはいえ、つらいからという理由で、実家に帰ることもできなかったのです」(前出・皇室担当記者)
そんな孤独な美智子さまのお心の支えになったのが、遠くから見守り続けてくれているご家族、特に巌さんの存在だったようだ。宮内庁関係者によれば、
「お誕生日などの節目に、正田家の方々が御所に伺うことがありましたが、それ以外にも、兄・妹の交流は続いていました。
巌さんが’60年にアメリカのイェール大学へ留学する際、美智子さまはどうしてもご挨拶がしたいと、珍しく“お里帰り”という名目で対面されたという証言もあります。また同年に上皇ご夫妻が訪米された際にも、ニューヨークのホテルで、留学中の巌さんとお会いになっているのです」
■「もうちょっと太ってもいいけど…」
巌さんは、美智子さまのご体調も案じ続けていたようだ。インタビューで、ふとこんな言葉をもらしたこともあった。
「(皇太子妃殿下は)もうちょっと太ってもいいけど。ああいうところだから気苦労も多いのでしょう」(『現代』’82年11月号)
’93年に美智子さまが失声症で苦しまれていた際も、巌さんが駆け付けたという。
ドレスをリフォームして召され続けていた美智子さまだが、巌さんも質素な生活を心がけていた。実は“倹約”は正田家の家訓でもあったのだ。
かつて本誌は、正田家の家政婦を務めた女性を取材したが、富美子さんからこう教わったという。
「お野菜はよく洗って、じゃがいものくずでも、ねぎの青いところでも、捨てずに取っておくんですよ。あとからスープのだしに加えましょう」
父・英三郎さん、母・富美子さんが他界した後、正田家のあった土地には、品川区の区立公園「ねむの木の庭」が開園した。
「巌さんは、公園の近くに住んでいて、美智子さまは高齢になった巌さんをお見舞いするために、たびたび訪れられていたそうです」(前出・皇室担当記者)
“くず野菜のスープの思い出”を分かち合った兄を見送られた美智子さま。その深い悲しみを、春に咲くであろう「ねむの木の庭」の花々が癒してくれることを祈りたい。