風間八宏が語る46年前のサッカー日本代表「夢の中盤」 香港の観客も拍手した若きテクニシャンたち

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風間八宏が語る46年前のサッカー日本代表「夢の中盤」 香港の観客も拍手した若きテクニシャンたち

10月12日(月) 6:30

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日本サッカーの知られざる歴史

1980年スペインW杯アジア1次予選前編

100年以上の歴史を誇る日本サッカーには、知られざる歴史がある。46年前に香港で行なわれたスペインW杯アジア1次予選。低迷していた日本代表に突如テクニカルな「夢の中盤」が出現した。ベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、その中心だった風間八宏氏を取材。当時の様子を紹介する。

風間八宏氏に46年前の日本代表を語ってもらったphoto by Torao Kishiku

風間八宏氏に46年前の日本代表を語ってもらったphoto by Torao Kishiku





【弱体化していた日本代表】 1980年12月から翌81年1月にかけて、当時はまだ英国領だった香港でスペインW杯アジア1次予選が集中開催された。

しかし、当時の日本ではサッカーのW杯に関心を持つ人は少なかった。この時筑波大学1年生(19歳)だった風間八宏(現、南葛SC監督)はこう述懐する。

「(W杯予選といっても)中学の時にテレビで見た1974年W杯とはつながってなかったですね。これを勝ち抜いていったら(フランツ・)ベッケンバウアーとやれるとか、(ヨハン・)クライフとやれるとか、何もつながってないですよ。別の大会だと思っていました。W杯は、やっぱりテレビで見るものでしたね」

風間のような有名選手にとっても「世界」は遠い存在だったのだ。

前年に日本で開催されたワールドユース大会(現、U-20W杯)に参加して、優勝したアルゼンチンのディエゴ・マラドーナらのプレーに触発された風間は、日本リーグ(JSL)の実業団でプレーする気はなかった。実際、筑波大学を卒業してから西ドイツに渡るのだが、W杯を身近なものとして感じたのは渡独してからだったという。

しかし、その後は西ドイツで活躍しても代表招集の声はかからず、風間にとってのW杯挑戦はスペイン大会予選が最初で最後となってしまった。

W杯への関心は高くなかったから、取材で香港に派遣されたのは専門誌のカメラマンひとりだけだった。写真を撮りながらレポートも書くのである。

もちろん、テレビでも、ラジオでも中継などはなく、新聞紙面での扱いも小さかった。

無理もないことだ。

1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した後、「メキシコ組」が引退するとともに日本代表は弱体化。W杯はもちろん、五輪でもアジア予選を突破できない状態が続いていた。

1980年3月にマレーシアの首都クアラルンプールで行なわれたモスクワ五輪最終予選でも、日本は韓国、マレーシアの後塵を拝して敗退。

日本代表は五輪予選終了後に渡辺正が新監督に就任して代表の若返りを図った。五輪予選で負けると4年後の五輪を目指して新たなサイクルが始まる......。当時の日本では、W杯予選はあくまで経験を積むための場でしかなかったのだ。

【大きく若返った代表メンバー】 風間も、渡辺監督の初陣となるジャパンカップ・キリンワールドサッカーで初招集され、3試合すべてに先発している。清水商業高校(清商=現、清水桜が丘高校)を卒業して筑波大学に入学したばかりの18歳での代表デビューだった。

風間は高校時代まで日本代表のことは特に意識していなかったという。

「(代表の試合なんて)見てないです。だって、テレビでやってくれないから静岡では見られないじゃないですか。東京育ちの都並たちは見ていたんでしょうけど。静岡の草薙でやったとしても、代表ではなくて相手を見に行っちゃう。自分がそこに入るなんて思っていないんで。高校生の時に代表に入るなんて思ってなかったです」

サッカー王国と言われた静岡で、清商の中心だった風間でもそんな意識だったのだ。

ちなみに、風間が言及している都並(敏史=現、ブリオベッカ浦安・市川監督)は少年時代から国立競技場などで日本代表を応援する熱狂的サポーターとして有名だった。

香港でのW杯予選で風間とともにMFとしてプレーした金田喜稔は1977年6月に1.FCケルン(西ドイツ)戦で代表デビューしており、直後に行なわれた釜本邦茂の代表引退試合となった日韓定期戦では釜本のアシストでゴールを決めて「世代交代」を強く印象付けた(19歳119日でのこのゴールは現在でも日本代表最年少ゴールとして残っている)。香港の大会当時は、22歳ながらすでに代表の常連だった。

こうして若返りを図っていた日本代表だったが、10月になって渡辺監督が病に倒れてしまった。新監督を選び直す時間もなかったので、日本サッカー協会強化部長だった川淵三郎(後にJリーグ初代チェアマンやJFA会長を歴任)が自ら監督となって、さらに若い選手を集めてW杯予選に臨むことになった。そのひとりが戸塚哲也だった。

戸塚は、当時は珍しかったクラブチーム、読売サッカークラブ(現、東京ヴェルディ)育ちの異色の選手で風間と同学年。W杯予選直前のゼロックス・スーパーサッカーで初めて代表入り。ヨハン・クライフがいたワシントン・ディプロマッツと対戦している。

こうして川淵監督の下で平均年齢21.6歳という若い日本代表が発足したのだが、香港に出発する直前に東京・国立競技場で行なわれた壮行試合では代表OBを集めた「日本代表シニア」に2-3のスコアで敗れてしまった。

僕もこの大会を観戦するために香港に向かったのだが、正直な話、そんな状態の日本代表にはほとんど何も期待していなかった。

しかし、香港で目撃した日本代表のパフォーマンスは期待をはるかに上回るものだった。

【地元の観客が拍手】 参加国は日本のほかに香港、中国、北朝鮮、シンガポール、マカオ。グループ分けのための予備予選を戦った後(日本はシンガポールに1-0で勝利)、3チームずつに分かれてリーグ戦を行ない、上位2チームずつが準決勝に進出。決勝戦で勝ったチームが最終予選に進むことができた。

日本は、グループリーグでまず中国と戦った。観客は16,900人。香港人は当然、中国を応援する。

そして、開始7分で中国の容志行に25メートルのミドルシュートを決められてしまう。

容志行は中国の伝説のFWだった。

中国は、台湾(中華民国)の加盟に抗議して1950年代末にFIFAを脱退。1979年にようやく復帰したばかりで、ひさしぶりのW杯挑戦だった。1960年代後半には中国は文化大革命で大混乱に陥り、国際的にもずっと孤立していた。

容志行は1970年代の中国のエースだったのだが、国際試合もほとんどなかったので、そのプレーは国外ではあまり知られていなかった。だが、一部には崔貞敏(チェ・ジョンミン=韓国)、釜本と並ぶ第2次世界大戦後のアジアを代表するストライカーとも言われていた。

容志行は32歳のベテランだったが、中国代表には後に日本の富士通(川崎フロンターレの前身)で選手、監督として活躍した沈祥福(23歳)や、後に西ドイツのダルムシュタット98でもプレーした古広明(21歳)などの若手もいた。

さて、中国に先制されたものの、その後は日本のMFがテクニックを発揮してゲームを支配する。そして、40分には右サイドをドリブルで抜けだした横山正文(新日鉄)のループシュートが左のポストに当たり、41分には正面のFKからの木村和司(明治大学)のシュートが4人の壁を越えたが、今度は右のポストに嫌われた。

後半は、さらに一方的な展開になり、終盤にはスイーパーを務めていた前田秀樹(古河電工)を中盤に上げてさらに攻勢を強めたが、結局、1点を返すことができずに日本は涙をのんだ。

しかし、内容は圧倒的だった。日本がテクニックを生かして試合をコントロールするというのは、これまでにはなかったことだ。そして、中国を応援していたはずの香港の観客も、いつの間にか日本の攻撃に拍手を送り始めていた。

中国広東省の一部だった香港はアヘン戦争後の1842年に英国植民地となった(1997年に中国に返還)。その後、多くの英国人が住むようになったため、香港は東アジアのサッカー界の中心地となっていた。

1937年に始まった日中戦争で、香港は中国の抗日戦を支援していた。太平洋戦争が始まった1941年に日本に占領されると、香港は弾圧を受け、経済も悪化した。1980年当時は、まだ戦争の記憶が残り、反日感情も強かった

だが、香港の観客はテクニカルなサッカーが大好きだった。それで、日本代表のボール回しに魅了されていったのだ。日本のパス回しに拍手が起こり、直接FKの場面では木村がボールをセットすると歓声が沸いた。

【テクニシャンを並べた監督】 観客席にいた僕も、日本代表の「夢の中盤」に目を見張っていた。

若い読者の皆さんは、「日本が中盤でボールを支配しながら決定力不足で得点できない」という展開は見慣れていることだろう。

だが、1970年代の日本代表は、韓国はもちろん、東南アジア相手にも技術的に劣っており、「その分を走力でカバーする」というのが日本代表のコンセプトだった。つい9カ月前の1980年3月のモスクワ五輪予選でも、日本はそんな戦い方をして敗れ去っていたのだ。

しかし、スペインW杯予選に臨んだ日本代表にはテクニシャンが集まっていた。

中盤を構成したのは最初に紹介した風間、金田、戸塚の3人。守備もうまい風間が今で言うアンカーを務め、インサイドハーフとして金田と戸塚が攻撃に絡んだ。

風間は、当時を思い出して、うまい選手が集まっていて面白かったと言う。

「やりやすいし、面白いし、(ベンチから細かい戦術的指示などはなかったが)自然に分担ができてきた。僕は守備ができるんで後ろをやることになった......」

テクニシャンを並べたのは川淵監督の考えだった。

「今考えると川淵さんてすごく(考え方が)柔らかかったなって思います。普通の監督は『やっちゃいけないこと』を言う。だけど、川淵さんはご自身でもけっこう楽しんでいたみたいで、テクニックを見せると『お前、どこであんなの覚えたの?』っていうのが多かったですよ。(前田)秀樹さんがセンターバック(CB)やっていましたよね。うまい人でした。ああいう人を最終ラインで起用したのもすごいなと思います」

前田はほとんどが24歳以下のチームの中で26歳と最年長。中国戦の終盤でポジションを上げてプレーする時間帯があったが、もともと守備的MFでプレーすることが多い、テクニックのある選手だった。

当時はCBというと体が大きくて強さのある選手ばかりで、パスをつなぐよりも遠くまでクリアすることが求められていた時代だった。だが、香港の大会ではテクニックがある前田が生粋のCBだった菅又哲男(日立)の後方でスイーパー(リベロ)としてプレーしていた。

【認め合った選手たち】 風間は、「今から振り返ると楽しい代表だったというふうに思いますね」と言う。

風間はほかの監督からは「そんなドリブルなんか試合じゃ通用しないだろう」といったネガティブなことを言われた経験もあるという。

「そうしたら、『できますよ』って試合でやって見せるんですけどね(笑)」

しかし、川淵監督はそんなことはいっさい言わなかったという。だから「居心地が良かった」というのだ。

「お互いに『この人うまいな』と認め合った選手たちでチームを構築するのはすごく心地よかったなと思いますね。川淵さんの時は、(テクニック系の選手たちは)みんなストレスがなかったんじゃないかな」

風間には、こんな記憶もあるという。

「3人の中盤は現地でも明らかに人気があったんだけど、特に戸塚に人気がありましたね。ある試合の後、香港の人たちがレフェリーの判定に不服でバスを取り囲んだんですよ。ホテルの前で。で、上から見ていて『止めに行こう』って何人かで行ったんだけど、『怖いな』って言ってたら、哲也が『ストーップ!』って止めに入ったんです。そうしたら、『おっ、お前は日本の選手じゃないか』って騒ぎが静かになったんですよ。それくらい人気がありましたよ」

>>後編「テクニカルな選手たちが出現した背景」



後藤健生●文 text by Takeo Goto

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