「サッカーが誰にも見向きもされない時代、賀川さんがあの手この手で盛り上げようとしてくれた。そのことを皆さんに知ってもらえると僕もうれしい」
僕にとっては"日本の親父"。あの人がいなければ、今こうして日本にいなかったと思う。ブラジルに戻り、以前にやったことのある鉄骨関係のセールスマンになっていたんじゃないかな。
先頃、サッカージャーナリストの賀川浩さんが亡くなられた(享年99歳)。賀川さんといえば、もともとサンケイスポーツの記者で、フリー転身後も含めて、W杯は2014年ブラジル大会まで計10大会を取材。その功績が評価され、15年に日本人として初めてFIFA(国際サッカー連盟)会長賞を受賞した。当時90歳。その後も現役最年長のサッカー記者として活動を続けていた、とんでもない人だ。
そして、何を隠そう、賀川さんは僕の大恩人。彼のおかげで今の僕がある。1977年、僕がコーチを務めていた実業団チームの解散が決まった。ビザの問題もあるし、もうブラジルに帰るしかない、そう考えていたときのことだ。ちょうど、日本全国を行脚するサッカー普及プロジェクト(「さわやかサッカー教室」)の準備が進んでいて、賀川さんが「セルジオ君にやらせたほうがいい」と日本サッカー協会にプッシュしてくれたんだ。
それが僕の活動の新たな土台になった。彼には「悪いけど、あなたしかいない。もう少し日本に残ってくれ」と言われたけど、僕に言わせれば、賀川さんのおかげで日本がアウェーからホームになった。
サッカー教室にもよく取材に来てくれて、「セルジオは子供に人気があるなあ。きっとあなたの日本語のレベルは、子供にとってちょうどいいんだね」と言われたこともあるんだけど、「確かにそうだな」と納得したことを覚えている(笑)。
サッカー教室以外にも、専門誌で一緒に連載をやらせてもらったり、地方の指導者を紹介してもらったり、何かと目をかけてくれた。僕が関わるようになったアイスホッケーチーム(H. C.栃木日光アイスバックス)の運営についてもアドバイスをくれた。
そういうご縁もあって、14年ブラジルW杯の時には、恩返しの意味を込めて現地でのアテンドをさせてもらった。賀川さんは当時89歳。体力的な不安もあって、最初は行かないと言っていたんだけど、「僕の国でやるW杯を見てほしい。一緒に行きましょうよ」と誘ったんだ。
現地では大会最年長記者としてFIFA公式サイトで紹介され、連日のように取材を受けていた。そんな中でも、精力的に手書きで原稿を書いていたのが印象的だったね。だから、15年のFIFAの表彰は自分のことのようにうれしかった。
サッカーの話をするのが大好きで、話し始めたらいつまでも止まらない。
そんな賀川さんが亡くなられたのは残念だけど、日本サッカーがここまで発展したのを見届けられて、本人は満足しているんじゃないかな。そして、サッカーが誰にも見向きもされない時代から、あの手この手で盛り上げようとしてくれたことを、あらためて思い出してもらえると僕もうれしいね。
さて、突然だけど、今回でこの連載は最終回。18年もの長きに渡り、ご愛読ありがとうございました。本当に長かったよね(笑)。年明け以降は、同じ集英社のスポーツ総合ウェブサイト『web Sportiva』に形を変えて登場する予定なので、そちらを楽しみにしてください。
構成/渡辺達也
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