(写真撮影/本美安浩)
10月16日(金) 7:00
東京で業界新聞の記者をしていた辰野恭子(たつの・きょうこ)さんは、フリーランスのコピーライターを経て、45歳で故郷の岐阜に戻り、50歳で食堂を始めた。その食堂は今や、放課後の子どもたちの居場所や地域のコミュニティの場になっている。「岐阜に戻ったのは東京の暮らしが私には限界だったから。最初は食堂を開くつもりも、地域の活動をするつもりもなかった」という彼女が、地域に根差した理由とは?
「ここのカツが好き!」今や、小学生たちの放課後の大切な居場所に
岐阜県山県(やまがた)市、岐阜駅から車で40分ほど。8割が森林という豊かな大自然に囲まれた場所に、辰野さんが営む食堂「アトリエキッチンりんりん」はある。もともとは辰野さんの母方の祖父が営む運輸会社があった場所で、長らく空き家だったものを改装し、6年前、食堂を始めた。
営業しているのは週に4日で、11時から18時までマイペースに営業している。
「私1人でやっているので無理をしないようにしています。朝や夜の営業をしないのは、その時間は母とゆっくり食事をしたいからなんです」
メニューは麺類や定食、単品おかずに日替わりのケーキまで。テイクアウトのお弁当も人気。地元野菜を使った添加物を極力排した料理は、“自分自身が食べたいと思う、身体にやさしい食べ物”がモットーだ。
周囲に飲食店があまりないため、昼間には、ご近所のおじいちゃんおばあちゃんには格好の食事処。地域活動、家族の集まり、学校や仕事場での仕出し弁当の注文も多い。なかでも小学生たちにとっては大切な居場所。近くに小学校があり、放課後や夏休みには揚げたてのチキンカツを食べにくる。
撮影時も、子どもたちは元気に挨拶して靴をそろえ、食べ終えたら自分で片付ける。「たっちゃん、たっちゃん」と親しそうに辰野さんを呼ぶ姿が印象的だった。
「うちはツケはなし。子どもたちも200円を握りしめてやってきます。店内でのんびり過ごしていることもありますが、他にお客さまが来ると、さっと立って帰っていく。学校であったこと、できるようになったことなんかを、おしゃべりしてくれるんです」
友人の子どもたちを毎週金曜日、預かっている。
「いわば『りんりん学童』ですね。ある友人の自宅が小学校からやや遠くて、習い事に行くのに一度帰るのが大変だと聞き、『だったら、うちで過ごせばいいんじゃない』となったことがきっかけです」
辰野さんは東京の大学を卒業後、業界新聞の記者になった。4年後に独立し、広告や社史の編集といった企業案件を中心に手掛け始める。
「フリーランスに巡ってくる仕事って、広告代理店や広告プロダクションがやりたがらない面倒なことが多いんですよね。相手が大企業であればあるほど雑に扱われ、クライアントの都合で無理なスケジュールを強いられる。時には未払いのギャラを回収するために自ら交渉することもありました」
そうして15年ほど実績を重ね、仕事は途切れることはなかった。しかし、理不尽な対応や、自分の本心とは異なる言葉を綴る日々に、心身は次第に疲弊していく。
「決定打となったのが2011年の東日本大震災でした。ボランティアとして現地を訪れ、津波の惨状や放射能問題、食の安全などの現実を目の当たりにして……。企業の代弁者として都合のいいことだけをパッケージ化して売る生き方に、限界を感じたんです。自分の気持ちに嘘をついて書き続けることに、強い苦しさを覚えるようになりました」
その後、福島の子どもたちの保養活動(放射能の影響を受けず、離れた土地でのんびりすごしてもらうこと)をしている方に出会う。
「すごく素敵な取り組みだなと思いました。私もやってみたいと考えましたが、当時の私は東京で自分のことだけて手一杯。余裕がありませんでした。でも、もしかしたら故郷の岐阜に戻ったら、なにかしらできるんじゃないかと思ったんです」
2015年、辰野さんは岐阜に戻る決意をした。
「一人暮らしをしている高齢の母のことも心配でした。住むところがあれば、地元や東京でライター業も細々続けつつ、なんとかなると思ったんです。私は特にお金を使わないタイプですしね」
まず、母の実家の片付けを始めた。現在、辰野さんが営む食堂の場所だ。
「正直、ゴミ屋敷でした。祖父の時代から、親戚中が家で使わなくなったものを何でも持ち込んでいましたから。使わなくなった家具・家電、通知表や卒業アルバムまで。片付けても片付けても終わらなくて果てしなかったです。でもそのうち、この場所を再生させることは、自分自身を再生させるような感覚になっていたんです。正直言うと、岐阜に戻ったばかりの私は、泣いてばっかりでした。喪失感というか、人生どうする?みたいな不安があって。ただ、思い出を見つめ、いらないものを処分するーーその一連の作業が、私には心のリハビリになりました」
こうした片付け作業と同時に、高山市で行われていた保養活動や、パーマカルチャー(人と自然が共存する社会をデザインしていくこと)やトランジションタウン(市民による地域自給)の活動に参加した。
「故郷といっても18歳で地元を離れたので、友人はほとんどいませんでした。しかし、こうした活動を通して友人ができたんです。ココで知り合った方が別の活動に誘ってくれる、みたいな感じでつながっていきました。田舎に帰ったら、私の親世代ばかりに囲まれて過ごすことになるかなと思っていたけれど、案外、面白いことを考えて実験的な活動をしている若い人たち、同世代の人たちがたくさんいたんです。自分たちで田畑を耕したり、古民家をリノベーションしたり、ワークショップしたり、映画上映会したり。大人になってからの価値観が似ているコミュニティはとても心地よいです」
そのうち、母の実家の古民家を「知り合った方たちの活動で使ってもらいたい」「ワークショップもできるアトリエに改装できないか」と思うようになった。
改装には知人だけでなく、近所に暮らす人たちがふらりと現れて手を貸してくれたり、ワークショップを兼ねて友人たちが助っ人に入ってくれたりすることもあった。
「このあたりは昔から製材業や林業がさかんな地域なので、基本的に腕に覚えのある人が多いんです。そういう人たちが自然と集まってアドバイスや手助けをしてくれますし、古民家改修のワークショップも頻繁に開催されています。私のような素人でも、混じって作業をしているうちに自然とできるようになるんですよ」
都会なら専門業者が数多くあり、お金を支払って仕事を依頼するのが一般的だろう。しかし、辰野さんの周囲は違うようだ。
「自宅の改装、田植えなど、助けてほしい時に声をかけると、いろんな人が集まってきてくれます。自分も手伝いにいきます。恩返しが次に送られていく『ペイフォワード』のような感じでしょうか」
人が集まるとき、辰野さんは「食」をふるまっていた。手伝いに来てくれた人がみんな食べ物や飲み物を持ち寄ってくれることも多い。
「“同じ釜の飯を食べる”という言葉があるくらい、人間関係って『食』が中心になる瞬間がたくさんあるじゃないですか」
そう実感するうちに、この場所をアトリエやコミュニティの拠点としてだけでなく、「ここで食堂を始める」という新たな夢を持つようになった。「昔見た映画“かもめ食堂”みたいな場所を作れたらと思いました」
「大学で食物学を学んでいたから、食を仕事にできたら楽しいだろうなという思いは、ずっとぼんやりとありました。食堂を始めるにあたり、改装や設備導入で、結局800万円くらいかかりましたね。でも結婚も出産もしていないし、家を買ったこともない私にとって、これが一生で一番大きな買い物だと思います」
そうして誕生したのが「アトリエキッチンりんりん」だ。かつて多くの人が行き交う場所だったその地は、ほぼ廃墟状態を経て、辰野さんが再び社会と接続するための大切な拠点となった。
地元に知り合いが増えるにつれ、「街のためになにかしたい」と思う気持ちが生まれた。
というのも「アトリエキッチンりんりん」は単に食べて終わりではなく、対話が生まれる場所だからこそ、自然と街の困りごとが耳に入ってくる。
そこで辰野さんは、当初から行っていた木育活動、プレーパークなど子どもたちのための活動にとどまらず、多岐にわたる市民活動にも加わっている。
「ライターなので意見をまとめて文章にして届けることには慣れています。川沿いの観光地のトイレが壊れているのに直らないという話を聞けば、ほかにも同様のケースがないか調べて署名を集めたり、地域の建物の建て替え問題で意見書を市に提出したり……気づけば『なんでも屋』になっていますね」
45歳で故郷に戻り、50歳で食堂を開くという新しい挑戦をした辰野さん。大きな環境の変化に不安はなかったのだろうか。
「不思議となかったです。というのも、東京での私はシングルでフリーランス。今思えばとても不安定な根無し草でした。岐阜に帰れば、食べるものと寝るところには困らない。正直そんなに儲からないけれど、お店という居場所があり、人が来てくれる。出逢いが次の出逢いを生み、お金はあとからついてきます。過疎地は同業者であっても競争相手という感じはありません。地域を盛り上げていこうと支え合う仲間です。大事なのは信用と縁かな。それに、この年齢ゆえの軽やかさもあると思います。20代、30代のころの『結婚しなきゃだめ』『子どもがいなきゃだめ』といった『こうでなければならない』というレールから降り、50代だからこそ、シンプルで見えてくる風景がありました」
「究極は、地域の景色の一部になりたいんです、私」と辰野さん。
「登場人物はおこがましい。地元の子どもたちが成長し、“ここでカツ買って食べたよね”って思い出してくれたらいいなぁと思っています。そんな場所を残しておくことが、私の社会への関わり方なんです」
50代で新しいことを始めた辰野さん。はたから見れば一大決心のように思えるが、「むしろそれしかない選択だった」と笑う。人生100年時代に、自分の心と体に無理のない選択をすることは決して遅すぎることはないだろう。
●取材協力
アトリエキッチンりんりん
岐阜県山県市谷合1210-2-2
Instagram
@kyokotatsuno
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