『日本の政治』(東京大学出版会)著者:京極純一
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山崎
ご承知のように、著者は日本を代表する政治学の第一人者ですが、その人がいわば研究生活の中仕切としてまとめた本です。型のごとく、近代日本政治の成立史を語り、さらに西洋と日本の文明論的対比をした上で、日本の独特の政治制度とその運営のなまなましい実情について、具体的に、裏面をも覗き込んだ目で書いてあります。
とくに面白いのは、日本の政治の特性を語った第三部の「権力の運用」で、これは政治論であると同時に、みごとな日本学入門になっています。そうなるのも実はもっともで、経済や科学、技術に比べると、一国単位で運用される政治は、土着的性格が強く、世界的な影響を受けつつも閉鎖的にならざるをえない。そこに、国民の特質が一番よく表れてくるわけです。
よく知られているように、近代日本の政治理念は、西洋から受けいれたものでした。ところが実際の政治は、その理念通りに進んでいない。かねてから多くの近代主義的政治批評家は、それを日本の遅れであると看做してきました。しかしこの著者は、それは遅れではなく、日本という国における西洋的理念の特殊な表れ方であり、一つのあり得べき、あるいはやむをえない政治の形であると考えています。
著者はまた、人間の有限性、人間とは過ちを犯しやすいものである、ということを認める立場から政治を見ており、その結果、さまざまな正義、不正義、さまざまな政治的人間の性格が、かなり痛烈に相対化されて捉えられています。 わが国では、ほぼ一九五五年ごろから保守一党支配が固まったわけですが、それに対して常に批判的な野党、およびジャーナリズムを対比させ、互いに切りむすびながら、しかし一向に現状全体は変らないという事実が正確に捉えられています。
その対比を、著者は、正論派と俗論派、情熱的正義派と堅気の人間、あるいはタテマエとホンネの対立というふうに捉えているのですが、われわれの記憶に新しい、血みどろの政治的葛藤も、この人の目には、それ自体が日本的コスモスの秩序の表れ、波が立っては、またおさまってゆく自然な生命の動きというふうに見えているようです。
つまり、タテマエを吐く情熱的な正論派がつねに波紋は投げかけるが、結局は、堅気の人間の俗論的ホンネによって取りまとめられていく。それが、日本の政治の基本的な図式だというわけです。 特徴的なことは、著者は分析の道具として、政治の現場やジャーナリズムで使われている俗語を駆使します。勝気、強気、元気、空気といった言葉が、学術語と同じレベルで使われ、判官贔屓(びいき)、親心、お神輿(みこし)、真人間、人でなし、などという言葉が、翻訳されえないキーワードとして用いられています。
著者は、意図的に一見無愛想な、教科書風、官庁文書風の文体をつくりあげておいて、そこへ突然「泣く子と地頭」とか「腹のすわった大人」といった言葉を投げいれるのです。
そこには著者の皮肉な目、悲しみを秘めたユーモアが感じられます。ビアスの
『悪魔の辞典』
を思わせるようなおかしさ――肩肘はった用語が、突然浴衣を着て尻をまくったような言葉と連合する、観念連合という技術ですが、その結果生じる痛切なユーモアが全篇に溢れているわけです。
私はこの本で一番感心したのは、そういう不思議な文体でして、たとえば、〈個人本位、個人リスクの原理のもとで個人として競争の戦場に参加して活躍する場合、その活動を保証する第一の条件は「元気」である〉。そして人間が「元気」であると、〈「気がつく」ことも多く、戦場の活動の第一の前提である周到な注意と詳細な観察が可能となる。同時に「気がきく」状態であるから、機略縦横の「気働き」が創意工夫のある新機軸を生む。その上「気配り」が行き届いて……〉という調子なのです。
政治という、どうしようもないドロドロした世界に、科学のメスをもって臨むことの宿命的難しさ。同時に、日本の特殊な状況に普遍的な理性をもって臨むことの辛さ。さらにこの大衆社会に知性をもって立ち向うことの悲劇――そういう悲劇に健気に耐えている人からは、ユーモアが生まれざるをえない。ユーモアを理解するこの著者には多分叱られないと思いますが、私は、この本は本来の意味でのユーモア文学の一面をもった作品だと思いました。
木村
これは大変な本ですね。私が日ごろ、日本についていやだなあと思っていることが全部出てくる。「強きを助け弱きを挫く」とか、「虎の威を借る狐」とか「人間万事、色と欲」とか。(笑) それらの言葉を使って、日本人と日本社会の特性が見事に描かれているわけです。
ことにこの問題を扱った第二部「秩序の構図」を、大変に興味深く読みました。たとえば、「ゴメンナサイ」と謝れば、〈カオスに汚染された時間はゼロにもどり、原初の神話の時に回帰する。……この神話劇の主宰者、形而上的実在の日常世俗の表現が母親である。「ゴメンナサイ」と泣いて謝る幼児を「ママが悪かったの」と涙で受けいれ、抱擁する「赦しの母」である〉。そして人は生まれ変って真人間にもどり、一から出直すことになる。
あるいは、日本の社会では「思いやり」のある人間が理想とされるわけですが、それも「親切の押売り」がすぎると、〈「それでは私の気がすまないから」と「気がすむ」正統性だけが引用されて、「思いやり」ぬきに自己満足の押しつけがなされる〉、したがって〈「思いやり」の要請とその制度化が、集合体の一体感を培養する上で、つねに有効であるとは限らない〉という具合に、日本社会の表も裏も描き分けられています。
もう一つあげますと、「根回し」について、〈こまめに足を運び、顔を見せ、声を掛け、「差し」で話すことをする。そして「差し」の話も時間をかけ、じっくり話す。まず雑談の後、慎重に用談に移り、丁重にまた重々しく主題を取り上げ、相手を重要視していることを分らせる〉とあります。 この説明で、初めて分りました。時々この人何を話しに来たんだろうと思うような体験を味わうことがありますが、あれは根回しされていたんですね。(笑)
こういう描写は日本人の心性の奥深くに立ち入っていて、まことに秀逸な書物だと思いました。
丸谷
本郷の法学部の先生がこういう本を書くとは、と感心しました。なかなか面白かったんですが、美点はお二人がおっしゃったとおりなので、少し文句をつけましょう。
私は昔から、概説書に名著なし、と考えているんです。なしというより、ありえない。なぜなら、概説書はあらゆる項目、あらゆる局面について包括的、並列的に書かなきゃならない。すると自分自身の書きたい、切実な主題を追求してゆくことと、矛盾してしまうわけですね。だから全体としては一種朦朧(もうろう)とした姿かたちの本ができあがる。
ただし例外があって、概説書にも名著があります。それはうんと偉い学者が晩年に書いた、うんと薄い本。たとえば荻生徂徠の「経史子要覧」とか藤原定家の「近代秀歌」、あるいは、晩年とは言いにくいけれど、ハーバート・リードの「アート・ナウ」などです。
そういう本は、骨組がはっきりしていて、急所がよく分る。だからまず初心者の入門書に適している。次にある程度、その学問を勉強した人が、もう一度復習するのにもいい。「汲めども尽きぬ」味のある名著になるわけです。 ところがこの本は、四百ページもある厚い本ですから、当然、名著にはなりえない。(笑)また京極さんはよく出来る学者らしいけれども、まだ晩年には到ってない。(笑)
ではこれはどういう本かというと、羅列、網羅、並列、包括による大変便利な、辞書のような本になっている。詳しい索引がついていれば、もっと重宝でしょう。 ただし、通読するのは苦痛です。(笑)なぜ苦痛かというと、いろんな項目を貫く赤い糸が、読み終ってからかなりよく分る。しかし読んでる途中では分りにくい。
羅列主義の害を一つ挙げますと、第一部の終りに「心理的基礎」という題で、人間の気質と性格について、クレッチマーと宮城音弥の説が紹介してある。しかし日本の政治を論じたこの本の中で、どうして性格や気質についての学説が必要なのか、僕には分らない。この部分に関する限り、京極さんは、クレッチマーと宮城音弥にオンブされて物を言ってるけれど、もし本当に、人間の気質や性格が政治と関係があると思うなら、京極さん自身の意見をはっきり言ってもらいたかった。
この本から得るところはいろいろ多かったけれど、しかし、京極さんがもっとあとでお書きになる、薄い本を読みたいという気持がしました。
山崎
この本は不思議な本だと思うんですよ。いまおっしゃったクレッチマーの分裂質、循環質といった分類とか、宮城氏の強気、勝気、弱気の概念を、著者はけっして頭から信じていないという感じがするんです。その証拠に、使われている実例を見ると、勝気、強気、弱気は元気、空気と同じく、気配り、気働きなど、気に関する俗語と並列に置かれている。クレッチマーの気質分析も、もっと俗な、親心の政治家とか、お神輿に乗る大物とかいう言葉と同等に使われている。つまりそこには、科学理論、あるいは体系に対する一種の見限り、諦めがあるような気がするんです。
一見、物々しくノモスとコスモスという言葉が出てきます。西洋的キリスト教宇宙観と日本的相即的コスモスという言葉も登場します。そこからどんな体系が展開するのかと思うと、要するにそれはタテマエとホンネのことである、と喝破される。
社会科学はどのみち、切れない刃物で牛の腸(はらわた)を料理しているような仕事だと思うんです。どうせ切れないなら、いかに切れないかということを、ゾーリンゲンの刃物も、そのへんの文化包丁も並列に置いてみせることで明らかにする。ここには、学問そのものに対しても皮肉な精神が働いているという感じがありますね。
木村
あとがきによれば、これは講義をまとめたものだから、〈評論、とくに唱道にわたることを、気のつく限り、避けたつもりである〉、つまり一定の立場を主張しないようにした、ということですね。 しかし、結局は、虫も殺さぬ顔をして虫を殺している。(笑)
丸谷
丸谷さんがおっしゃったように、この本がどんな問題意識で書かれたのか、最初はよく分りません。ずっと読んでいくとジワーッと分ってくる本ですね。
丸谷
そうそう。これだけジワジワと書くことができるっていうのは、大変な頭の良さですよ。
木村
日本では元気一杯のエネルギー人間が賞讃される。それは反面、〈高文化ないし学問、芸術の世界に関する感受性と想像力の鈍磨を招き、やがて富貴権勢の世界と学問、芸術の世界、知的世界との疎隔になる〉 京極さんは知的世界に属しているわけですから、現実の政治に対して恐しいほどの反感をもっていることになります。しかしこういう調子で書かれていますから、裏の裏を読みとりませんと、著者の内なる激しい情念は分りません。
山崎
逆にいうと、そういう頭のいい人が、幸か不幸か政治学というもっとも人間臭い学問を選んでしまったという悲しみが、全篇ににじみ出てますね。
木村
そうですね。それに、表現がちょっと古風という印象を受けます。よく出てくる「相即」とか「憑依」とかは、今の若い人たちには難しい言葉です。
それから、時おり西洋のことが出てくるんですが、日本と西洋とではもちろん違いがありますけれど、共通性もあります。この点についてもう少し書いていただかないと、日本の政治の特色がよく分らないことになります。
たとえば「勧請(かんじょう)」といって、ムラの氏神が著名な神社の祭神を名乗り、外から威力を借りてくる。これは日本に特有のように書かれてありますが、ヨーロッパでもあることで、パリのノートル・ダム教会は聖母マリア教会だし、モワサックのサン・ピエール教会は聖者ペテロを守護聖者とする教会ですね。
山崎
日本と西洋を比較する場合、日本は現実を、西洋は理念だけを見るという危険を、私たちは誰しも冒しがちなのかもしれませんね。現実どうしを比較すると、案外似ていて、タテマエもホンネも、親心も人情も、別の形では西洋にもあるかもしれない。
丸谷
あるに決まってますよ。僕は根回しだって西洋にあると思う。なかったら、あんなにスラスラいくはずがないじゃない。(笑)
あれは西洋の言いまわしで言うと、「事務レベル折衝」となるんですよ。あっちのほうがもっと悪質かもしれない。(笑)
現代日本人は正直だし、それに言語的才能が発達しているから「根回し」という言葉を作り、「甘え」という言葉を作ったんです。それを、日本語だけに「甘え」って言葉があって、西洋の言語には相当する言葉がない、だから西洋人には「甘え」がないと考える人がいるけれど、間違っていると思う。鉛筆がない国には「鉛筆」という言葉はないでしょう。
しかし「甘え」という言葉がなくて甘えがある国があるんですよ。どうも一体に、最近の言語現象を利用した社会科学論は、言葉だけに頼るせいで過ちを犯す傾向がありますね。われわれは馬鹿正直だから、つい言葉を作ってしまい、そのせいで社会科学者から悪口をいわれるという、ヘンな現象が生じているような気がします。
山崎
この本は、これまで輸入品のゾーリンゲンを振りまわし、切れてもいないのに日本社会を切ったような顔をしてきた、多くの社会科学者に対する強烈なアンチテーゼだと思うんです。それにしても、誠実に現実を見る知性というのは、じつにつらそうですね。たとえば重要な概念「堅気の人」についても、京極さん自身がたいへんアンビヴァレントであるのがよくわかる。
「堅気の人」の反対概念は、愉快、痛快と叫ぶ人種なんですね。これは自民党の田舎政治家から社会党の組合闘士まで共通して見られる性格で、議会で質問して一太刀つけて軍功をあげ「愉快、愉快」と叫ぶ。これはやりきれないと著者は思っている。しかし、では堅気はどうか―― 〈堅気の生活者は外向的な現実主義と実用主義に立ち、バランス感覚を重視する。したがって、堅気の生活者は理想社会実現の約束を堅気の常識に反することとして受入れない。(略)そして「革新」野党の活動については、政界における「一服の清涼剤」という位置をわりあてる。これが堅気の常識である〉
そういう「堅気」の人たちは、同時に京極さんの学問への情熱も、おそらく「一服の清涼剤」としか見ないだろう、ということを京極さんはよくわかっている。
丸谷
物を書くには、認知と評価と指令と、この三つがある。そしてこの本はもっぱら認知で押し通したと、いうことが書いてありましたね。一つにはこれまでの政治学がまるで一種の倫理学のお説教のようなものが多かったから、その面皮を剝ぐという気持で、こういう書き方がされたのかもしれない。しかし、その認知が何のためなのかという目的意識が全く消されていると、読者は論旨の方向がわからなくてとまどうんですね。京極さんの評価と指令はどうなんだと絶えず忖度(そんたく)しなければならない。その意味ではかなりスリリングな本でした。
山崎
スリリングという言葉が出ましたが、このドロドロした日本の現実にも、社会科学という切れない刃物にも、また自分の内部の堅気に対してもやりきれなさを覚えながら、さまざまな矛盾した感情の中で、著者はみごとなバランスをとり、怒らず、泣かず、坐り込まず、えんえん四百ページの原稿を書いた。そのスリリングな姿勢こそ、この本の眼目だと思うんです。
『日本の政治』(東京大学出版会)著者:京極純一
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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
『三人で本を読む―鼎談書評』(文藝春秋)著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
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【書き手】
山崎 正和
1934(昭和9)年京都府生まれ。劇作家、評論家。中央教育審議会会長。文化功労者。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程修了。関西大学教授、大阪大学教授、東亜大学学長等を歴任。著書に『世阿弥』『鴎外 闘う家長』『社交する人間』『装飾とデザイン』等。
【初出メディア】
文藝春秋 1984年10月1日