テレビアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版第4作「劇場版魔法少女まどか☆マギカワルプルギスの廻天」が、8月28日に封切られた。同日“まどマギ”を愛し続けた筆者は、最速でIMAX上映を鑑賞。その9時間後――メモを走らせながら、通常版(シネスコ画角)と相対していた。
「13年たったことの重みが、ある意味反転したベクトルで伝わりました」
これが、まずは映画.com編集部に送った“言葉”――。それから数時間後、衝動のまま書き上げた論考を、いま開示しよう。
【「劇場版魔法少女まどか☆マギカワルプルギスの廻天」あらすじ】
見滝原市の女の子たちの間では、この世の呪いと戦うことと引き換えに「トカゲさん電話」が願いをかなえてくれるという噂話がささやかれていた。その頃、ソウルジェムを持たない少女が魔獣狩りを行うという異常事態が続発する。その状況を悠然と眺める暁美ほむらは、この世界に君臨する悪魔としてすべてをほしいままにしているはずだったが、そんな歪んだ日常を終わらせる存在が突如として現れる。すべての魔女の始まりの場所である「名塚底根(なづかそこつね)」、かつてほむらを苦しめた複数の魔女の集合体「ワルプルギスの夜」、そして「円環の理」を求める2人の魔法少女。円環の理を失った世界で、魔法少女たちの運命は再び廻りはじめる。
※以下の文章には、「劇場版魔法少女まどか☆マギカワルプルギスの廻天」のネタバレが含まれています。未見の方はご注意ください。
●オープニングが提示される“グロテスクな循環”
書物の破壊という歴史が示すように、世界の記録はしばしば改竄されてきた。そのことへの皮肉であるかのように、本作はまず電話が鳴ること――誰かへの「呼びかけ」から始まる。
この電話こそ、本作を読み解くひとつの鍵だろう。
スマートフォン向けゲーム「魔法少女まどか☆マギカ Magia Exedra」において、電話は少女たちをチーム戦へと招集し、個々の少女を集団的な闘争へと接続するメディアとして機能している(「ユニオン」モードのこと)。同様に「廻天」の冒頭でも、悪魔となったほむらは、魔獣を倒すために自らを犠牲にしようとする少女たちへ呼びかける。
ここで魔獣とは、さしあたり「個」を欠いた集団として現れる敵だと考えることができる。それに対してほむらが作り出すのもまた、一時的に「魔法少女」という形式を与えられた、無名の少女たちの集団である。彼女たちはそれぞれの言葉で、世界を変革しようとする自らのイデオロギーを語るものの、ほむらにとっては、いわば「トカゲのしっぽ切り」のように交換可能な戦力にすぎない。前作で観客を鮮烈に裏切り、「悪魔」として世界そのものを書き換えたほむらは、ここではむしろ意図的に悪を演じる道化として振る舞い、自らが戦う代わりに少女を戦場へ送り込んでいく。
さらに奇妙なのは、こうして生産される魔法少女の姿である。そこには、かつてまどかが身につけた衣装を思わせる意匠、ほむらの眼鏡、まどかの弓といった、既知の魔法少女たちを構成していた記号が散りばめられている。しかし、それらはもはやまどかやほむらという個人の経験と結びついてはいない。衣装も、眼鏡も、弓も、その持ち主から切り離され、「魔法少女」という形式だけを再び成立させるための部品として反復される。つまり本作のオープニングが提示するのは、新たな魔法少女の誕生というより、個を失った敵に対抗するために、過去の記号を組み合わせて無個性な「魔法少女」を次々と再生産していくという、どこかグロテスクな循環なのである。
●世界に侵入してくる“三人の新たな魔法少女”
やがて主要な登場人物たちが姿を現し、「廻天」本編が幕を開ける。そこに配置される五人の魔法少女は、基本的に「[新編]叛逆の物語」の結末によって書き替えられた世界をそのまま生きている。五人は同じ学校に通い、百江なぎさもまた「ベベ」ではなく人間の少女としてマミと暮らし、二人で楽しいことを追い求めている。円環の理の従者となったさやかは、この世界の記憶が改竄されているのではないかと疑いながらも、転校生として現れたまどかに幼馴染として接する。そして、ほむらはその様子を監視している。ここまでの人物配置は、「叛逆」の最後にほむらが作り出した世界の継続であり、そこでは「過去を失った世界」が一応の現在として成立している。
しかし、その世界に三人の新たな魔法少女が侵入してくる。第一の紫丁香は、食べ物への執着、父親との断絶、そして親子の死という物語を通じて、杏子のペルソナを反復する人物である。第二のセルマ・テレーゼは、自らの存在価値を極限まで追い求め、ついには魔女になることこそ魔法少女の行き着くべき道なのだという結論に達することで、マミとなぎさが抱えてきた問題を別のかたちで反復する。そして第三の、名前すら与えられていない少女は、まどかをメシア的な存在として捉える。彼女はまどかをマルグリートと呼び、そのとりなしを願う者に強力な免償が与えられるという信仰を、まどか自身に向ける。そしてその信仰にもとづき、まどかへ執拗に接近し、ほむらと対峙することを宣言する。
ここで重要なのは、この三人が単なる「新キャラクター」ではなく、既存の魔法少女たちがかつて抱えていた物語を、それぞれ別の身体において再演する存在として登場することである。すなわち、映画の内部で再び始まる「廻天」は、過去を捨て去ったはずの世界に、過去そのものが別の姿をとって回帰してくることによって開始される。
ほむらは、自分が作り替えた世界において、まどかたちがかつての悲劇から切り離され、幸福に生きられることを望んだ。しかし、過去を消去することは、過去を生きた者たちの物語を消去することと同義ではない。むしろその物語は、別の少女たちによって反復される。そして、この反復こそが、ほむらにとって最大の想定外となる。彼女は自らを「悪魔」として演じ、世界のすべてを掌握しているはずだった。しかし、予想していなかった三人の魔法少女は、彼女の世界の外部から現れ、やがてほむらを敗北へと突き落とすことになる。
●単純化していく“ほむらの欲望”
ここから先は、展開を追いながら、いささか大胆な仮説を立てていきたい。
まず、本作における悪魔ほむらのあり方そのものが、「[新編]叛逆の物語」から大きく変調している。前作のほむらは、まどかを救うという欲望のためなら、まどか自身の意志や世界の秩序さえ犠牲にすることを厭わない存在だった。その意味で「悪魔」という呼称は、単なる悪役化ではなく、まどかへの愛情そのものが世界を歪ませるという、ほむらの欲望のねじれを指していた。
しかし本作で彼女が行うのは、結局のところ、まどかを危険から遠ざけることである。名前のない少女に近づくまどかに対して、ほむらはその少女に近づくなと警告する。三人の魔法少女との対決においても、彼女の行動を駆動しているのは、自らが作り出した世界を守ること以上に、まどかを守るという極めて単純な目的である。
「叛逆」の結末であれほど複雑に捻じ曲げられた欲望は、ここではほとんどそのまま最初の形へと戻ってしまう。パスカル・キニャールのいう「時の権威とは単純なもの」という言葉をここに重ねることが許されるなら、時間の反復を幾重にも経験したほむらの欲望は、結局のところ「まどかを助けたい」という一点に還元されるのである。そして皮肉なことに、この単純化こそが、ほむらの敗北の理由になるのではないか。彼女はもはや「叛逆」の意味での「悪魔」ではない。自らの欲望を世界そのものへ突きつける存在ではなく、まどかを守るために悪魔を演じる存在にとどまっているからである。
●解かれてしまう謎――“魔女”と“ワルプルギスの夜”の由来
この単純化は、ほむらという人物だけに生じているのではない。本作では、これまで「まどか☆マギカ」の世界において最も不気味な謎のひとつであったワルプルギスの夜や魔女の仕組みまでもが、次々と説明の対象となる。三人の魔法少女が根城とする「名塚底根」は、名前のない少女、すなわちワルプルギスの人格化ともいうべき存在と結びつけられ、さらにその起源をたどれば、すべての魔法少女を救おうとしたマルグリートという魔法少女に行き着く。彼女が、蓄積された絶望を転化して空間を作り出し、そこから魔女という存在そのものが生まれたというのである。
かつての「まどか☆マギカ」において、魔女とは、キュゥべえの意図のもとで少女の希望が絶望へと転じ、理解不能な異形として現れたものだった。その正体を完全には把握できないこと自体が、不気味さを生み出していた。しかし本作では、その魔女の由来さえも物語の内部に位置づけられ、「魔女は本当の敵ではない」と説明される。ならば観客は当然、「では本当の敵は何なのか」と問うことになる。しかし、この問いへの答えは、かつて魔女が担っていたほどのカタルシスをもたらさない。むしろ、敵であったはずのものから敵性が取り除かれることで、物語を駆動していた対立そのものが希薄になってしまうのである。
さらに重要なのは、「名塚底根」が一種の集団的記憶の空間として機能していることである。そこに蓄積されているのは、一人の魔法少女の物語ではなく、魔女になれなかった、あるいは魔女になることをめぐって絶望した魔法少女たちの記憶である。ワルプルギスの夜もまた、一個の人格をもった怪物ではなく、魔法少女たちの絶望が集合したものとして捉え直される。
その探索のなかで、さやかは一つの魔女の「アーカイブ」に触れ、自分自身がかつてテレビシリーズのなかで魔女になったという記憶を取り戻す。そして、その記憶を取り戻した瞬間、彼女は戦意を喪失する。ここで記憶は、現在の自己を支えるものではなく、むしろ現在を生きることを不可能にするものとして作用する。「叛逆」の世界改変によって過去から切り離されたはずの少女たちは、過去を忘れたことで救われたわけではない。過去はアーカイブとして保存され、別の場所から現在へと回帰してくるのである。
●メシアという“記号”になった、まどか
そして、この問題は最終的に「では、まどかとはいったい誰なのか」という問いへと行き着く。
本作において、まどかはマルグリートにとってメシア的な存在として位置づけられ続ける。だが、なぜまどかがそこまでの信仰の対象となるのか、その核心に、十分なカタルシスが与えられているとは言い難い。まどかが「救済者」であることは示される。しかし、なぜ彼女でなければならないのか、なぜマルグリートは彼女にそれほどの希望を託すのかという感情的な必然性は、ほとんど説明の域を出ない。
テレビシリーズにおいて、まどかが円環の理となることには、「すべての魔法少女を救いたい」という彼女自身の願いがあった。その願いが世界の構造を変えることによって、まどかという少女は初めて「救済」の象徴へと変貌したのである。それに対して本作では、まどかはすでに「メシア」という記号として、あらかじめ扱われているように見える。
●すべてが“説明可能な役割”に収まっていく
その意味で、セルマ・テレーゼの存在もまた象徴的である。
彼女は自らの存在理由を自己否定の論理から問い詰め、魔法少女の存在を極限まで突きつめた末に、魔女になることこそ魔法少女の行き着くべき道なのだという結論に達する。魔法少女から魔女へという「まどか☆マギカ」の構造を、ひとつの明快な命題へと還元し、自らを円環の理と称して蜂起しようとするのだ。しかし、その蜂起は、なぎさの戯れによってあっけなく粉砕される。ここでもまた、「まどか☆マギカ」がかつて深刻に描いた「魔法少女とは何か」「魔女とは何か」という問いが、ひとつの単純な図式へと変換され、さらに戯画化されて処理されている。
こうして見ると、本作における問題は、個々の設定の説明不足や物語のわかりにくさにあるのではない。むしろ逆である。「廻天」では、ほむらの欲望、魔女の正体、ワルプルギスの起源、まどかの位置づけといった、これまで「まどか☆マギカ」を支えてきた複雑なものが、次々と単純な形へと還元されていく。
「叛逆」においては、愛が世界を歪め、救済が暴力へと反転し、少女の欲望そのものが世界の構造を揺るがしていた。ところが「廻天」では、悪魔ほむらはまどかを奪還しようとする者へ、魔女は絶望の集合体から個へ、まどかはメシアへと、それぞれが説明可能な役割に収まっていく。そこでは「謎が解かれた」というよりも、かつて謎として存在していたものが、物語を動かす矛盾を失い、既知の記号へと変換されてしまっているのである。
●“呼びかける者”の交代――まどかの選択とほむらの敗北
そして、その帰結として、ほむらは最終的にまどかの奪還に失敗する。
物語の終盤、まどかは、ワルプルギスとして現れた名前のない少女をもまた、抱擁によって救済する。そしてその救済を終えたまどかは、ほむらが書き替えた記憶を否定し、みずから円環の理としての本来の役割へと戻ろうとする。すなわち、ここでまどかが選択するのは、ほむらとともに一個の少女として生きることではなく、すべての魔法少女を救済するという、かつて自ら引き受けた役割である。ほむらが最後まで取り戻そうとするのは、この「円環の理へ戻ってしまうまどか」にほかならない。しかし、主要な魔法少女たちに励まされながらも、ほむらはそれに失敗する。
最終的にこの事態を収拾するのは、ほむらではなくまどか自身である。まどかは円環の理と交渉し、自らの立ち位置を、ほむらを守る側へと入れ替える。「叛逆」では、ほむらが円環の理からまどかを奪い、まどかを救済する側から引きずり下ろした。これに対して「廻天」では、まどかが円環の理としての役割を引き受けながら、その秩序の内部からほむらを守る位置へと移動する。
したがって、ここで起こっているのは単純な「ほむらからまどかへの救済者の交代」ではない。むしろ、ほむらが「叛逆」において一度破壊した救済の構造が、今度はまどか自身の選択によって再編成されるのである。その結果まどかは、物理的な現実のうえではほむらに救い出されることのないまま、その手元から姿を消す。
この結末を冒頭の電話と接続すると、本作の構造はさらに明瞭になる。冒頭で受話器を取る主体だったのは、ほむらだった。彼女は少女たちに呼びかけ、魔獣という個を持たない集団的な敵との闘争へと彼女たちを動員した。しかし結末において、その呼びかけの主体は、ほむらからまどかへと移る。まどかはワルプルギス=名前のない少女をも救済し、円環の理としての役割へ戻ることを選び、そのうえでほむらを守る側へと回る。つまり、物語の最後に変化するのは、救済の構造そのものではなく、その構造のなかで「呼びかける者」の位置なのである。
ここに、本作が描いてきた一種の「自分革命」の終焉を見ることができるのではないか。
かつての「まどか☆マギカ」では、一人の少女の願いが世界の法則そのものを変えることができた。「叛逆」は、その可能性を、ほむらによる個人的な革命として極限まで押し進めた作品だった。しかし「廻天」において、ほむらはその革命を最後まで成就できない。彼女がまどかを取り戻そうとすればするほど、まどかはより大きな救済の体系へと戻っていく。そして、まどか自身もまた、その体系を拒絶して一人の少女として生きるのではなく、その内部でほむらを守る役割を引き受ける。メシアであるまどかもまた、もはや世界を根本から変革する主体ではなく、既存の秩序を維持し、そこからこぼれ落ちる者を救済する装置として機能するのである。
そう考えるなら、本作の結末は「叛逆」の単純な反転ではない。「叛逆」では、ほむらがまどかを救済の体系から奪うことで「自分の世界」を作った。「廻天」では、その世界からまどか自身が再び救済の体系へと戻ろうとし、ほむらはそれを阻止できない。そして最後に残されるのは、電話という「呼びかけ」の形式である。受話器を取る者は、ほむらからまどかへと変わった。しかし、呼びかけるという行為そのものは変わらない。結局のところ、変わったのは呼びかける者だけなのである。
●【総論】13年という時間が効いてくるもの
「劇場版魔法少女まどか☆マギカワルプルギスの廻天」に期待されていたのは、「叛逆」に残された謎の答えではない。あの映画が残した矛盾が、13年という時間を経て、どのような別の形へと変貌するのか――それが問われていたと言える。
誤解のないように言っておけば、本作の説明はどこまでも周到で、一つ一つの場面に、確かな説得力がある。長く待った観客を手ぶらで帰すまいとする誠実さは、画面の隅々にまで行き届いている。それでもなお、観終えて立ち上がってくるのは、豊かさというより、ある奇妙な既視感である。
「叛逆」のほむらは、「まどかを救いたい」という願いを突き詰めた結果、まどか自身を救済の体系から奪い、自分の世界を作った。その行為は愛なのか暴力なのか、救済なのか支配なのか。その矛盾を解消しないまま「悪魔」となったからこそ、あの結末は強烈だった。ところが「廻天」では、その複雑さが次々と剥がされていく。ほむらは結局まどかを守ろうとする少女へと戻り、魔女やワルプルギスの夜にも由来が与えられ、まどかはメシアという記号になる。
ここで、想定されうる最大の反論を先に引き受けておきたい。すなわち――本作が示す単純化・記号化は、映画の失敗ではなく、映画自身の主題なのではないか、という反論である。たしかに、その読みには根拠がある。この世界をある種平板化したのは、ほかならぬ悪魔ほむらだからだ。「叛逆」で世界を書き替え、まどかを日常のなかへ閉じ込めたのはほむら自身である。だとすれば、登場人物が説明可能な役割へと収まっていくのも、魔女やワルプルギスの夜が由来を与えられて「敵」でなくなるのも、過去を消し、すべてを管理しようとした者が招いた必然的な事物として理解できる。つまり本作は、単純化を犯しているのではなく、単純化そのものを描いているのだ――と。
だが、セルマ・テレーゼの蜂起の"処理"の場面を見ると、そうは理解することは出来ない。彼女は「魔女になることこそ魔法少女の行き着く道だ」と宣言し、『まどか☆マギカ』の根幹をなす問いを、その身をもって最も先鋭なかたちで突きつける。ところが映画は、この問いを、なぎさの戯れによってあっけなく打ち消してしまう。編集は、この場面に生じる皮肉を"保持"してもおかしくない――問いと戯れを衝突させ、その落差に観客を宙づりにすることも可能だったはずである。だが実際に起きるのは、衝突ではなく処理である。最も重い問いが、ギャグへの一手で片づけられる。ここでモンタージュは、時間を切断して別の意味を立ち上げるのではなく、問いを消費して次へ進むための道具になっている。
本作の意義は、過去の「まどか☆マギカ」を構成していた形式そのものの再生産である。だが、そこでは、かつて理解不能な存在として不気味だった魔女やワルプルギスの夜は、名塚底根、名前のない少女、マルグリートという因果関係のなかへ整理され、「魔女は本当の敵ではない」と説明される。問題は、謎が解けたことではない。謎だったものが、知識になってしまったことである。
ミシェル・フーコーは『悪をなし真実を言う』で、中世の修道院制におけるキリスト教の告白の系譜をたどる。そこでは裁かれるものが、外に現れた「行い」から、心の奥に潜む「思い(cogitaxio)」へと移っていった。本作が反復しているのも、この告白の身振りにほかならない。登場人物は、その行動によってではなく、ただ一つの「思い」――「まどかを救いたい」「魔法少女を救いたい」――によって説明され、赦されていく。すべての動機が唯一の中心へと吸い上げられるとき、複数の欲望が衝突し、そのどれも否定しきれなかった「まどか☆マギカ」の豊かさは、静かに覆されてしまう。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが『イメージの前で』で、既存の美術史を批判して「見えるものによる専制」と呼んだものも、ここで思い起こされる。説明可能なもの、分類可能なもの、アーカイブとして蓄積可能なものが増えるほど、世界は豊かになるように見える。しかしそれは同時に、あらゆる商品が整然と棚に並ぶ「大型スーパーマーケット」にもなりうる。かつて観客の想像力に委ねられていた魔女、ワルプルギス、まどか、ほむらの関係は、次々と由来を与えられ、記号として陳列されていく。見れば見るほど、知れば知るほど、「まどか☆マギカ」に詳しくなった気にはなる。だが、その知識の増大は、作品そのものの豊かさとは、同義ではない。
同じディディ=ユベルマンにとって、モンタージュとは、過去の断片を並べ替えて戯れることではなく、時間そのものを切断し、再構成する行為だった。「苦しんだ時間を再構成する」とは、怒りを思考の高さへ、思考を表現の高さへ、表現を眼差しの高さへと引き上げることでもある。素材を解体し、その奥に隠れた別の連関を組み直すこと。そこには、破壊をはらみながらも、確かな倫理がある。しかし本作において、過去の記号は再構成されるというより、戯れとして再利用されてしまう。まどかの衣装、ほむらの眼鏡、まどかの弓。かつて一人の少女の生と選択に結びついていたものが切り離され、別の少女たちへと着せ替えられていく。
だからこそ、13年という時間が効いてくる。この13年、観客は「叛逆」の結末を繰り返し思い返し、ほむらの欲望やまどかとの関係を、それぞれの想像力のなかで組み替えてきた。謎は謎のまま、矛盾は矛盾のまま――その営みそのものが、ひとつの巨大なモンタージュだったはずだ。「廻天」というタイトルが「廻る」ことを指すのなら、ここで廻っているのは、時間ではない。記号である。魔法少女、魔女、円環の理、悪魔、まどか、ほむら――過去の記号だけが、別の身体に、別の場面に、何度でも着せ替えられていく。
かつて「まどか☆マギカ」では、一人の少女の願いが、世界の法則そのものを変えることができた。「叛逆」は、その可能性を、ほむらによる個人的な革命として極限まで押し進めた作品だった。冒頭で少女たちに呼びかけたのはほむらであり、結末でその受話器を受け取るのはまどかである。呼びかける者は変わった。しかし、呼びかけという形式そのものは変わらない。個人が自らの欲望で世界を変えるのではなく、巨大な秩序のなかで、ただ立つ位置を交換する――「自分革命」の時代は、静かに幕を下ろしたのだ。13年待った末に見えてきたのは、「まどか☆マギカ」の新しい世界ではない。それはむしろ、過去の「まどか☆マギカ」を、いつまでも、より単純に再生産するための世界だったのである。
(文/小城大知)
【作品情報】
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劇場版魔法少女まどか☆マギカワルプルギスの廻天
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