仕事のデジタル化を機に「タイに住んだほうが楽」と考え、2015年にバンコクへ移住。マンガを描き続ける日本人がいる。
移住後、タイ各地の寺院や仏像の造形に魅了され、これまでに巡った寺院は約2700か所にのぼる。タイはイスラム教徒も少なくないが、国としては仏教国である。ご存じのように寺院が多く、観光の目玉になる寺だけでなく、地元民の生活に即したところ、中には廃寺もあるほどである。たーれっくさんは、訪れた寺院や周辺で聞きこんだタイの伝承などをマンガにして販売・公開する。これはタイ人でさえやったことがないことで、テレビがインタビューに呼ぶほど。たーれっくさんが、なぜ命を懸けてまでタイ寺院を訪問するのか、話を聞いた。
ひょんなきっかけから寺院や仏像の造形にハマる
タイの仏教は上座部仏教で、日本の大乗仏教とは少し異なる。簡単にいえば、上座部仏教はより原点に近く、個人個人が煩悩を消して輪廻から解脱することを目指す。大乗仏教はみんなで幸福を目指すものになる。もっと簡単な部分でいえば、豪華絢爛、金ピカ装飾がタイの寺院に多い。
とにかくタイの寺は派手さがあって、目立っている。そのため、観光の短期訪タイでも、この国は寺ばかり、という様子が一瞬で印象づけられるだろう。しかし、「タイ全土でお寺は4万3000軒とかそんなものです。日本はお寺で8万弱くらい、神社もおよそ8万くらいあるんですよ。タイのお寺は実は日本に比べたら少ないです。多そうなイメージがありますが、装飾が目立つのでそう見えるのです」とたーれっくさん。
日本の半分ではあるものの、4万か所以上。敬虔な仏教徒とはいえ、タイ人も基本的には地元、あるいは崇拝する僧侶がいる寺院だけを参拝することが一般的だ。
「今までに訪ねたお寺は2700か所です。グーグル・マップに行ったところにピンをつけるので、その数が今2700になっていますね。あと行きたいお寺は300か所くらい」
コロナ禍のタイは厳しい鎖国状態で、日本に一時帰国している知人のバイクを預かり、渋滞のないバンコクを走ってみたところ快適だった。持ち主に返却後、たーれっくさんは自分のバイクを購入した。それまでも地方都市まで移動後レンタルバイクで寺院巡りをしてはいたが、今はバンコクの自宅から数百キロも運転して寺院を巡る。さすがに帰りはタイ国鉄の貨物に載せてショートカットするとはいえ、危険には変わりない。すでに何度か骨折する事故も経験している。タイは路面がよくなかったり、周囲の運転マナーも日本と異なり危ない。命を懸けてまで巡る寺院。どのようにチョイスしているのか。
「フェイスブックとインスタグラムでお寺を紹介する人を常に見ていて、あと自分でグーグル・マップでとにかくあらゆるお寺をタップして投稿されている写真をチェックします。そうして、行きたいお寺にピンをガンガンつけておいて、乾季になったらバイクでガーって向かうって感じですね」
たーれっくさん曰く「基本的にオタクなので、ハマったらとことん」という性格だ。ただ、たーれっくさんの寺院巡りは「参拝」ではない。あくまでも好奇心と趣味である。
「お寺には詳しいですが、お釈迦様の教えとか、そういうのは全然わからないんですよ。たまに読者から、出家しないんですか、とか、瞑想のいい修行場があるんですけど行ってみませんか、とかいわれるんですが、ボクは仏教徒じゃないので……」
たーれっくさんは無神論者で、マンガ家というかアート畑の人であり、あくまでも寺院や仏像などの造形に魅かれている。タイの仏教美術も時代によって変化があって興味深い。知識からではなく、たーれっくさんはビジュアル的なところからタイ寺院にハマったのだ。ただ、後述するが、タイ寺院ありきでタイ移住を決めたわけでもない。タイ仏教芸術に感動したのは移住後数年してからである。たーれっくさんは明確にタイの寺院・仏像に魅かれた瞬間を記憶している。
「それまでも観光のひとつとしてお寺は行ってましたが、ロイエット(タイ東北部の県)の『パーノーンサワーン寺』という地獄寺からですね。ナーガ(龍神のひとつ)の巨大な彫像があって、なんだこりゃ、スゲエかっちょいい、とね。あの大きさに怪獣感があって、シビれちゃいました。そこがきっかけでタイのお寺にハマったんです」
とはいえ、乾季の間の寺院巡りには時間がかかる。ほかの参拝客への配慮もあるし、マナーとして境内でスケッチはしない。写真を資料としてたくさん撮影し、そこから帰宅後、絵に起こしていく。その資料写真は現時点で15万枚は優に超えている。
ゲームデザイナーからマンガ家に転身
たーれっくさんは日本ですでにマンガ家として順調に仕事を受けていた。もちろん子どものころからの夢だったが、少しだけ遠まわりをしたのちにその夢を叶えている。
「最初にマンガ家になりたいと思ったのは小学校3年生です。当時『少年チャンピオン』が大ブームでマンガが好きになって、小5のときに『ブラックジャック』を読んでマンガ家を目指すことを決意しました」
手塚治虫先生が動機としては一番大きかった。中学・高校時代は賞レースなどに応募もしてきた。ただ、誰かに師事したわけでもスクールに通ったわけでもなく、独学でとにかく描き続ける青春を過ごしている。「結局マンガ家になれなくて」、デザイン系の専門学校を出てゲーム会社に入った。たーれっくさんは愛知出身で、地元企業のサン電子、一般には『サンソフト』で知られる企業で働きはじめたのである。元祖クソゲーで知られる『いっき』を開発した、レトロゲーム・ファンで知らない人はいないブランドだ。
ただ、バイトという形態で、かつ途中で東京に出てみたくなったこともあって、サンソフトの東京事業所に転籍。愛知時代はファミコンやデスクシステムのゲームに携わり、東京に来てからPCエンジンおよびスーパーファミコンのRPG『弁慶外伝』を手がけた。当時サンソフトは少人数でゲーム制作をしていたので、たーれっくさんはゲームデザイン、キャラクターの絵、ドット打ちなどをしていた。
「デザイナーはボクともうひとり。そのもうひとりが『漫画ホットミルク』というマンガ誌で連載を描いてたんですよ。あるとき会社に出てこないから理由を訊いたら、締め切りが近くなると行けないというので、じゃあ手伝ってやるからとにかく会社に来い、と」
ホットミルクを出版していたコアマガジン編集部の会議室を借り、原稿を手伝いはじめた。時代もあって、原稿を自ら届けに来る作家も出入りする。たーれっくさんには刺激になる場面ばかりだ。編集部員や作家たちと交流が広がっていき、その会議室で互いの原稿の仕上げを手伝いあうようにもなった。締め切り間際はまるでマンガ家の一大サロンが形成されたのである。
「ボクもホットミルクのマンガ賞に2回ほど応募したのですが、佳作止まりだったんです。それですぐにデビューはできなかったんですけど、当時の編集長が1本描いてみてと声をかけてくれて、ボクが描いていいんですか!? という感じでデビューできました」
突如マンガ家としてデビューすることができた。同僚の手伝いをしはじめてわずか1年ほどのことだ。エロマンガではあるが、「グレイス石川」というペンネームで夢を叶えた。そして、おもしろいといってくれる人も増えて、仕事も順調に入るようになったことから、ゲーム会社を辞め、マンガ家一本に絞る。そのころ、ペンネームも「ぐれいす」に変え、連載を持ちつつ、単発読み切りも受けた。当時はコンビニのエロマンガ雑誌が大全盛期で、1か月に100冊以上が棚に並んだ。
「当時ボクが描いていた雑誌も35万部とかのイケイケ状態。ボクも20代半ばで仕事をガンガン受けました。30代から40代にかけても1日睡眠時間3時間でも全然平気だったし、寝る時間が無駄だと思っていたのでバリバリ描いてたんです」
私生活での問題などできつかった時期もあったものの、それでもマンガを描き続けた。そして、時代がまたたーれっくさんを追いかけてくる。
「携帯マンガ・ブームが起こったんです」
いわゆるガラケーでマンガを読む時代がはじまったのだ。たーれっくさんの当時の連載マンガは単行本ではあまり売れなかった。エロマンガの単行本はかなりハードな描写が好まれるので、たーれっくさんのライト・エロは雑誌向きだったのだ。しかし、携帯マンガはライトがハマったのである。
「ボクのかつて描いたマンガもばかばかダウンロードされるようになって、携帯向けに描き下ろしもはじめました。雑誌は締め切りギチギチでしたけど、携帯は締め切りが緩かったし、結構人気があって売れていたので、そのときに雑誌の仕事の整理をはじめていました。そんなとき、マンガ家仲間でもある猫島礼さんに誘われて、タイに初めて行きました」
猫島さんはバンコクに編集部があった日本語の男性総合誌『Gダイアリー』で連載マンガを描いていた、当時バンコク在住のマンガ家だった。仕事の整理が進み時間ができたたーれっくさんは2008年、初めてタイに来たのである。
初めてのタイですべてが一変した
マンガ家として15年以上のキャリアがあったが、ガツガツ仕事をしなくなっていたタイミングでもあった。それまで旅行で返還以前の香港に行ったり、サンソフト時代に弁慶外伝の取材のために中国本土へ行ったりなどした。しかし、このタイ滞在がその後の人生を変えることになった。
「それまで海外にはあまりハマらなかったのに、タイだけは特別でした。仕事がずっと忙しくてガチガチだったので、タイに来て急に解放された気分、解き放たれたというか、今風にいえば「異世界転生」した感じで、なんだここは、っていう衝撃を受けたんです。それから2か月に1回の割合でタイに来るようになりました」
タイにハマりはじめて1年ちょっと。また運命の出会いをする。タイの女の子、「子猿ちゃん」との出会いだ。彼女の言動・行動がおもしろくて、「子猿」という愛称のマンガ用キャラクターも創造した。
「彼女と出会ったときに、日本にはいないタイプの人と思いました。すごいおもしろくて、もう本当にマンガのネタになるって感じで、今もつきあいがあります」
当時タイ語はできるがまだおぼつかない状態だったので、通訳などを兼ねて彼女とタイをいろいろ旅行してみた。
「自分ではやらないような行動とか選択をしてくれるので、いろんなところへ一緒に旅行して、それを当初はブログにあげていました。その後、これをマンガにしようと思い……」
そうして「たーれっく」(小さい目というタイ語)のペンネームで「単行本1冊分のネーム(下書き)を描いた」のだが、日本の編集者数人に見せても全員から「こんなのは売れない」とかなりきつめに言われてしまう。それで最初の1話だけ原稿を仕上げ、ネットにあげてみた。すると一部のタイ好きから評判になり、知りあいが先のGダイアリー編集長に売りこんでくれた。猫島さんの時代と内部でいろいろあったのちの新生編集部だ。そして見事採用され、隔月掲載ののち人気が出て、毎月連載になった。2012年のころである。
「当時は紙に描いて仕上げだけパソコンに取りこんでいたのですが、連載途中でオールデジタルにしました。そうしたら、別に日本にいなくてもどこででもマンガが描けるから、隔月でタイに来るなら住んだほうが楽じゃないかと思って、2015年に移住しました」
手描きからデジタル作業への移行は「かなり以前から考えていたのですが、難しそうと躊躇してました。でも移ってみたらもう全然楽。パソコンを使ったほうが早く描けるようになりました」というくらい、わりとすんなりと仕事をIT化できたのであった。そして、その移行が生活そのものを変え、タイに暮らす今へと繋がるのである。
タイの連載の仕事もなくなった……
初訪タイの直前にはすでに日本での仕事の整理をはじめていたたーれっくさん。子猿ちゃんをメインキャラクターにした紀行マンガをはじめて以降、エロマンガは描いていない。連載と単発がどんどんと入ってくる売れっ子であり、それなりの収入もあったのに、それらをすべて捨ててしまうことになる。
「やっぱりエロへの情熱がなくなってしまったんです。あのジャンルは情熱がないと描けないですよ」
タイに来て、タイにハマって、そしてなにか感覚が変わってきたのかというと、そういうわけでもないようで、「一番大きいのは携帯マンガで儲かっちゃったことですよね。お金に不自由しなくなっちゃったんで」と笑う。しかし、移住直後にGダイアリーが売り上げ不振で休刊。連載の仕事がなくなってしまった。「今はお金はないですけど、ハングリーさも今はないので、やっぱりエロは描かないです」という。
しかし、マンガを描かなくなったわけではない。子猿ちゃんのマンガを売れないと酷評されたこともあって、出版社を当てにできないためKindleなどで電子書籍として自分で出版をはじめる。読み放題プラン向けが特に好調だった。
「ただ、当初はよかったですが、今はどんどん大手出版社が入ってきたので、メジャーなマンガが読み放題となってしまうと、どんなにがんばっても全然読んでもらえないです」
そんな中ではあるが、子猿ちゃんとの旅行の中で先のロイエットの巨大なナーガに魅せられた。
「ボクが一番好きなのはアート系、ゴージャス系、テーマパーク系のお寺なんですよ。日本には絶対にないタイプですからね。一番好きなのは日本の旅行系雑誌の表紙にもなった『プラタート・パーソーンケーオ寺』の五連仏です」
絵を描く人らしく、たーれっくさんはゴージャスでアーティスティックな寺院が好きだ。この趣味のひとつがまたある出版関係の目に留まって、バンコクの日本人向けフリーコピーで50回近くも連載を受け持った。さらには、バンコクの日本人会でタイの仏像や寺院に関した講演、バンコク各地で開催されるジャパン・フェスに呼ばれ、似顔絵描きなどでも活躍している。
冒頭のようにタイ人からも“変わった日本人”としてテレビで紹介もされた。さらには、バンコク近郊でドラえもんなどの絵を勝手に借用する寺院があったりするのだが、ある寺院にてついにはたーれっくさんの描いた仏像まで、たーれっくさんが書いた文字もろとも無断使用されるに至っている。
「お寺の壁画に使われてます。ボクが描いた絵を模写したのでしょう。ボクの下手なタイ文字までちゃんとトレースしてますよ。これは恥ずかしいんですけどね」
たーれっくさんの友人がたまたま行った寺院でみつけてブログで書き、それをたーれっくさんがたまたま読んで驚いた、という流れらしい。実際に足を運んでみたが、「特にお寺とはなにも話してないです」。別に使ってもらってかまわないという。
実は以前にもバンコク都内のフードトラックが外装全体に子猿ちゃんのマンガを無断使用したことがある。たーれっくさんはむしろ「うれしい!」くらいにしか思っていなかったが、むしろ子猿ちゃんが激怒してクレームを入れ、その絵はトラックから外された。
もともと質素な生活スタイルがそのまま活きている
タイに来てバンコク発の誌面で少しだけ連載はしたものの、かつての収入はなくなっている。
数年ほどまえ、子猿ちゃんはネットで自分のビジネスをはじめ、コロナ禍の波に乗りマスクなどの販売でかなり稼いでいたものの、当時跋扈していた詐欺集団に引っかかってしまい、350万バーツ(今だと1500万円くらい)も騙し取られた。顧客から預かったお金だったので、とりあえず自身で補填して返せば刑事告訴は免れることができる。そこで子猿ちゃんを長年バックアップしている方が大部分を、たーれっくさんも400万円ほど支援している。直後に犯人は捕まったが、主犯は中国人らしく国外逃亡していたために取り返すことはできなかった。子猿ちゃんのために資産を削ったことで、たーれっくさんはある程度、切り詰めた生活を強いられているのではないか。
「まあ切り詰めるといえばそうですけど、基本的にケチなので、そもそもそんなにお金を遣わないんです。今月もたぶん7万円も使ってないですよ。よくSNSで『10万円でバンコク生活ができる・できない』の議論がありますけど、ボクは7万円で生活できていますね」
1年ほどまえまではバンコク中心に近いほうに住んでいたが、そこもだいぶ家賃が上がってきたので、今はバンコクと隣県の境の辺りに部屋を借りている。そこまで来ると基本的にはタイ料理、それも食堂や屋台などで食べるしかなくなるのではないか。タイ料理はおいしいとはいえ、日本人の体質には味や油が濃すぎて体調を崩しやすくなる。
「ボクは昔から身体は丈夫なんで、風邪もこの30年くらいひいたこともないし、コロナも1回もかかってないです。タイに住みはじめてほぼ毎日タイ料理ですが、お腹も壊したことがないし虫歯もない、視力もそんなに悪くない」
健康管理といえば、アパートに併設されるジムに2日に1回1時間くらい行って運動していた程度。今の物件はそのジムさえないが、家賃は以前の半分ほどなので、より遣わない生活に自動的に突入している。
それより心配なのは、寺院巡りの際のバイク事故である。パンクなんかは日常茶飯事だ。
「バイクが壊れることはよくあります。市街地ならいいですが、山とか辺鄙な場所で止まってしまうことが一番怖いです。あとはやっぱり事故ですよね。旅に出るときは、事故ったら終わり、これが最後になるかも、くらいの気持ちで運転しています」
タイは傷病に関する治療費は日本よりずっと高額になる。鎖骨骨折も安いところで30万円はくだらない。もちろんタイにも保険はあるが、ぎりぎり傷害保険でカバーできるかできないか。
それでも寺院巡りの旅には出ないわけにはいかない。現在の目標でもあるからだ。
「タイのお寺を詳しく解説するマンガを丸1年かけて描いたんです。さらに修正や追加もして足かけ4年くらいかけて今も描いています。これをいろいろな出版社に持ちこみしてますけど、全然書籍化してもらえません。だから、今の目標はそれが書籍化されることです。というか、書籍化されないと、なんかもう次に行けないんです」
コンスタントに仕事が入っていたマンガ、売れていた携帯版。順調にお金が入っていた日本の生活を全部なくした状態でタイに来た。そしてみつけたタイ寺院。
「マンガ家になったのも、収入をなくしたこと、タイに来たこと、どれも実はあまり深く考えていないです。先のことは考えないですね、子どものころから。がんばっていればなんとかなる、と思ってます」
とはいうものの、仏像関連のマンガは命を懸けた力作である。形にならないことには終われないのだ。
<取材・文/髙田胤臣>
【髙田胤臣】
髙田胤臣(たかだたねおみ)。タイ在住ライター。初訪タイ98年、移住2002年9月~。著書に彩図社「裏の歩き方」シリーズ、晶文社「亜細亜熱帯怪談」「タイ飯、沼」、光文社新書「だからタイはおもしろい」などのほか、電子書籍をAmazon kindleより自己出版。YouTube「バンコク・シーンsince1998│髙田胤臣」でも動画を公開中
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