マックフルーリー、チャルメラ…最近よく見る「懐メロの替え歌」CMに覚える“違和感”の正体

画像はマクドナルド公式YouTubeより

マックフルーリー、チャルメラ…最近よく見る「懐メロの替え歌」CMに覚える“違和感”の正体

9月20日(日) 8:54

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最近よく見る「懐メロの替え歌」CM



昔からヒット曲の替え歌は存在してきました。作者が怒りそうなギリギリのラインを攻めつつも、思わず「上手いな」とうなってしまう言葉遊びは、確かに音楽のひとつの楽しみかたではあります。

最近も、替え歌をフィーチャーしたテレビCMをよく見ます。しかしながら、そこにはかつてあったようなユーモアや皮肉、そして言葉を巧みに配置する細やかな職人芸はありません。代わりに、懐メロの力に寄りかかった無策ぶりばかりが目立つようになってしまいました。

最近のテレビCMに顕著な、この怠惰なノスタルジアについて考えます。

メロディーと歌詞を無惨に分断する替え歌

象徴的な例が、マクドナルドの新作マックフルーリーのCMです。人気ガールズグループ・HANAのKOHARUが「Lifetime Respect」(三木道三)の<一生一緒にいてくれや>というフレーズを歌ったあとに、何のひねりもなく同じメロディーで<アーモンドチョコレートとマックフルーリー>と続けるのです。オリジナルの歌詞の<みてくれや才能も全部含めて>の音韻とは何一つ重なっていません。ただの商品紹介のためだけに、メロディーと歌詞が無惨にも分断され、「Lifetime Respect」という曲の生命が奪われてしまったのです。

鈴木福が出演する明星「チャルメラ」のCMにも同様の問題が起きています。奥田民生の「さすらい」の替え歌を鈴木福本人が歌うというもので、その歌いだしはラーメンとかけて<さぁすすろう>となっているのです。そして<ホタテだしがかくし味だから美味いよチャルメラ食べよう>と続く。

これは、「さすらい」と<さぁすすろう>が辛うじてなるほどと思わせるのみで、あとはただの情報提供になってしまっています。マックフルーリーの「Lifetime Respect」とほぼ同じだと言っていいでしょう。

こちらも、原曲に漂う大陸的なムードは跡形もなく消えてしまい、ひとつの小ネタに再利用される目的に矮小化されてしまいました。

なぜ90年代や2000年代前半の曲ばかり使われる?



さて、このように最近のCMでは最新のヒット曲よりも、90年代や2000年代前半ぐらいの曲が使われるケースが多いようです。

ひとつには、テレビを視聴する年齢層が高いこともあるでしょう。彼らにアピールするためには、その人たちの青春時代を呼び起こす音楽が望ましいからです。同時に、「みんなが知っているヒット曲」が存在できたのも、ちょうどその時代あたりまでだった事情もプラスに作用します。

その意味で、日本の音楽市場におけるCDバブルの時代が、この手のグッドメロディーの宝の山であり、うまく活用すれば新たな金脈を生み出す可能性に満ちているというわけです。商品名やサービスの内容を効率よく伝える手段として、この「誰でも知ってるメロディー」が再利用できることは、クライアントにとって大きな魅力なのだと思います。

そして、著作権を管理している音楽出版社にとっても、新たなビジネスモデルとなり得るものでしょう。

最近のCMの替え歌に感じる「決定的な違和感」の正体

けれども、ここでひとつ音楽的な観点から疑問を呈したいと思います。果たして、曲とはメロディだけで独立した表現なのか、ということです。つまり、CMの替え歌でメロディーだけを生かしたところで、それが原曲のエッセンスを引き継いでいると言えるのでしょうか?

アメリカの大作曲家で、「アルフィー」や「雨にぬれても」などの曲で知られるバート・バカラック(1928-2023)は、インタビューでメロディーの重要性について訊かれた際にこう語っていたことがあります。

<昔はそう思っていたんだけどね。最近は、大切なのは歌詞なんじゃないかと思うようになった。昔は、人が口笛で吹くのは歌詞なのではなく、メロディーだと思ってた。覚えてるのはメロディーだと。もちろんそれはそうなんだが、歌詞がひどければ曲にダメージを与える。>(『インスピレーション』ポール・ゾロ丸山京子訳)

つまり、バカラックは、人は口笛や鼻歌などで音符だけをたどっているように見えて、実はそこに歌詞の内実を情感として込めている、と言っているのです。人々が言葉から引き出したその情感こそが、曲を曲たらしめる要素であって、決して音符の並びだけが別個で存在していたところで、名曲は名曲としての格を保てない、と言っているのです。

これこそが、最近のCMの替え歌に感じる決定的な違和感の正体なのです。

たとえば、今から20年後ぐらいにOfficial髭男dismの「Pretender」が替え歌になってCMで流れたら、どんな気持ちになるでしょうか。

<君の運命のヒトは僕じゃない>、<永遠も約束もないけれどとても綺麗だ>といったフレーズが、新作スイーツのキャッチコピーに書き換えられたとき、それでも音楽は流れているべきだと言えるのでしょうか。

たかが数十秒のCMかもしれません。しかしながら、その曲に人々がそれぞれ抱く思い出は永遠であるはずです。

替え歌CMの安易さとは、その手法においてではなく、言葉が担保する音楽の永遠性を軽んじていることなのだと思います。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4

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