【プロ野球】「普通なら監督批判で罰金ものですよ」 若菜嘉晴が明かす近藤貞雄と選手たちの"不思議な信頼関係"

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【プロ野球】「普通なら監督批判で罰金ものですよ」 若菜嘉晴が明かす近藤貞雄と選手たちの"不思議な信頼関係"

10月2日(金) 9:35

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野球の未来を見ていた男〜近藤貞雄伝

証言者若菜嘉晴(前編)

「近藤貞雄さんがいなかったら、早々と野球を辞めていたかもしれません。僕はもう本当に、かわいがってもらいましたから」

開口一番、若菜嘉晴はそう言った。1985年から横浜大洋(現・DeNA)、89年から日本ハムと、2球団で近藤監督のもとプレーした強肩の大型捕手。それ以前には阪神、太平洋クラブ=クラウンライター(現・西武)でもプレーし、現役生活は20年に及んだ。そんな若菜が、なぜ「早々と野球を辞めていたかもしれない」と言うのか──。まずは高校時代からの球歴に触れておきたい。

1983年7月に大洋に入団した若菜嘉晴photo by Kyodo News

1983年7月に大洋に入団した若菜嘉晴photo by Kyodo News





【戦力外危機から正捕手へ】若菜は福岡・柳川商(現・柳川高)から1971年のドラフト4位で西鉄(現・西武)に入団した。高校同期の真弓明信も電電九州を経て翌年入団するが、69年以降の西鉄は八百長騒動「黒い霧事件」(※)の影響で弱体化。72年オフに福岡野球へ売却されると、スポンサーの太平洋クラブを球団名に冠して再スタートを切った。

※西鉄・永易将之の八百長疑惑を発端に、複数のプロ野球選手と反社会的勢力との関係や敗退行為が次々と表面化し、池永正明をはじめ永久失格者まで出した日本プロ野球史上最大級の不祥事

その間、若菜は二軍暮らしが続いたものの、コーチの指示で1年目から一軍投手の球をブルペンで受け、捕球技術を磨いた。73年には野球留学でアメリカの1Aでもプレーするなど、英才教育を受けていた。

それでも一時は戦力外の危機に直面したが、柳川商の先輩である鬼頭政一が監督に就任した76年から出場機会が増加。球団名がクラウンライターに変わった77年にブレイクし、主力捕手となった。若菜に当時の状況を聞く。

「鬼頭さんが学校の先輩という縁もあって、使ってもらったと思います。それで開幕2戦目で満塁ホームランを打って。4月にもう1本、満塁で打って注目されて。阪急(現・オリックス)戦でよく打つんで、上田(利治)監督に覚えてもらって、オールスターにも監督推薦で出していただきました。で、その時、野村(克也)さんに『リード、教えてください』ってお願いしたんですよ」

当時、野村は南海(現・ソフトバンク)の監督兼正捕手となって8年目。42歳の大ベテランに、23歳の若菜が単刀直入に頼み込んだが、こう返された。

「まだ10年早い。お金持ってきても教えない。30になったらわかる」

それでも一軍での出場が増えてからの若菜は、可能な限り球界を代表する捕手のプレーを凝視した。とりわけ惹きつけられたのが、投手を自由自在に操るようなリードだった。

「実際に30歳になる前ぐらいですかね。リードがどういうものか、自分なりにわかり始めたのは。阪神に移ったのが26歳でしたから。ピッチャーはひと癖もふた癖もある年上の人ばかりで、なかなか言うこと聞いてくれないですよ(笑)。それで個々の人間性とか性格を考えて、何とか引っ張って」

【単身渡米でつないだ現役生活】球団がクラウンライターから西武へと変わる1978年オフ、若菜は根本陸夫監督からトレードを通告された。内野手・真弓、外野手・竹之内雅史、投手・竹田和史とともに、阪神の捕手・田淵幸一、投手・古沢憲司との交換で移籍。監督のドン・ブレイザーに重用され、新天地でも主力となった。自身初の打率3割超えを果たして9本塁打を放ち、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)も初受賞した。

移籍2年目以降も正捕手として安定した働きを見せ、オールスターにも毎年出場。攻守に活躍していた若菜だったが、1982年オフ、醜聞をきっかけに退団を余儀なくされる。「黒い噂」もあって国内での移籍先が閉ざされるなか、翌83年2月、阪神球団代表の紹介でメッツ傘下3Aタイドウォーター・タイズに入団。3月に渡米し、メジャーを夢見てフロリダのキャンプに参加した。

「今なら日本で実績があってエージェントがつけば、とりあえずマイナーでも行けるんですけれど、僕は個人的に契約してひとりで行ったんで、それは無理ですよ。ただ3Aの監督が、巨人にいたデービー・ジョンソンだったのがラッキーでした」

トライアウトを経て3Aの選手枠には入れなかったものの、若菜はコーチ登録でチームに同行した。日本と縁のあるジョンソンが球団に推薦し、選手に欠員が出た場合には試合に出場できる立場だった。

とはいえ、まだ29歳。日本で現役を続けたいという思いは消えなかった。6月にメッツ傘下を離れて帰国し、7月1日に大洋への入団が発表された。チームには捕手陣の人材難という事情があり、監督の関根潤三とフロントとの間でも若菜の名前が話題に上っていた。

【言葉より行動で示した信頼】球団の調査によって「噂」も事実無根と判明。大洋の次期監督として招請していた長嶋茂雄に若菜獲得を打診したところ、承諾を得たという。7月1日に入団した若菜は、8月初旬から28試合に出場した。

しかし、結局「長嶋大洋」は実現せず、翌1984年も関根が続投。チームは最下位に低迷し、そのオフに監督交代となった。そこで就任したのが近藤だった。就任1年目の85年、若菜は自身初の全試合出場を果たしている。

「理解者ですね。関根さんも自由に野球をやらせてくれましたけど、近藤さんからは『おまえがやりたいようにやれ』って言われて。そのうえで『ピッチャーがおかしくなってきたなと思ったら、オレのほうにサインくれ』と。指示されたのはそれだけで、まず話さないですよ。だって、試合終わったらすぐ帰りますもん。シャワーも浴びないで(笑)」

球場の浴室で近藤が"カラスの行水"だったことは、かねてから選手の間で知られていた。入浴さえせずに帰る姿を見た若菜によれば、「ダンディーだから、自分の裸を人に見せたくないんですよ」とのこと。

それはともかく、選手との対話がほとんどない監督で、チームはうまく回っていくものなのか。中日監督時代には、十分に対話をしないまま選手を叱責することもあり、特にベテラン勢から反発を招いたとも聞く。

「采配を振るううえで、選手に情がからむのが嫌だったんじゃないですかね。細かい指示はコーチに任せていましたし、選手と一緒にご飯食べて飲んで......というのもまずなかった。ただ、試合ではよく選手をかばって、審判の方に抗議して、暴言吐いて退場食らってますけれど、そこは一番、近藤さんを慕っていくところじゃないですか。監督が自分のために、っていうところがね」

【朝帰りも許した近藤流の選手掌握術】1986年5月9日の中日戦。大洋が1点リードで迎えた9回裏、無死一塁の場面で、近藤は野球人生で初めて退場処分を受けた。この時、捕手は若菜、投手は抑えの齊藤明雄[俊寺4]だった。投球後、なぜか球審が「タイム」を宣告したため、バッテリーがすぐに抗議すると、近藤もベンチを飛び出した。

球審の説明では、齊藤がモーションを起こす直前、中日の三塁コーチが打者とのサイン確認のためタイムを要求し、三塁塁審がそれを認めていたという。近藤は三塁塁審のもとへ走り寄り、顔を近づけて唇をとがらせながら大声で罵倒。審判への侮辱行為で「退場!」を宣告された。

その姿を目の当たりにした若菜も齊藤も、ますます近藤を慕うようになった。監督と選手の関係性も、次第に変わっていったという。

「齊藤明雄がピンチになった時、監督がマウンドまで手を出して来るわけです。でも齊藤が知らん顔して二塁ベース寄りに行くと、監督は下がっていくんですよ。『もう任した』と。結局、行っても話にならんからってベンチに帰るんじゃないですか。普通、そんなことしたら監督批判で罰金ものですよ(笑)。近藤さんはそれができた監督というか。今だったらできないですよ」

1972年からの中日コーチ時代、近藤は投手分業制を実行すべく、球数を目安に交代のタイミングを見定めていた。だが、投手といえば先発完投が当たり前の時代。交代命令を素直に聞く投手はめったにいなかった。そこで近藤は、投手の手から強引にボールをもぎ取った。

大洋では齊藤に無言でかわされると、そのまま引き下がったが、中日時代の投手陣からつけられた渾名は"もぎり屋"。その過去を知っている若菜たちにとって、齊藤とのやりとりはなおさらおかしかった。

「それを僕ら知ってるから、余計におかしくて。近藤さんも楽しかったんじゃないですか。で、門限がないんですよ、遠征先で。僕と齊藤が朝帰りしたら、近藤さんが『おはよう。おかえり』って......。飲みに行って、選手より遅く帰って来る監督っていないでしょ。普通、怒りますよね。それぐらい『試合でちゃんとやってくれさえすればいい』っていう人でもありました」

(文中敬称略)

つづく>>



高橋安幸●文text by Yasuyuki Takahashi

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