これも、44歳のレジェンドの存在感なのか。上野由岐子は投げなくとも、日本をアジア大会7連覇に導いた。ソフトボール決勝戦、日本はライバル中国を相手に5回裏で7対0とし、コールド勝ちとなった。
秋晴れの10月3日、安城市総合運動公園ソフトボール場。宇津木麗華ヘッドコーチによると、上野は6回からマウンドに上がる予定だった。4回裏、5対0とリードした日本のベンチから上野がグラウンド脇に出て、キャッチボールを始める。肩はすぐに出来上がった。
日本は5回裏、チャンスを広げた。上野の述懐。「コールドゲームになりそうだったので、投球練習をさっさと切り上げて、ベンチに帰った時でした」。2死満塁から藤本麗(うらら)が中前2点適時打を放ち、7点差とした。ゲームセット──金メダルだ。
後藤希友(左)と上野由岐子(右)の年齢差は19歳photo by Kyodo News
上野はベンチを飛び出し、グラウンドの歓喜の輪に飛び込んだ。満員のスタンドに何度も手を振った。もう笑うしかあるまい。
「何というか、想定外の試合展開でした。(救援登板の)準備はしていたんですけど、まあ、正直、気持ち的にはラクでした。こればっかりは仕方ないです。とりあえず、勝ててよかったです。(アジア大会7連覇は)神様からのご褒美だと思って、しっかり噛み締めたいと思います」
決勝で登板はなくとも、日本の投手陣をリードしたのは上野である。「何かあったら私がうしろでちゃんと準備しているから、思いっきり行ってこい──という感じでした」と上野が言えば、5回無失点で投げ抜いた先発の25歳・後藤希友(みう)はこう感謝した。
「まだまだ(上野に)おんぶに抱っこなので、うしろにいてくれる存在としてすごく心強いです」
上野は今大会、10月1日のチャイニーズ・タイペイ戦では3回からロングリリーフで5回5安打1失点。2日の1次リーグ最終戦の中国戦では、6回途中から投げて無安打無失点と完璧に締めくくった。球数は合わせて、わずか96球だった。
宇津木ヘッドコーチはこう語る。
「ピッチャー陣を引っ張ったのは、間違いなく上野だと思っています。ピッチングのレベルも全然落ちていない。さらに目に見えないところでもチームに貢献しているのが、上野のすごさじゃないかなと思います」
【辞めてもいいなと思うことも】振り返れば24年間、いろんなことがあった。決して平坦な道のりではなかった。2002年釜山アジア大会で日本代表は初優勝。その時のエースが20歳の上野だった。以後、今大会までアジア大会7連覇。マウンドには必ず「鉄腕・上野」がいた。
2008年の北京五輪もそうだった。最後は、26歳の上野が2日間で3試合をひとりで投げ抜いた。日本ソフトボール史に残る「上野の413球」である。体はボロボロ。しかし優勝直後の上野は、「頭がパンクしそうに疲れました」と精神的な疲労を口にした。
上野はその後、燃え尽き症候群に陥った。北京大会を最後に、五輪競技からソフトボールが除外された。現役引退が脳裏にちらついた。指導者になるための資格も取った。
その後、何度か大けがも負っている。それでも、やはり上野はソフトボールから離れることができなかった。「辞めてもいいな、と思うことは多々ありますよ」と小さく笑った。
「そのくらい、選手を続けるのが難しかったり、簡単なことではなかったりすると思うので......。ただ、辞められない理由があったり、辞めたくない思いがあったり、いろんなものがあって、それが今、何とかつながっている一番の要因じゃないかなと思います」
ソフトボールが復活した2021年の東京五輪では、13年越しの連覇を果たした。上野は珍しく泣いた。当時39歳。決勝のマウンドは6回途中でいったん当時20歳の後藤に託し、最後は再びマウンドに戻った。2対0の快勝。北京五輪とは違い、その時はふたりでマウンドをつないだ。
そういえば、後藤は小学生の時、北京五輪の「上野の413球」に感動し、ソフトボールを始めた逸材だった。憧れから現実に──そうやって時代はつながれていく。
東京五輪はコロナ禍のため、無観客だった。しかし、この日は満員の地元ファンが安城市の会場を埋めた。上野は言葉に実感を込める。
「どの日本戦も満杯で、とっても心強かったです。私たちも『もっとがんばらなきゃ』という思いにさせてもらえました」
【辞める勇気につながらなかった】ソフトボールは2024年のパリ五輪で再び、実施競技から外れた。2028年ロサンゼルス五輪では復活する。だからこのアジア大会は、7年越しの五輪連覇を目指すための「通過点」と位置づけた。
バトンを引き継ぐ後藤は、上野から多くを学んできた。ストイックさ、打者との駆け引き、配球、メリハリ......。
「(上野の)背中を見ていると、まだまだ及ばないなと思うところが多いです。尊敬しかない。経験値の差をいつも感じています」
ソフトボール人生で一番つらかったことは?上野は正直だ。
「年を重ねるたびに、ケガが一番になりますね。『もうこれで引退かな』と何度も思った。投げられなくなったり、打たれたりすることが、一番そういう思いにさせる要因でした。燃え尽き症候群にもなった。ただ、心の中のいろんな葛藤を乗り越えたからこそ、今があるんだろうなと肌で感じています。ああ、あの時、我慢してよかったな......と思っています」
結局どういう局面になっても、ソフトボールへの情熱は消えなかったということだろう。モチベーションを聞くと、「やっぱりソフトボールが好きなんです」と照れる。
「投げている時が一番楽しいとか、勝った時が一番うれしいとか、優勝した時の味を知っているとか......いろんなことが辞める勇気につながらなかった要因かなと思います」
44歳の今、もしも20歳の自分に言葉をかけられるとしたら?
上野は「ハハハ」と笑いながら、言葉を継いだ。
「ハタチの時にしかできないことがたくさんあるから、もっと自信をもって『ソフトボールを楽しんでやれ』と言いたいですね。でも、当時の自分もソフトボールが大好きだったんで、そんなことを言わなくてもやっていたと思いますけど」
この日の決勝戦、三塁側(日本側のダグアウトの上)の観客席には、上野の両親の姿もあった。故郷・福岡から駆けつけたのだ。父は満面の笑顔を浮かべる娘の姿を追った。
子を思う親心だろう、言葉が滋味(じみ)を帯びる。
「ようがんばったな、とは思いますよ。いや、たぶん、本人はがんばったとは思っていないかもしれません。子どもの頃からいつも、上手くなりたい、できないことをできるようになりたいと思っているだけでしょう。本人は、努力とは思っていない。好きなことをやっているだけです」
【やれるうちが花だよな】上野が2001年に日立高崎(現・ビックカメラ高崎)に入社した時から、ずっと指導している宇津木妙子氏(日本ソフトボール協会・終身名誉監督)もこう語る。
「最終的にはソフトボールが好きなんですよ。『上野由岐子=ソフトボール』です。ただ、自分の考えで辞めたいと言いにくいのは、逆にかわいそうだと思うよ。
表でも、陰でも、すごく努力しているよ。トレーニングも、食事も、体調管理も。年齢とともにいろいろ考えている。本人も勉強している。やっぱり、ここが強いんだよ、ここが」
そう言って、右手で指した先には心臓(ハート)があった。
強くて豊かな「心」も、冷静な「頭」も、健康な「体」があればこそ──。そういった意味では、北京五輪前から上野をサポートしている名トレーナー鴻江寿治(ひさお)氏の存在は大きい。
体のメカニズムや骨盤・骨格の説明を受け、どういうバランスでプレーすると効果的なのか、どうケアすればいいのか、ずっと指導を受けてきた。上野は「(鴻江)先生がいるからこそ、現役選手でまだやれているのかなというのは肌で感じています」と言う。
ただ、「年相応に、体は疲弊しています」とも打ち明ける。
「神経質にならずに、でも雑にならずに──。選手としてやらないといけないことと、自分の心を満たすためにやりたいことを、上手に天秤にかけながら選択している生活をしていますね」
最後に、上野は冗談口調で言う。
「若い時は正直、自分がこんなに長くソフトボールを続けているとは想像してなかった。自分でもどこまでできるんだろう、どこまでやりたいのだろうと、妙な葛藤はありながらも、『やれるうちが花だよな』とも思っています」
これが最後のアジア大会、とは考えている。「次はもうない。自分の心がそう言っている気がします。次はスタッフの立場で出ると思います」と笑った。
新たなターゲットは、2028年ロサンゼルス五輪の出場枠をかけた「ワールドカップファイナル2027」だ。来年4月にオーストラリアで開催されるこの大会に、上野は後藤ら若手とともに挑む。
「やっぱり、ここで満足してはいけない。まだ、ソフトボールをやりたいんです」
44歳の挑戦は、まだ終わらない。
松瀬 学●取材・文text by Manabu Matsuse
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