2月1日からNPB12球団が一斉にキャンプイン。新たな1年が始まったが、プロ野球選手としての生活をスタートさせたルーキーたちの一挙手一投足も注目を集めやすい時期だ。
そのなかで期待したいひとりが、NTT東日本からオリックスにドラフト6位指名で入団した片山楽生(かたやま・らいく)だ。大卒選手と同じ22歳の右腕は、心技体で大きな伸びしろを持っている。
オリックス6位指名のルーキー・片山楽生photo by Sankei Visual
【センバツ大会がコロナで中止に】片山は2002年10月07日に北海道音更町で生まれた。帯広市に隣接する町は、冬場に最低気温が氷点下10度を下回ることも珍しくなく、スピードスケートが盛んだ。片山も小学生時代は同競技を野球と並行して行ない、十勝エリアで3位に入るほどの実力だった。
だが、「スピードスケートは野球のためで、涙するほど嫌いでした。時には氷点下20度から30度のなかで滑るから耳は痛いし、指の感覚はないし、低い姿勢でずっと走るのでメチャクチャきついんです」と笑うように、中学以降は野球に専念。高校は帯広のスポーツ強豪校である白樺学園に進んだ。
幼少期から漠然とプロ野球に憧れは抱いていたが、「高校2年になったくらいで現実を知りますよね」と話すように、遠い世界に映ることもあった。
だが、2年秋の北海道大会で優勝し明治神宮大会に出場すると、投打で高いポテンシャルを発揮する姿に周囲の目が変わった。
「いきなり世界が変わった、人生のターニングポイントです。その時から明確にプロを意識するようになりました」
春になればセンバツ甲子園が待っている高校2年の冬は、かつてないほどの鍛錬に励んだ。しかし、その成果を披露する場は、無情にも奪われた。
「自信を持って死ぬほど練習しました。だからこそコロナは辛かったですね。気持ちの当たりどころもないし......」
2020年の春、新型コロナウイルスの感染拡大でまさかの大会中止。夏の甲子園も中止になった。それでも、明治神宮大会という結果的にこの代で唯一となった全国大会でアピールができ、進路が開けていた片山はひとり黙々とトレーニングを続けた。
一方で、そんな人間ばかりではないと片山が慮る。
「全体練習ができない期間は、公園や河川敷でピッチングしていました。僕は、コロナ禍の前の段階で先が開けていたのでよかったですけど、そうでない選手は......残酷でしたよね」
夏に交流試合という形でセンバツ出場を決めていた高校は1試合を行なうことができたが、片山の登板は事前に5イニングまでとチームで決められていたことからもわかるように、真剣勝負というよりも「思い出づくり」の要素が強い試合だった。結果は片山が先発し5回4安打4三振2失点。試合は山梨学院に3対8で敗れた。
甲子園を楽しむ周りの選手たちとは対照的に、入場を許されたスカウトへのアピールの舞台として捉えていた片山は精一杯腕を振り、まずまずの内容で聖地を去った。
秋のドラフト会議では結果的に8球団から獲得の可能性を示す調査書が届いたが、「(指名は)ないなと思っていました」と振り返るように、指名漏れにも大きなショックはなく、社会人野球の強豪・NTT東日本へ進んだ。
【苦悩の連続だった社会人での4年間】NTT東日本で過ごした4年間は、苦難の時期が圧倒的に長かった。
「後悔はあるよね。もっとこういうふうに送り出せたらとかね」と唇を噛むのは、投手を担当してきた安田武一コーチだ。片山とは会社の部署も同じで、片山は「たくさんご馳走してもらいましたし、野球選手としても、社会人としてもたくさんのことを教えてくれた"東京の父"です」と慕う。
現役時代は日本学園高、スリーボンド、三菱自動車川崎(ともに現在休部)で投手として活躍し32歳まで現役を続け、引退後すぐにコーチに。NTT東日本に来てからも16年、社会人野球生活37年の名伯楽だが、片山の育成には苦心した。
1年目は鮮烈なデビューを果たした。社会人野球最高峰の大会である都市対抗野球大会で2回戦の先発に抜てき。大会出場16回(当時)のTDKを相手に5回3分の1を投げて1失点と、高卒新人とは思えない堂々とした投球を見せた。
片山が「東京の父」と慕うNTT東日本の安田武一コーチphoto by Takagi Yu
安田コーチ、片山自身も「怖いもの知らずだった」と振り返る2年目の夏の都市対抗でも、好救援で白星を挙げるなど2試合に登板した。だが、以降は思うような結果を残せず、またチームの投手層の厚さもあり次第に登板機会が減っていく。
高卒選手のドラフト指名解禁となる3年目は4月以降、1イニングを超える登板は公式戦で一度もなく、調査書も1球団のみで指名漏れに終わった。決して片山が怠惰だったからではない。むしろその逆だ。安田コーチが言う。
「物事の考え方は大人びているから心配していなかったんだけど、考えすぎちゃう。『こういうボールを投げたい』というイメージばかり膨らんで、(投球の)タイミングが取れなくなってしまいました。昔みたいに『あれしなさい』『これしなさい』なんていうのはよくないと思っていたし、考えもしっかりある投手なので、彼を尊重しながらの指導でした。ただ逆に、もっと方向づけしたほうがよかったかなと思うところもありますよね」
試行錯誤の日々。それでも、片山の「もっといい投手になりたい」という一途な思いがブレることはなかった。安田コーチもその人間性には感心する。
「彼をつくり上げているのはなんなのか。本をすごくよく読むし、外部からよく物事を取り入れている。ご両親もすごくいい方なので、その血も引いているんでしょうけど、あんな人間なかなかいないですよ」
これまで多くの選手と触れ合ってきた安田コーチでさえ、そう舌を巻く。片山自身も読書でさまざまなものを得てきたと語る。
「中学校の時に朝読書の時間があって、面白いなと思ったことがきっかけです。本については、親父が"いくらでも買ってやるよ"って感じだったので、高校時代に寮で外出がそんなにできない時は"面白そうな本を10冊くらい送って"と頼んでいました。いろんなヒントが載っているので、教科書を読むみたいな感じですね。物事の考え方、組織、心理とか」
野球の本はほとんど読まず、最近のお気に入りはマーケターで実業家の森岡毅氏の本だと言い、「会社もチームも組織。森岡さんの本を読んで、やる気の引き出し方やモチベーションの上げ方、他者にどうすれば伝わるのかを学んでいます」と叡智を吸収した。
NTT東日本時代の片山楽生photo by Takagi Yu
そんな高卒4年目の22歳とは思えない人柄だからこそ、昨年は20代後半の投手もいるなかで投手リーダーを任された。
【スカウトが惚れた人間性】そして2024年は、自他ともに認める"考えすぎ"を吹っきって捉えるようにした。
「考えすぎは直せないんで、そのまま貫いちゃおうかなと。"考えすぎず"は変えずに、考え方が少しずつ変わってきたかなと思います。4年間いろんな道を通って遠回りしてきた分、整理しやすくはなりました」
誤った方向に行っても歯止めが効かなくなるのではなく、修正が効くようになった。
層の厚い投手陣のなかで登板機会が劇的に増えたわけではないが、夏場以降は調子が上向き、登板した試合は短いイニングながら無失点で抑えていくことが増えていく。
こうした成長をもうひとり、熱心に見つめている者がいた。片山の担当であるオリックスの岡崎大輔スカウトだ。23歳で現役を引退してスカウトに転身。現在26歳と、片山とは4歳しか違わない同スカウトは、あらゆる面で片山の伸びしろを感じとった。
「3月に楽天と練習試合をした時は全然よくなかったのですが、夏前に見に行った時にメチャクチャよくなっていました。フォームの収まりがよくなっていて、来年以降もやれるんじゃないかと思いました」
レベルの高い社会人野球の世界で苦労しているとはいえ、大学4年生と同じ年齢。このレベルの投手が東京六大学野球や東都大学野球にいたら、もっと目立っているはずだと思えた。そうして、ドラフト指名に至った。
また、岡崎スカウトは「人間性に惚れました」と力を込める。
「22歳で投手リーダーを任されて、どんな練習メニューでも先頭に立って行ない、試合後のミーティングで自分から積極的に発言していました。また周囲も『楽生が言うなら』と野球に対する姿勢を認めているように見えました」
技術面では、「テンポも変化球もいいので金子千尋さん(現・日本ハムファーム投手コーチ)のようなイメージ」と評価する投球に加え、フィールディングや牽制については「プロのなかでもトップベル」とまで高く評価しており、チームでは先発としての活躍を期待されているという。
プロ入りまでの道のりは平坦ではなく、二人三脚で歩んできた安田コーチや、その過程も含めて評価してくれた岡崎スカウトのあと押しがあったからこそ、プロの舞台に辿り着いた。
この先の道のりにもさまざまな起伏はあるだろうが、あと押ししたくなるポテンシャルと人間性を合わせ持つ片山ならば、周囲の人間の協力とともに乗り越え、頂にたどり着いてもおかしくはない。
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