長年、公衆の面前から姿を消していたプロトタイプで、すでにマルチェロ・ガンディーニはマセラティ・カムシンの画期的なスタイルをほぼ完成させていた。マーク・ソネリーが同車の歴史を探り、市販車との細部の違いをひもといた。
【画像】エンスージャストの間で話題になっていた、マセラティ・カムシン・プロトタイプ(写真22点)1970年代初頭、シトロエンによる買収によりマセラティには変化が迫っていた。ジウジアーロがスタイリングを手掛けたギブリは、たしかに美しかったが、登場から時間が経過しており、もはや時代遅れであった。一方、ミドシップのボーラとメラクはマセラティの現代的な思考が具現化したものだった。これらに加えて、同社が必要としたのはボーラやメラクに匹敵するような、フロントエンジン・リアドライブのジェントルマンズ・グランドツアラーの投入であった。
ガンディーニの仕事
新型車のデザインをするにあたって、マセラティがピニンファリーナに接触した形跡があり、モデナ在住の個人アーカイブには、ピニンファリーナからマセラティに宛てた書簡が存在する。しかし、ピニンファリーナはフェラーリのデザインを手掛けていたために、マセラティの取締役会ではベルトーネを選出し、同社に在籍していたマルチェロ・ガンディーニの手に委ねられることになった。
デザイン自体はアルファロメオ・カラボやランチア・ストラトス・ゼロ、さらにはランボルギーニ・カウンタックのようなウェッジ・シェイプを踏襲するものだったが、フロントエンジン車に当てはめるのは初めての試みだった。筆者がガンディーニに確認したところ、デザインの出発点はランボルギーニ・ウラッコではあったことを認めたものの、単にリアガラスの面積を増やしたわけではなかった。
結果は見事なものだった。当時としてはめずらしく、本稿にて紹介するシャシー番号AM120-004(プロトタイプ)と量産車はほとんど差異がなかった。ボンネットには非対称なルーバーがプロトタイプの段階から装着されており、パワフルなエンジンが搭載されることを予感させていた。フロントからリアかけて流れるような水平面と垂直面の交錯は、「繊細」の傑作であった。巨匠がかつてランボルギーニ・エスパーダでガラスパネルをリアエンドに埋め込んだように、カムシンでもガラスパネルが用いられている。「カムシン」という車名は地中海の風に因んで名づけられ、幻想的で人目を惹くデザインが巨匠によって奢られた。
V8エンジンの存在感
カムシンのハードウェアは、伝統と革新を融合させたものだった。マセラティで唯一、排気量4.9リッターのV8エンジンを搭載し、キャブレターを備えたことで伝統の美しい音色(轟音というべきか)は失われなかった。トランスミッションはZF製5段MTかボーグ・ワーナー製3段ATが選択可能だった。
シャシーには鋼管製のサブフレームを備えた鋼板製モノコック構造を採用した。マセラティのチーフエンジニアであったジュリオ・アルフィエーリが、ダブルウィッシュボーン方式の前・後サスペンションを設計し、ジオメトリーには特別な配慮が払われていた。また、振動を打ち消すためにディファレンシャルはサブフレームにマウントされた。
ミドシップを採用したボーラとメラクが持つオーバーステア特性とは対照的に、カムシンでは約50:50の前後重量配分により、ドライバーが予測可能なハンドリングが実現された。そして、シトロエン由来の要素が加わったことも特筆すべき点だろう。そのハイドロニューマチック・システムのノウハウが持ち込まれ、カムシンでは高圧油圧システムを採用し、ブレーキ、クラッチ、リトラクタブル・ヘッドライトが油圧でアシストされ、パワーステアリングにもシトロエンの方式を採用した(編集部註:シトロエンが SMで初採用した DIRAVI(Direction a rappel asservi)と呼ばれる油圧利用のパワーセンタリング方式。自動で中央に復する)。さらにシートの調整も油圧で操作した。これにより、街中でも非常に軽い操作が可能になり、取り回しの良さ、運転しやすさは、当時のGTカーの中で唯一無二であった。
こうした高価な機構はシトロエンによって押し付けられたものではなく、マセラティの前オーナーであるオルシ家の厳しい予算制限から解放された反動であったように思えてならない。なお当時、シトロエンを率いていたピエール・ベルコ社長はシトロエンからマセラティへ4名の社員しか派遣しておらず、役員やエンジニアに口出しすることを禁じていたそうだ。
生産化に向けて
今回、取材したプロトタイプ(AM120-004)の誕生以前には、白色のボディに黒い内装の粗い仕上げのテスト車両(AM120-002)が存在した。当該車両はギブリのように長いテールを持ち、テールの下部にはスペアタイヤが収納されていた。テスト車両の完成後、工場長であったギィ・マルレー、チーフエンジニアのアルフィエーリ、そしてガンディーニがモデナの本社に集い、改修点について議論した。
ガンディーニはテールをより短くしたいと考えたが、スペアタイヤの存在が妨げになっていることに気づいた。そこでアルフィエーリが提示した解決策は、フロントノーズ下のスペースを活用することだった。フロントバンパー下部のヒンジ付きのフロントグリルには、メラクでも用いられたスペースセーバータイヤが収められることになった。
AM120-002はアウトドローモ・モデナでテストされ、初期のボーラ・グループ4マシンと走行時間を共有した。高速走行ではAM120-002のフロントノーズが揚力を生み出すことが判明したため、後継のテスト車両ではラジエターの開口部が広げられた。1973年12月、AM120-002はクラッシュテストに使用され、残骸は廃棄された。ただ、マセラティ社内では、ほぼAM120-004の姿でカムシンとしてラインオフすることが決まっていた。大型のラジエターグリルを備え、非対称のボンネットベントを初採用し、スペアタイヤをフロントに移設して短縮されたリアエンド、給油口はナンバープレートの背後に配置された。ボディカラーにはゴールドの塗装が選ばれたが、マセラティがこれまで使用してきたオロ・ケルソやオロ・ロンシャンには見えない。色調決定は後述する。
プロトタイプと量産型の違い
ベルトーネの広報部長であったジャン・ベッペ・パニッコは、AM120-004をトリノ近郊のアヴィリアーナにあるゴルフコースに持ち込み撮影。その写真がプレスリリースで世界に発信されたマセラティ・カムシン最初の姿であった。一般公開されたのは1972年11月1日のトリノ・モーターショーで、来場者を魅了した。『AUTOSPORT』誌においてジョン・ボルスターはカムシンを「カー・オブ・ザ・ショー」と称賛し、次のように続けた。「スペシャリティ・カーのカテゴリーにおいて、カムシンは断然最も魅力的な車両である。ベルトーネによって展示されたこの車は、すべてのボディラインで調和が取れていて、まさに完璧だ。4.9リッターの大排気量V8エンジンを搭載しているが、興味深いことにウィッシュボーン式のリアサスペンションを採用している。ギブリとインディがリジッド式リアアクスルで古さを感じ始めていたので、これは歓迎すべき改良点だ」
イタリアの同業者で、後にイタリアのF1テレビ中継の声となったマリオ・ポルトロニエーリは、「ベルトーネによる目新しさの風」と題した記事で取り上げた。ドイツの『 Auto Motor und Sport』誌は、AM120-004のデザインをショーにおけるイタリア芸術の頂点と評した。トリノ・モーターショーから 4カ月後の 1973年 3月、AM120-004はジュネーヴ・ショーにて再び展示された。今回はベルトーネではなくマセラティのスタンドに置かれ、2回目となるがタイヤにはピレリ・チントゥラートの文字が入っていた。余談だが1973年10月のパリ・ショーで量産モデルのAM120-010が公開された際は、同じくレタリング入りのミシュランのタイヤが装着されていた。というのも当時、シトロエンはミシュランの親会社であったのだ。
ガンディーニはAM120-004で量産型カムシンの形状をほぼ完成させていたが、細部で異なっている。AM120-004のボンネットはアルミ製、ボンネットのルーバーは両側でそれぞれ1本多く、フロントのウィンカーレンズはアルフェッタ用の長方形ではなく、アルファ・モントリオール用の六角形の部品を採用していた。テールライトも異なり、量産型ではプレキシガラスになるが、ガラスが使われていた。また、フロントグリルは3本ではなく7本のスラットを持ち、フロントバンパーは樹脂製ではなくクロームメッキが施されていた。リアのホイールアーチはフラットで縁がなく、サイドシルには開口部がない。プロファイルもわずかに異なり、ドアガラスの高さが1cm低かった。
内装はプロトタイプと量産型では大きく異なる。木製リムのステアリングホイール、独自のセンターコンソール、シート、ドアトリムを備え、後部座席はU字型のベンチシートが奢られていた。つまり、遠くから見ると同じように見えるかもしれないが、近くで見るとほぼすべての部分が量産型とは違っていた。さらに、クロームの「カムシン」ロゴさえもわずかに異なっているから面白い。
オイルショック
1973年、パリでのお披露目を経てカムシンの未来は非常に明るく見えた。優れた血統を持つグランドツアラーで、性能面で競争力があり、なおかつ多くのライバル車には見られない運転のしやすさを備えていた。しかし、カムシンが正式に発表されてわずか2日後の10月6日、第四次中東戦争が勃発し、1973年のオイルショックを引き起こした。破壊的な燃料価格の高騰、石油の禁輸と不足、ガソリンスタンドでの終わりのない行列、日曜日の運転禁止、そして広範囲にわたる速度制限の導入が、世界的な経済ショックまでもが同時に起こった。スポーツカーやGTカーが一夜にして”ポリティカル・コレクトネス”に反する存在になってしまい、販売は激減。シトロエンはすでに苦境に立たされており、マセラティも瀕死の状態に陥ることになった。そうした渦中の1974年に入ってすぐ、カムシンのデリバリーは開始された。
出鼻をくじかれたカムシンの販売をさらに悪化させたのは、そのアメリカ仕様が衝突安全規定に沿ったことで、不格好になったことだった。”ゴミ収集車並み”と評された衝撃吸収式バンパーが取り付けられただけでなく、垂直なリアガラスに埋め込まれたブレーキランプが禁止されたため、ガラスの下部に移設せざるを得なくなった。アメリカのマセラティ輸入業者であったボブ・グロスマンは数十年前に、「このスタイリングの変更がアメリカでの販売を台無しにした」と私に語ったことがある。
結果として、アメリカでのカムシンの販売台数はわずか155台にとどまった。ガンディーニはアメリカ仕様には関与していなかっただけでなく、ロサンゼルスのモーターショーで初めて目にしてショックと憤りを感じたと、本人の口から聞いている。
プロトタイプのその後
マセラティの歴史家であるファビオ・コリーナが確認したところによると、AM120-004は1974年3月26日にシチリアの顧客、ロザリオ・ボンバチに販売された。納車から9カ月後、軽微な前部の事故で工場に戻され、量産車のフロントバンパー(他のクロームフロントバンパーは存在しなかった)、ベンチレーテッドノーズへの交換、そして整備が施された。その後、ボディは黒に塗り替えられた。シチリアには高速道路がほとんどなく、低速走行と暑い夏のため、ベンチレーテッドノーズによる改善された冷却性能は妙案だった。なお、内装が今日まで完璧に保存されていることから、屋内に駐車されていたに違いない。
1982年1月、AM120-004は2人目のシチリアの所有者であるドメニコ・ニチタ博士の手元に渡り、1993年に抹消登録され車両は保管された。それから5年後、とあるオランダ人がAM120-004の存在を聞きつけ、自動車ディーラーをシチリア島に送り込んできた。驚くことにこの自動車ディーラーは、AM120-004をオランダまでの全行程を自走で挑み、イタリア本土までは辿り着くことができた。とはいっても、シチリア島からナポリまでのフェリーに乗り込めただけのことだが。
長年、保管されてきた車を無理やり始動させて、いきなり走らせてろくなことはない。案の定、フェリーを降りてすぐにトラブルに見舞われた。彼はAM120-004をナポリからモデナにある評判の高いワークショップ、カンディーニ・マセラティまで積載車で運ばせた。ジュゼッペ・カンディーニはシリンダーヘッドを取り外してトラブル箇所を特定し、見積もりを出したがオランダの自動車ディーラーは修理を断り、車と部品を自国に持ち帰ることを選択した。その後、当初の買主が取引から身を引き、AM120-004は暗い倉庫の中で埃を被りながら、長期間、放置されることになったのである。
時間の経過とともにカムシンへの関心が高まり、エンスージャストの間ではプロトタイプの所在が話題に上るようになった。そんな中、オランダのマセラティ愛好家でカムシン通のウィル・ファン・リーロップが、偶然にもAM120-004のことを耳にした。ある写真家が倉庫でこの車の写真を撮るよう依頼されたことがきっかけだった。後部に2つに分かれたバンパーがあると聞いて、ファン・リーロップはすぐにそれが何であるかを悟り、自動車ディーラーに電話をかけて見せてもらえないかと頼んだ。
AM120-004はヘッドガスケットの漏れのためエンジンのオーバーホールが必要だが、シリンダーブロック下部とヘッドは良好な状態だった。ファン・リーロップは粘り強く交渉を重ね、2007年についにこの車を購入した。それは一目惚れだった。ファン・リーロップが子供時代、寝室の壁を飾っていた写真に写っていた車両そのものが、彼のものになったのだった。
ウィルが4年後に私を自宅に招待してくれた時、私は初めてこの車を見ることができた。ボディは黒色のままで、ボディの細かい傷の奥にはゴールドが見え隠れしていた。内装は完璧に保存されており、プロトタイプと量産型カムシンの違いを発見するのは興味深かった。
その後、2012年6月に開催されるカムシン・クアランタ(40周年記念)インターナショナル・リユニオンに参加するため、AM120-004は大規模な修復作業が施された。当時の写真を基に、クロームのフロントバンパーが再現され、フロントノーズは元のベンチレーションのないプロトタイプのものに戻されたほか、ボディはオリジナルのゴールドの色調に再塗装された。調査の結果、この塗料はマセラティが用いていた色ではなく、ベルトーネがアルファロメオ・モントリオールに使用していた「オロ・キアーロ・メタリザート」であることが判明した。作業のほとんどは職人、イヴォ・スティーンチェスによって成し遂げられた。準備が整うと、AM120-004はフランスのブルゴーニュ地方で行われた記念祝賀会に運ばれた。かくいう記念祝賀会の主催者は、他でもない私だった。
ヨーロッパ各地から集まった26台のカムシンと並べられたAM120-004は、マルチェロ・ガンディーニとマセラティ社内の歴史家、エルマンノ・コッツァによってアンベールされた。常に物静かで引っ込み思案な性格で、この手のイベントになかなか参加するタイプではなかったガンディーニだが今回ばかりは違った。ファン・リーロップがサプライズギフトとして、オロ・キアーロ・メタリザート色にペイントされたオランダの木靴を手渡すと、ガンディーニは大笑いしていた。敬意を持って接するカムシン・オーナーたちのグループは居心地が良かったのであろうし、大切にされているプロトタイプの姿に再び出会えた喜びと満足感に満ち溢れていたようだった。
今日でも、AM120-004のグローブボックスの蓋には記念祝賀会でのガンディーニのサインが残っている。そして現在、できるだけ多くのオリジナルパーツを保持するという指示のもと、ようやくエンジンに手が付けられている。なお、本誌のために撮影したAM120-004は、1972年にアヴィリアーナのゴルフコースで行われた公式プレス撮影以来である。
カムシンがデザイナーたちのお気に入りであることは、決して驚くことではないだろう。例えば、自身もウェッジデザインの提唱者であった故オリバー・ウィンターボトムがそうだった。イアン・キャメロン(ロールス・ロイス)、ピエール・カスティネル(プジョー、その後ルノーとタタ)、ジャン=ピエール・プルエ(ステランティス)らカムシンを所有しているか、かつて所有していた。多くの建築家たちもカムシンのオーナー/元オーナーとして名を連ねている。それだけカムシンは優れたデザインであった証ではないだろうか。
カムシンは耳元でエンジンを轟かせる非現実的な設計とは無縁であり、洗練された大人のための傑作と言える。成熟した美的感覚と鑑識眼を持つエンスージャストたちを魅了する究極のデザインであり、特にAM120-004はガンディーニの理念が完璧に結実している。他の追随を許さない存在なのである。
編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)Transcreation: TakashiKOGA (carkingdom)
Words: Marc SonneryPhotography: Dennis Noten
マセラティの歴史家であり著者のマーク・ソネリーは、20年間にわたり国際マセラティ・カムシン登録管理者を務めてきた(
maseratikhamsinregistry.net)。現在、マセラティ・カムシンの書籍を執筆中で、本稿はその要約版である。
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