川崎憲次郎が語る2人の名将(後編)
野村克也氏、落合博満氏という球史に残る名将のもとでプレーした川崎憲次郎氏。後編ではふたりの野球観、チームのマネジメント術を中心に語ってもらった。
名将として名を馳せた野村克也氏(写真右)と落合博満氏photo by Sankei Visual
【野村監督はプロデューサー】
──ヤクルト時代の野村克也監督は9年間で4度のリーグ優勝、中日時代の落合博満監督は8年間で4度のリーグ優勝。チームをマネジメントする手腕を、選手の立場からどう見ていましたか?
川崎
いま振り返ると、ノムさんは"プロデューサー"だったと思います。よく「主役と脇役がいるから、野球は筋書きのないドラマになる」と言っていました。ミーティングで選手にいろいろなことをオープンに伝えて、そこから「どういうプレーをすべきか」を選手自らに気づかせていました。全体を俯瞰(ふかん)してみる姿や手法が、私にはプロデューサーに映りました。
──野村監督は自ら「監督は気づかせ屋だ」と言っていました。
川崎
人それぞれ、性格も違うし、骨格も違うわけです。まさに十人十色。ノムさんの現役時代と同じことをやっても、三冠王を獲れるわけではありません。だから、手取り足取りの打撃指導は意外なほどしませんでしたね。ノムさんは選手に「こうしろ!」と型にははめず、いくつかのヒントを与えます。
その代表例として「打者の4分類」がありました。ストレート待ちで変化球を打つA型、内角か外角か打つコースを決めるB型、引っ張るのか流すのか打つ方向を決めるC型、球種にヤマを張るD型です。「おまえはどのタイプなんだ?自分に適する型を考えてごらん。その型なら、こういう方法でアプローチしてみたらどうだ」という提案型でした。
──コーチにはどのくらい任せていたのでしょうか。
川崎
ああいう感じの人なので、どの部門のコーチに対しても、とりあえず口を出していたと思います(笑)。でも「なぜそうしたのか」という確固たる根拠があれば、たとえ失敗しても絶対に文句は言いません。これは野村監督の現役時代、捕手としてリードした時に打たれたら怒り、抑えれば喜ぶという指導者がいたとかで反面教師にしていたそうです。
【嫌われ役に徹した落合監督】
──野村監督がプロデューサーなら、落合監督は何になりますか。
川崎
落合監督は監督就任1年目の2004年の2月1日、キャンプ初日に紅白戦を敢行しました。「補強をせず、現有戦力を10パーセント底上げする」と、自らノックをして内野手を鍛えた話は有名です。野手の夕食時間は夜8時と、とにかく質、量ともにすさまじいキャンプでした。
──その分、成果は大きかったですね。
川崎
そのシーズン、中日は川上憲伸、渡辺博幸、荒木雅博、井端弘和、英智、アレックス・オチョアと、6人のゴールデングラブ受賞者を輩出するなど、鉄壁の守備力で優勝を遂げました。まさに有言実行だったわけですが、そのオフ、20人近くの選手が戦力外になりました。私もそのひとりでした。強い組織をつくるために完全に割り切って、自分が"嫌われ者"に徹していたという印象です。
──そういう意味では、現場で実務を施す"ディレクター"ですね。一方、細かい指導はコーチに任せ、泰然自若に構えて采配をふるっていたようにも見えました。
川崎
もちろん、気になる選手には打撃指導をしていたという話は聞いたことがあります。ただ基本的にはコーチを信じ、任せていたようです。私が投げさせていただいた2004年の開幕試合は特例で落合監督が決めましたが、あとは森繁和コーチに託していました。
──落合監督は「自分で責任を取る監督」だと聞いたことがあります。
川崎
そうですね。もしも何か理由があったとしても、絶対に人のせいにはしないで、自分の責任にする人です。2005年に岡田彰布監督の阪神と優勝争いをしている時、「今日は監督の差で負けた」と発言するなど、指揮官としての責任感の強さが表れていました。
【野球で勝つには守備が大事】
──ヤクルト時代の野村監督と中日の落合監督の共通する点は、司令塔と呼ばれる捕手に古田敦也さん、谷繁元信さんという名選手が存在しました。
川崎
私は2人ともバッテリーを組ませてもらいました。ノムさんは、古田さんをプロ入り1年目から手塩にかけて育ててきました。「捕手は代理監督や」と、投手が打たれると「リードが悪い」と古田さんは叱られていましたね。投げているほうとしては、ほんとに申し訳ない気持ちでした。
──谷繁さんに対する落合監督の接し方はどうでしたか。
川崎
落合監督は「チームで唯一、代えがきかないのが谷繁だ」と、全幅の信頼を寄せていました。いずれにせよ、古田さんもシゲ(谷繁)も個性は強かったですね。野村監督も落合監督も、現役時代は三冠王を獲得するなど超一流の打者でありながら、「野球で勝つには守備が大事」という考えです。古田さん、シゲがいたからこそ、ヤクルトと中日は黄金時代を築けたのだと思います。
──新人選手の育成に関してはどうでしたか。
川崎
ノムさんは南海の(現・ソフトバンク)監督時代に佐藤道郎さん、藤田学さん、ヤクルト時代に伊藤智仁、阪神時代に赤星憲広、楽天時代に田中将大と各球団で新人王を輩出しています。
──どういう育成法だったのでしょうか。
川崎
南海時代は私もよくわかりませんが、ヤクルト時代はスカウトが獲得してきた新人投手を先発ローテーションに組み込んで、エースに育てていった印象があります。阪神では、赤星の武器である足を最大限生かしました。楽天の田中にしても、一軍の実戦のなかで鍛えました。選手の能力を生かす起用、采配はさすがですよね。
──野村監督は「再生の達人」でもありました。
川崎
トレードで環境が変わった実力者に対し、言葉でモチベーションを上げる手法で、やる気にさせるのがうまかったですね。投手は吉井理人さん(近鉄)、田畑一也さん(ダイエー=現ソフトバンク)、打者では辻発彦さん(西武)、小早川毅彦さん(広島)たちが、ヤクルトに来て復活を遂げました。
──一方、落合監督が中日の指揮をとった8年間、新人王はいませんでした。
川崎
新人が育たなかったというよりも、入り込む余地がなかったというほど充実した戦力でした。なにしろ二遊間は「アラ(荒木)・イバ(井端)」コンビですから。彼らも落合監督によって育てられた選手です。それに落合監督は、ベテランのプライドに気を遣っていました。いずれにせよ、野村監督と落合監督ともに「勝つことへのこだわり」と「選手ファースト」は共通していました。選手の気持ちを考えての起用だったからこそ、球史に残る強いチームを築けたのでしょうね。
川崎憲次郎(かわさき・けんじろう)
/1971年1月8日、大分県生まれ。津久見高から88年ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目から4勝を挙げ、2年目には12勝をマーク。プロ5年目の93年には10勝を挙げリーグ優勝に貢献。日本シリーズでもMVPに輝くなど、15年ぶり日本一の立役者となった。98年には最多勝、沢村賞のタイトルを受賞。01年にFAで中日に移籍するも、右肩痛のため3年間登板なし。移籍4年目は開幕投手に抜擢されるも成績を残せず、04年限りで現役を引退した。13、14年はロッテの投手コーチを務めた。現在は解説をはじめ、さまざまなジャンルで活躍している。
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