野球の未来を見ていた男〜近藤貞雄伝
証言者若菜嘉晴(後編)
1985年、若菜嘉晴は自身初の全試合出場を果たし、横浜大洋の正捕手となった。監督の近藤貞雄から「おまえがやりたいようにやれ」とディフェンス面を一任され、自由奔放にプレー。グラウンド外でも、遠征先で門限がないなど、規律に縛られることはなかった。
若菜は約20年の現役生活で10人の監督に仕えたが、そのなかでも近藤は唯一無二の存在だったという。その独自性について聞いた。
若菜嘉晴氏が指揮官として唯一無二の存在だったと語る近藤貞雄氏photo by Sankei Visual
【大胆コンバートに見た先見性】「選手に自由にさせる裏返しは責任ですよ。遊びに行くんだったら、ちゃんとしろよ。飲むんだったら、自分の金で飲めと。大人の責任を取りなさい、取れないなら行くなと。僕にはそれが合ってたんでしょうね。もともと何かの枠にはまりたがらない人間なんで。そういう意味では、近藤さんご本人もそうだったんだと思います。ダンディーですからね、遊び方も」
試合でも選手の自由度は高かった。攻撃型のオーダーでスタートし、終盤になると守備型の選手に入れ替える"アメフト野球"を実行。すなわち、中盤までは選手に試合を預けて点を取りにいき、リードした終盤は継投策など監督の采配で逃げきる。自由な攻撃の象徴が、1番・高木豊、2番・加藤博一、3番・屋鋪要と俊足選手を並べた"スーパーカートリオ"だった。
「そうなんです。『全部ノーサインで走れ』ですからね。それでひとりずつ塁に出て、ひとりずつアウトになった時もあるわけですけど、近藤さんは何ともない(笑)。ただ、逆に初回に4、5点取られたら、監督、ベンチにいないですもんね。オレにできることは何もないと。それで、競ってくると戻ってきて采配を振るんですよ。そこまで割り切れる人も、まずいませんね。
あとは、内野のコンバート。田代(富雄)をファースト、レオンをサードに回して、山下(大輔)さんをセカンドに持っていって、高木豊をショートに替えた。そういうところは、早かったと思いますね。今はけっこうコンバートしますし、ポジションも動かしますけど、近藤さんはその当時にどんどんやってましたから」
一塁と三塁の入れ替えについては、田代の守備の負担を軽減する良策と受け止められた。一方、二塁と遊撃の入れ替えは、キャンプ中から批判的な目で見られていた。近藤は「山下のスピードの衰え」を理由に挙げたが、二塁では体の動きが逆になるため、周囲から疑問視されたのだ。それでも敢行した監督を、一捕手として若菜はどう見ていたのだろう。
「いや、どうということはないですよ。はっきり『入れ替える』と言ってくれましたし、内野に変化を出せばよかったわけですから。で、田代はバッティングを優先させたのに空振りばっかりするんで、近藤さんが『目の検査に行ってこい』と。それで眼鏡をかけるわけです。本当に選手をよく見ていたし、人を見る目が若干、違っていたのかもしれないですね」
【近藤野球から一転した若菜の立場】コンバートも、スーパーカートリオも、選手に任せた以上、その責任は自分で負う。新たなポジションでミスをしようが、ノーサインで走ってアウトになろうが、責めることはなかった。そのうえで選手には自由にプレーさせ、それぞれの個性を見極めながら適材適所で起用する。監督が選手を管理し、ひとつの歯車として動かす野球とは対極にあった。
「近藤さんとすれば、『自分たちで考えてやりなさい』っていうことだったと思います。だから大人の野球というか、今の時代のプロ野球じゃないですか。それを40年前にやっていたわけですから。やっぱり早過ぎたかもしれません」
当時の大洋は、選手一人ひとりの能力は高く、若菜から見ても個性豊かな選手が揃っていた。ただ、「早過ぎた」近藤の方針に戸惑う選手も少なくなかった。1985年は4位、86年も4位と浮上できず、近藤は退任。古葉竹識に監督が代わった87年、広島から移籍した堀場英孝が捕手として多く起用され、若菜の出場機会は減っていった。
「古葉さんの野球に合わなかったのか......。好き嫌いっていうのは指導者にはありますからね、少なくとも。同じような力があれば、好きな選手を使いますよ」
1988年は開幕当初こそ若菜が起用されたものの、5月から市川和正の出場機会が増え、主力捕手となった。そんななか、若菜は「投手コーチが一球一球サインを出すのはおかしい」と首脳陣を批判した。公に首脳陣を批判することは当然、許されることではない。ただ、近藤からすべてを任されてきたプロ17年目の捕手として、納得できない思いがあった。
さらにオフの契約更改時の記者会見では、年俸の増減をめぐって同僚を批判するような発言もあった。いずれも報道陣を前にした発言だったが、その影響は小さくなく、若菜はチーム内で居場所を失いかけていた。
【「もったいない」で選手を生かす】すると翌89年の開幕直前、無償トレードで日本ハムへの移籍が決まる。同年、監督に就任した近藤の要請だった。
「人づてに聞いたのか、心配で呼んでくれたんじゃないですかね。『おまえ、あそこにいても気まずいだろうから、オレが呼んだ』と言われましたので......。でも、選手に情がからむのは嫌だったはずなのに、よく呼んでくれたなと思います」
日本ハムには正捕手・田村藤夫がいたが、控え捕手の層は薄く、若菜は2番手として貢献した。移籍2年目には「おまえが何とかしろ」と、近藤から託された新人左腕・酒井光次郎の専任捕手となり、10勝を挙げる活躍を支えた。若手投手にはベテラン捕手のリードが合う──。そこにも近藤らしい適材適所の発想があった。
「その人の、生かせるところを常に見つけようとしているんですよね。たとえば、クビになりそうな選手でも『まだもったいない、こんな長所があるんだから』と言って生かす。これは近藤さん自身もそうなんです。現役の時、事故で指が曲がってしまったんですけれど、それを逆に利用した変化球を覚え、ピッチャーとして復活したわけです」
近藤は巨人で23勝を挙げた1946年のオフ、事故で右手中指を負傷した。戦後間もない時代で十分な治療を受けられず、指は曲がったままになった。本来の投球を取り戻せず巨人を退団したが、48年に中日へ移籍。中指を使わないパームボールを習得し、54年まで現役を続けた。
「何かが悪くても、いいところを自分のものにして生かす、という考えがあったと思います。そういう意味で、日本ハムで印象的だったのは広瀬(哲朗)です。当時はまだ控えでしたけど、近藤さんが『おまえは走り屋専門なんだから、盗塁する時、ぜんぶヘッドスライディングしろ』って。そこからですよ、広瀬がスターになっていくのは」
俊足でアグレッシブなプレーが持ち味だった広瀬は、やがてヘッドスライディングを代名詞とする選手になった。一塁にも頭から飛び込む、そのスタイルの原点に近藤の指示があったという。
その後、打力も徐々に向上した広瀬は1993年、94年とオールスターに出場。遊撃手部門でベストナイン、ゴールデングラブ賞を2年連続で受賞するまでになった。
「個性的な選手をつくっていくんですよ。チームづくりじゃなくて。優勝するのは難しいかもしれないけれど、個性を見出して、生かすことに長けていたと思います。今の野球界は個性のある人が少ないんで、近藤さんみたいな監督がいたらいいんでしょうけどね」
実際、日本ハムでの3年間でも優勝には届かず、1991年限りで近藤は退任。同じ年、若菜も37歳でユニフォームを脱いだ。理解者である近藤と出会い、捕手として長く現役を続け、打っては通算1037安打を残した。
【ダイエーのコーチとして城島健司の育成に尽力】そして引退後、若菜は指導者となる。ダイエー(現・ソフトバンク)監督の王貞治から、とくに城島健司の育成を託され、97年から2001年までバッテリーコーチを務めた。
城島を指導するにあたり、若菜が協力を求めたのが、日本ハムからロッテを経てFAでダイエーに加入した田村だった。若菜自身が「日本一の捕手」と高く評価する田村を生きた教材とし、城島にはミットを大切に扱うところから教え込んだ。
「田村はもうレギュラーでやる力はなかったけれど、後々コーチになるとみて『城島に手本を見せてやってくれ』と。近藤さんと同じ考えで、田村のいいところを生かしたんです。それで城島には、少々やんちゃでも『野球をしっかりやってくれれば』って思いながら、いろいろアドバイスしました。指導者としてそういう接し方ができたのも近藤さんのおかげですし、今も感謝しています」
(文中敬称略)
高橋安幸●文text by Yasuyuki Takahashi
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