空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生第4回
(第3回:白帯だった佐竹雅昭が、伝説の空手家に肋骨を折られ「本物の蹴りだ!」と興奮その背中を追いかけて日本一に上り詰めた>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第4回は、空手家として生きると決めたターニングポイントと、「UWF」前田日明への挑戦を直談判したエピソードを語った。
1986年10 月、前田日明(左)とドン中矢ニールセンの異種格闘技戦photo by 日刊スポーツ/アフロ
【賞金100万円を目の前に「目の前が真っ暗に」】1987年、大学4年時に正道会館の「全日本選手権」で初優勝した佐竹が、空手家として生きていくことを決めたターニングポイントとなったのは、1988年4月2日に両国国技館で開催された「格闘技の祭典」だ。
この大会は、1987年1月21日に50歳の若さで急逝した漫画原作者・梶原一騎氏の追悼大会。空手、キックボクシング、シュートボクシング、プロレスなど、あらゆる格闘技の選手たちが一堂に会する画期的なイベントだった。
「当時は正道会館のチャンピオンになっても、世間の人はまったく僕の名前も存在も知らなかった。たまに、テレビ大阪や吉本興業さんの番組などに出演することはありましたけど知名度は低いまま。『大学を卒業したら空手をやめて、一般企業に就職するのもありかなぁ。これからどうやって生きていこうか』と悩んでいたんです。
そんな時に、『梶原先生の追悼大会に出てみないか?』と誘われました。優勝賞金は100万円。『よし、100万円をもらって就職への足しにするか』という安易な考えで、出場を決めました」
梶原氏の追悼大会では、16人の空手家による「空手リアルチャンピオン決定トーナメント」が開催された。6流派の選手が出場した勝ち抜き戦に、正道会館からは4人が参戦。佐竹は順当に勝ち上がり、決勝戦の相手は同門の後輩である柳澤聡行となった。
「柳澤は当時、正道会館で『佐竹軍団』と呼ばれていた、かわいがっていた後輩のひとりでした。道場の組手でも負けたことがなかった。だから決勝戦を前に、『100万円はもらった』と優勝した気になってしまったんです。それがいけなかった。
試合は再延長までもつれましたが、僕が優位に進めていました。一本は取れなくても『判定で勝てる』と思った瞬間......目の前が真っ暗になったんです。僕の突きに合わせたヒザ蹴りを食らってしまった。倒れはしなかったんですが、足が地面につきそうなくらいのダメージがあって。『しまった』と焦って必死に攻めましたが、時すでに遅し。再延長の1分間は瞬く間に終わり、判定で負けました」
【空手家として生きると決めるも「こんな生活で大丈夫かな?」】試合後、優勝を過信した自分が許せなかった。
「悔しくて仕方がなくて『これが本物の戦いなら殺されていた。俺は何を油断していたんだ』と自問自答を繰り返しました。安易な気持ちで出場して、『勝って当たり前』と思っていた自分が許せなかった。その敗戦で目が覚めました。『俺が生きる道は、就職じゃない。もう1回、空手家を志した中学生の時の気持ちに戻ろう』と。
当然、周囲は大反対です。実はこの時、不動産会社への就職が決まっていたんです。待遇もよかったから、さんざん『もったいない』と言われました。だけど僕は『そういう安定を求める生き方は俺じゃない。公園で毎日、木を相手に突きや蹴りを練習した頃のように、もう1回笑われよう』と思ったんです。
自分が決めた道をやり通さないで人生を終わりたくない、もう1回ゼロからやろうと心を入れ替えて、空手家として生きようと思いました。この選択が、のちのK-1にもつながっているんです」
当時を振り返った佐竹氏photo by Murakami Shogo
空手家として生きる道を選んだ佐竹は、正道会館の指導員になった。
「月給は5万円でした。就職していれば、その何倍かはもらっていたでしょうけど、あの5万円のおかげで、『もっと強くならないといけない』と甘えずに済んだのですが......」
1988年には、正道会館の「全日本選手権」で2連覇を達成。ただ、私生活は荒んでいた。
「常に『こんな生活で大丈夫かな?』という不安もありました。田島晴雄さんという風来坊な先輩がいて、稽古終わりに『行くでしょ?』とパチンコに誘ってくるわけですよ(笑)。田島さんは愛嬌のある憎めない方で、僕も断れなくて一緒につるんでました。ただ、そんな生活を続けながら、いつも心のどこかに『こんなんじゃダメだ』というモヤモヤがありました」
そんななかで一冊の雑誌を目にする。ベースボール・マガジン社が発行する格闘技専門誌『格闘技通信』だった。そこに写っていたひとりのプロレスラーに目が釘付けになった。
「前田日明さんがポルシェに乗って、腕にロレックスをはめていたんです。その姿を見た時に電流が走って、『格闘技で食っていくためには、これしかない!前田に勝って成り上がってやる』と。そこから、前田さんと対戦するためにはどうすればいいのかを考えるようになりました」
【前田日明に「僕と勝負してください!」と直談判】前田日明は1978年8月に新日本プロレスでデビューし、1984年4月にユニバーサルプロレス(UWF)へと移籍。団体が経営不振に陥り、1986年から「UWF軍団」として新日本に復帰すると、同年10月にキックボクサーのドン中矢ニールセンとの異種格闘技戦で勝利を飾るなど、「新格闘王」と呼ばれて時代の寵児となった。
1987年11月、6人タッグマッチで長州力の顔面を蹴って負傷させたことが原因で、1988年2月に新日本を解雇となる。だが、同年5月に新生UWFを旗揚げ。興行は月1回という斬新な経営方針と、格闘技色を全面に押し出すプロレスで大ブームを巻き起こした。佐竹が『格闘技通信』で前田を見たのは、この「UWFブーム」全盛期の頃だった。
「僕はプロレスについてまったく知識がなかったので、前田さんが人気だということを知らなかったんです。それで調べてみると、前田さんがUWFという団体に所属していることがわかった。試合のビデオも見たんですが、その時は『大したことないな。これは勝てる』と思ったんです」
前田を倒せることを確信した佐竹は、行動に出る。
「前田さんに直接、挑戦状を渡すことを決めました。『格闘技通信』には前田さんのスケジュールが載っていて、近々、都内で開かれるサンボの大会にゲストで来場することがわかった。『よし、ここで渡すぞ!』と即断して、先輩の田島さんと一緒に乗り込みました」
さまざまな業界に広い人脈を持つ田島は、前田が当時、空手時代から師匠と仰いでいた田中正悟氏と旧知だった。その縁で、前田とも知り合いだったのだ。
「体育館に着いたら、前田さんがいて。まったくのアポなしでしたが、田島さんが『前田ちゃん!』と声をかけた。そこで僕は、『前田さん、僕と勝負してください!』と直談判しました」
まったく予期しない佐竹の挑戦表明にも、前田は落ち着いて諭したという。
「前田さんは『ちょっと待て』と制止して、『佐竹、お前のことは雑誌を読んで知っている。ただ、立場というものがある。俺はプロだ。物事には順序がある。段取りを踏んでこい』と逆に提案されました」
挑戦状は不発に終わった。しかし、近い将来の対戦実現に向けて動き出す。それが、前田が倒したニールセンとの一戦だった。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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