31回目となる釜山国際映画祭に参加するために、今年も釜山を訪れた。10月初旬に釜山の地に降り立ってまず印象に残ったのは、各地の映画館で上映されている「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」が大人気を博している光景だ。韓国で、9月30日に1078スクリーンで公開された本作は、初日だけで観客動員12万2293人(先行上映を含む累計15万3018人)を記録し、初登場1位を獲得。10月1日には音楽番組「M COUNTDOWN」で、セイレーンらが劇中歌「島のうた」の韓国語版を披露したことも話題を集めた。釜山に降り立った初日も、釜山各地の映画館では満席の回がいくつも見られ、館内にポスターが数多く掲げられていたのを目にした。
日本のアニメーションが韓国で広く親しまれていること自体は、いまさら驚くべきことでは全くない。釜山市内の中心部には日本のアニメ専門店の支店があり、日本アニメの放送・配信を数多く手がける韓国の放送局ANIPLUSの店舗も近隣で賑わいを見せている。日本のアニメーションは、もはや輸入された映像作品としてだけでなく、キャラクターグッズや音楽、店舗での買い物を含む日常的な文化として、この街にも根づいている。
こうした光景を目の当たりにすると、ひとつの問いが浮かぶ。これほどまでに日本アニメーションが浸透した韓国で、その歴史や表現の多様性は、どのように受け止められているのだろうか。第31回釜山国際映画祭(10月6日~15日)が組んだ特集企画は、その問いを考えるうえで貴重な機会となった。
特別企画の一つ「Japanese Animation Special: Masterpieces of Madness, Exhilarating Prospects 12+1」は、日本アニメーションの歴史を形づくってきた作品と、これからの日本のアニメーション映画を担うであろう新鋭の作品を並べて上映する特集である。手塚治虫、大友克洋、押井守、りんたろう、湯浅政明ら巨匠の作品に加え、本特集では日本のアニメーション作家たちに大きな影響を与えたフランスのポール・グリモー監督作「やぶにらみの暴君」(1952)も選ばれ、日本アニメーション映画の歴史を概観するに適したラインナップとなっていた。
上映作品を見渡すと、「白蛇伝」(1958)、「哀しみのベラドンナ」(1973)、「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」(1980)、「天使のたまご」(1985)、「MEMORIES」(1995)、「メトロポリス」(2001)、「マインド・ゲーム」(2004)など、時代も作風も異なる作品が一堂に会し、さらに新鋭監督による作品が加わることで、日本アニメーションの蓄積と未来の双方を見渡す構成となっていたことが理解できる。
まず新作のなかから、片野坂亮監督の「しらぬひ」を取り上げたい。「君の名は。」などで知られるコミックス・ウェーブ・フィルムが、独学でアニメーションを制作してきた片野坂監督を見いだし、劇場公開に向けて支援したオリジナル作品である。36分の短編アニメーションながら、作品が扱うのは、愛されたいという願いが人を結びつけるどころか、取り返しのつかない断絶を生み出してしまうという、容易には答えの出ない問題だ。
舞台は1996年、夏の終わりの熊本の海辺の町。酒に溺れる父親と暮らす10歳の少年・湊(みなと)は、弁天島で出会った若い神様・べんちゃんに心の拠り所を見いだす。しかし、児童養護施設に送られる日が近づくなか、海の彼方に現れては消える不思議な光「しらぬひ」に願いをかけた湊の祈りは、父親への憎しみとともに、逃れがたい呪いへと変わっていく。
上映後のQ&Aで片野坂監督は、作品を生み出したふたつの契機を語った。ひとつは、熊本に実在する、海のすぐそばに建つ小学校の風景を映画にしたいという長年の思い。もうひとつは、コロナ禍で実写映像の仕事がなくなり、自宅でひとりアニメーションを描き始めた時期に、人との出会いや別れを経験するなかで、愛し合っていてもすれ違ってしまう人間の姿を描きたいと考えたことだった。風景への執着と、人間関係に対する内省という二つの要素が結びついて、「しらぬひ」の世界は形づくられたのである。
なかでも印象的だったのは、青少年による犯罪と赦しをめぐる監督の発言である。湊の行動は、時にホラー映画を思わせるほど苛烈だ。怒りに駆られ、動物や子どもに危害を加えようとする彼の姿は、無垢な存在としての子どもという、海外で多く受容されてきたアニメーションでしばしば考えられるイメージを裏切ってもいる。
監督によれば、この主題の背景には、少年犯罪の被害者となった自身の経験と、知人が被害に遭った経験があるという。監督は、罪そのものを赦すことはできなくても、罪を犯した人間がその罪を背負いながら生きていくことは可能なのではないかと考え、赦すことを選んだ。だからこそ監督は、湊の罪を単純に帳消しにするのではなく、それでも彼を抱きとめる存在を描こうとしたのだという。
ここで重要なのは、片野坂監督の、子どもを善悪のどちらかに固定しないという姿勢だ。監督は、子どもを悪人として描きたかったのではなく、むしろ純粋だからこそ、置かれた環境によって残酷にもなりうるのだと説明する。その両義性を表現するために重視したのが、湊の目の大きさや眼差しだった。日常の風景は、匂いまで伝わるほどのリアリティを目指す一方、べんちゃんと過ごす時間には、湊が心から安心できる場所としての感触を与える。アニメーションならではの誇張された表情と、生活の手触りを備えた背景。その対比が、少年の内面に潜む純粋さと残酷さを、同時に浮かび上がらせる。
父親の造形についても、監督は愛することの難しさを強調した。父親は湊を自分のものだと主張しながら、実際には息子自身を見ていない。愛情が存在することと、相手を正しく見つめ、世話をすることは同じではない。「しらぬひ」が描くのは、愛情の欠如だけではなく、愛しているはずの人間を傷つけてしまう、その不均衡なのだろう。
本作が釜山国際映画祭でインターナショナル・プレミアを迎えたことを踏まえ、片野坂監督は、釜山の観客と対面できた喜びを率直に語った。そして、ぜひこの作品を広めてほしいと呼びかけた。日本のアニメーションが国境を越えて受容されることは、いまや珍しくない。しかし、その広がりが単なる人気の輸出にとどまらず、異なる土地の観客が、赦しや愛情、子どもの残酷さといった問題を共有する契機となるならば、そこにはまた別の意味が生まれるはずだ。
また、新作のなかから、夏目真悟監督の「ghost 夜の果て」にも簡単に触れておきたい。「Sonny Boy」などで知られる夏目による長編オリジナルアニメーション映画である本作は、高度なテクノロジーによって人間の労働が不要となった近未来を舞台に、宇宙の秩序を管理する役割を与えられた少女ニケと、かつてドライバーとして生きた男マスとの出会いを描く。人間の価値がシステムによって選別される世界で、人はいかにして自らの生を選び取ることができるのか。夏目の演出は、宇宙規模のスケールで物質と存在を見つめながら、登場人物たちの感情を過剰な説明に頼ることなく積み重ねていく。羊文学とのコラボレーションも含め、アニメーションという表現の哲学的な可能性が深化したことを実感させる一作であった。
旧作の上映からは、りんたろう監督「メトロポリス」(2001)の上映とりんたろう監督のQ&Aを取り上げ、日本アニメーションの歴史的な蓄積と、現在の観客がそれを見直すことの意義について報告したい。
10月9日、満席となったCGVヘウンデのIMAXシアターで、りんたろう監督「メトロポリス」(2001)が上映された。手塚治虫が1949年に発表した漫画を原作に、大友克洋が脚本を手がけた本作は、人間とロボットが階級によって隔てられた巨大都市を舞台に、ロボットと人間の要素が重なり合った少女ティマと少年ケンイチの出会い、都市に巣食う闇を捜査する探偵、暗躍する都市の支配者たちの姿を描く。手塚が描くキャラクターと、デジタル技術によって描き出された壮大な都市景観との対比は、いま見ても鮮烈だ。
上映後、りんたろう監督は、まず制作当時にデジタル技術を大胆に導入した経緯を語った。1990年代後半、映画制作の現場にデジタル技術がまだ十分に浸透していなかった時期に、いずれコンピューターがアニメーションの世界にも入ってくると予感したという。そこで採用されたのが、3DCGソフトウェアのMayaだった。監督は、手塚の漫画に新しい技術という「身体」を与えながら、その「魂」を維持することを意識していたと説明する。久しぶりに大スクリーンで作品を見た監督は、当時、劇場での上映を念頭に膨大なデータを注ぎ込んで制作したことを振り返り、改めて大画面で上映できる作品にしてよかったと感じたと語った。デジタル技術の導入は、単なる制作手法の刷新ではなく、アニメーションの未来を先取りする試みでもあったのだ。
Q&Aでは、筆者と同じ20~30代と思われる若い観客からの質問が数多く寄せられた。原作には登場しないロックというキャラクターについては、りんたろうは、大友の発案によって加えられた人物であり、内面が歪み、屈折した人間を物語に置くことで、作品に厚みを持たせようとしたのだと答えた。ロボットでありながら人間以上に人間的なティマと、人間でありながら他者を傷つけるロック。両者の対比は、機械と人間という区分そのものを揺さぶる。ロボットに心があるのか、という観客からの問いに対しても、監督は、機械が独自の意識や感情を持つ時代はいずれ来るだろうと答えた。そのとき問われるのは、機械に人間性があるかどうかだけではなく、そうした存在に人間がどう向き合うかという問題なのである。
作品の終盤、都市が崩壊する場面に流れるレイ・チャールズの「I Can't Stop Loving You」についても、質問が寄せられた。監督はこの曲を中学生の頃から愛聴しており、どうしても映画で使いたかったという。しかし、使用権を得るための交渉は容易ではなかった。さらに監督は、黒人歌手であるレイ・チャールズが、白人の作曲家によるカントリーソングを歌ったことの歴史的意味にも触れた。人種差別が根強かった時代に、黒人歌手が白人の楽曲を歌い、同時期には白人歌手のエルヴィス・プレスリーが黒人音楽を歌うという、文化の境界を越える動きがあった。監督にとって、この曲の使用は個人的な愛着だけでなく、アメリカ社会の歴史を作品に織り込む選択でもあったのだろう。崩壊する都市と歌声が重なる場面は、映画のクライマックスであると同時に、異なる文化や人々が交錯する社会のあり方を凝縮した場面でもある。
ティマの最期についての質問に対し、監督は、ひとつの命が失われることによってこそドラマが成立すると説明した。多様な存在が入り交じる巨大都市の複雑さを、ひとりの登場人物に背負わせ、その存在が失われることで物語を終わらせることが重要なのである。監督自身、ティマが崩壊のなかで命を失う場面を描いていたときには手が震え、ヘッドフォンでレイ・チャールズの曲を聴きながら作業していたという。この発言は、デジタル技術を駆使した映画であっても、その制作の中心には、描かれる存在の死に動揺する作り手の身体があることを示している。
そして、25年を経た作品を前に監督が考えていたのは、AIの時代にアニメーションが果たす役割だった。監督は、社会のあらゆる領域にAIが入り込み、人間がその時代を生きていくことになるうえで、アニメーションがそのなかでどのような役割を担えるのか、考え続ける必要があると語った。「メトロポリス」が描いた、人間と機械の対立、機械の意識、そして人間性をめぐる問いは、もはや遠い未来の空想ではない。上映の最後に監督が観客へ呼びかけたのは、アニメーションや映画をこれからも愛し、できるだけ映画館で見てほしいということだった。
技術も社会情勢も刻々と変化しているいま、映画は何を描き、何を問いかけてきたのか。釜山国際映画祭で行われたアニメーション特集は、日本アニメの海外での人気の高まりとともに、そのことを熱く再確認させるものとなっていたと言える。(小城大知)
【作品情報】
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ghost 夜の果て
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