日本サッカーの知られざる歴史
1980年スペインW杯アジア1次予選後編
46年前に香港で行なわれたスペインW杯アジア1次予選で、サッカー日本代表における「夢の中盤」の出現は、低迷していた当時のチームにあって画期的な出来事だった。その中心だった風間八宏氏を取材。なぜテクニカルな選手たちが揃ったのか、ベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が綴る。
>>前編「46年前のサッカー日本代表に、突如『夢の中盤』が出現した」
1980年のW杯予選に日本代表として出場した風間八宏氏photo by Torao Kishiku
【相手を上回るテクニック】
中国に敗れた日本だったが、次のマカオ戦ではさらに一方的にゲームを支配。なかなか先制点が奪えず、都並敏史(読売クラブ)が一発退場になるアクシデントもあったが、3-0で勝利してグループ2位で準決勝進出を決めた。
均衡を破ったのは70分の直接FK。木村和司(明治大学)が正面から4人の壁を巻いて左上隅に決めた。さらに横山正文(新日鉄)から金田喜稔(日産)へのクロスが相手のハンドを誘ってPKを獲得。前田秀樹(古河電工)が決めて2点差とすると、さらに右サイド横山のクロスを長谷川治久(ヤンマー)が決めてダメを押した(その他、4本ものシュートがポストやバーに嫌われた)。
準決勝の対戦相手は北朝鮮だった。
1980年のW杯アジア1次予選、日本対北朝鮮戦のチケット(画像は後藤氏提供)
北朝鮮は、1966年のW杯イングランド大会のグループリーグでイタリアに勝利して、アジア勢として初めて準々決勝に進出。準々決勝でもポルトガル相手に25分までに3点を奪った。その後、大会得点王となったエウゼビオに4ゴールを決められて3-5と逆転負けしたものの、世界に衝撃を与えた。1974年には北朝鮮の「4.25体育団」が来日。日本代表が0-4と粉砕されたこともあった。
その北朝鮮を相手にしても、日本のテクニックは相手を上回った。
試合は予想通り日本が支配。だが、なかなか決定機を作れないまま前半はスコアレスで終了。後半も日本の攻勢が続いた。52分の風間八宏(筑波大学)のドリブルシュートを皮切りに、金田、戸塚哲也(読売クラブ)、木村、横山のドリブルが効果的で、北朝鮮のチャンスは金正万(キム・ジョンマン)のミスキックがGKの鈴木康仁(ヤンマー)の頭上を越えそうになった場面くらいだった。
だが、決定力不足が響いて試合は延長戦に突入する。
そして迎えた延長後半の115分。北朝鮮のカウンターに日本の守備組織が混乱。左からのパスを受けた金用男(キム・ヨンナム)に対して前田がチャレンジに行ったところでかわされて、決勝点を奪われたのだ。
北朝鮮は、1966年W杯でのポルトガル戦で長身FWのジョゼ・トーレスに苦しめられたため長身選手を集めてチームを作っていたが、金用男は唯一の小柄なテクニシャンタイプだった。
日本も120分にFKのチャンスを獲得し、木村のキックはゴール右上隅に飛んだがGKの金昌根(キム・チャングン)にキャッチされて、日本代表の挑戦は終わった。
「負けたから楽しかったとは言えないし、口惜しかったけど、俺たちはやれるなとは思いました。歯が立たなかったんじゃなかった。俺らのほうがうまいよなと思っていました。その『うまさ』でちゃんと勝ちたかった」と風間はその瞬間の気持ちを表現する。
【夢の中盤の衝撃】
日本で新聞記事を通じて結果だけを追っていた人たちは、「ああ、やっぱりまた負けたか」と思ったことだろう。なにしろ、試合の映像(動画)を簡単にチェックできるような時代ではなかったのだから......。
しかし、現地で日本代表の試合を観戦した僕にとっては日本代表の「夢の中盤」の衝撃は大きく、あれから半世紀近くが経過した今でもけっして忘れることができない記憶となっている。
なお、予選大会決勝戦の中国対北朝鮮は2-2のまま延長に入り、延長後半の黄向東と古広明の連続ゴールで4-2と中国が勝利してアジア最終予選に進出。
ホーム&アウェー方式で行なわれた最終予選でも、中国は最終戦を終了した時点でクウェートに次いで2位に付けており、得失点差でも大きくリード。当時のアジア枠は「2」だったのでW杯初出場に王手をかけていた。ところが、ニュージーランドがアウェーでサウジアラビアを5-0で破って勝点、得失点差ともに並んだため、中立地のシンガポールでプレーオフが行なわれてニュージーランドが勝利。中国はW杯初出場を逃してしまった。
1980年のスペインW杯アジア1次予選の時に「夢の中盤」が実現できたのは偶然ではなかった。まず、1970年代末頃からテクニックを持った若い選手が次々と現われたことが理由のひとつだ。
1960年代の東京、メキシコの両五輪で日本代表が活躍したことで、サッカーをプレーする少年の数が飛躍的に増えた。また、ペレ率いるスター軍団のブラジルが圧倒的な強さを発揮して優勝した1970年のメキシコW杯の全試合が「録画中継」という形でテレビ放映された。
そのブラジルのプレーに刺激を受けて、日本でもテクニシャンを育てようと考える指導者が各地に現われた。それまでの日本では体力勝負や根性論的な指導がまかり通っていたのだが、一部にそういう新しいスタイルの指導者が出てきたのだ。
1970年代に日本代表は負け続け、日本ーリーグの試合会場には閑古鳥が鳴いていたが、各地で少年たちが育っていた。
【テクニックのある選手が育った背景】
風間は静岡県清水市(現、静岡市清水区)で育った。1960年代に小学校教諭の堀田哲爾が小学生のリーグ戦を組織したことをきっかけに、清水では市内の学校が一体となって選手を育てる組織が作られ、少年サッカーや高校サッカーで全国をリード。数多くの名選手も輩出することになった。
その清水を代表する強豪高校のひとつ、清水商業高校(清商=現、清水桜が丘高校)の中心として活躍したのが風間だった(もっとも、静岡県内には強豪校が数多く存在したため、清商は全国選手権には出場できなかったのだが)。
風間は、市全体が一丸となっていたことを示すエピソードとして、大学進学時の話をしてくれた。
「筑波大学を受けてみたらどうかと言われたのは、清商の大滝(雅良)先生ではなく、ライバル校である清水東の勝沢(要)先生なんですよ。で、『実業高校から推薦で入ったやつはひとりもいない』と言われ、僕はそれほど大学に行きたかったわけではないけど、受けてみたら、受かっちゃった。サッカー界が今のようだったら高校行く前に海外へ行っちゃうか、高校を途中で辞めていたかもしれませんね」
また、金田や1学年後輩の木村は広島県立広島工業高校出身だった。
サッカー部を指導した松田輝幸は1969年に日本で開かれたFIFAコーチングスクールでライセンスを受け、日本ユース代表監督経験がある指導者で、テクニック重視で数多くの有名選手を育てている。
また、中盤の3人のうち最後に日本代表入りした戸塚は読売サッカークラブ育ち。当時としては珍しいクラブチームで選手たちは契約に基づいてプロ的な待遇を受けており、若い選手たちも与那城ジョージやラモス瑠偉など多くのブラジル出身選手がいるトップチームと一緒に練習する環境が整っていた。のちに左サイドバックの選手として名を馳せるが、香港の大会では右サイドバックを担当していた都並も戸塚と同学年の読売クラブ出身の選手だった。
また、若い選手が早くから代表入りできたのは、1979年に日本で第2回ワールドユース大会(現、U-20W杯)が開催されたことも大きかった。
「スカウト網が広がったんじゃないですかね。高校生400人くらいから選ばれているんですよ。(強化のために)すごく投資してもらって。ただ、みんな燃え尽きてしまってすぐにフル代表に入ったのは僕とGKの鈴木だけだった。ユースで一緒だった(水沼)貴史さんとはフル代表では入れ違いになってしまって、一緒にやってないんですよ」と風間。
世界大会の開催は日本サッカー協会にとってビッグプロジェクトであり、全国からタレントを発掘し、当時としては巨額の費用を投じて強化に努めたのだ。
ワールドユースは、前年のW杯で優勝したセサール・メノッティ監督率いるアルゼンチンが圧倒的な強さを見せて優勝。ディエゴ・マラドーナやラモン・ディアスのプレーが日本中を魅了した。
「優勝したアルゼンチンや準優勝のソ連がボール回ししているのを見て、『楽しそうだな』って思いました。俺たちは走ってばっかりで、ボールを触らせてもらえなかったから(笑)」
そして、大会直前に渡辺正監督が病気で倒れたことによって、風間が「特別な監督だった」という川淵三郎が監督に就任。思いきった若返り策でテクニシャンタイプの若手選手を集めて、プレーに制約を課すことなく、彼らのテクニックを発揮して戦わせたのである。
そうした様々な要因が重なって1980年の12月に出現した「夢の中盤」......。日本サッカーの前に大きな明るい未来が見えた気がしたのだが、「夢の中盤」はたちまちのうちに瓦解してしまう。
【瓦解した中盤】
選手たちをストレスなく戦わせた川淵監督は、コーチだった森孝慈に監督の座を譲ってすぐに退任してしまう。
風間は「川淵さんが監督をやっている姿を、もう少し見てみたかったという気持ちはありますね。そうしたら、Jリーグができるのが遅くなったかもしれないけど」と笑う。
3人のMFのうち風間は自らの意志を貫いて日本リーグ(JSL)の実業団入りすることなく西ドイツに渡った。攻撃的MFの戸塚は1984年にはJSLの得点王になるなど活躍を続けるが、代表のプレースタイルを嫌って招集辞退を繰り返した(1985年のW杯予選で一時的に代表に復帰)。
残ったのは金田と、香港ではウイングを務めていた木村だけ。彼らは、日産自動車の加茂周監督のアイディアで木村が中盤に下がり、金田がウイングとなってからも長く日本代表を牽引することになる。
森監督の下で日本代表は順調に強化を続けたかに見えたが、1984年のロサンゼルス五輪予選を前に森監督が数人のベテラン勢を復帰させたことでチーム内に不協和音が生じ、五輪最終予選では4戦全敗と惨敗を喫してしまった。
だが、森監督のチームは1985年に行なわれたメキシコW杯予選では快進撃。東アジア予選決勝で韓国とホーム&アウェーで対戦。勝てばW杯初出場というところまで漕ぎつけた。結局、すでにプロ化していた韓国が2連勝して日本代表は涙をのんだのだが、東京・国立競技場での第1戦では木村和司が"伝説のFK"を決めて一矢を報いた。
木村は、1986年には奥寺康彦とともに日本で最初の「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」、つまりプロ登録選手となる。
その後、1990年代に入ると日本には名波浩や中田英寿、小野伸二、遠藤保仁といった優れたMFが次々と現われて、国際試合でも日本が中盤を支配するのが普通のこととなっていった。1980年のスペインW杯アジア1次予選で実現した「夢の中盤」は、いわば時代を十数年先取りするものだったのだろう。
後藤健生●文 text by Takeo Goto
【関連記事】
◆【前編>>>】風間八宏が語る46年前のサッカー日本代表「夢の中盤」 香港の観客も拍手した若きテクニシャンたち
◆【サッカー日本代表】チームの機能性はU-21代表のほうが上伊東純也、中村敬斗ら、変わらぬ個人能力への依存度の高さ
◆【自転車】「これが五輪でもお前は脚を止めるか」世界選手権に挑む内野艶和が自らに問い続ける言葉
◆【インタビュー】JFA名誉会長・田嶋幸三に聞く「サッカー日本代表は2050年にワールドカップで優勝できるのか」カギは17歳Jデビュー
◆【人気動画】今だから話せる!? 長谷川健太の言うことを聞かなかった遠藤保仁