SNSの運用代行やTikTokerとしても活動する、リリさん(41歳、@LILY555508)には、つらい過去がある。高校時代、父親に階段から突き落とされ、生死に関わる怪我を負った。現在でも左半身に麻痺が残る。幼いころから父親の暴力を受けて育ったという彼女は、意外にも「どちらかといえば母のほうが嫌い」と話す。彼女の壮絶な生い立ちに耳を傾けた。
父から暴力を受けるも、母はあくまで無関心
――虐待が始まった瞬間を覚えていると伺いました。
リリ:
はい。保育園に行っていたころです。父は昔気質の人で、非常に不器用な男性というイメージです。母に対しても、気に食わないことがあると暴力を振るっていました。当時、幼かった私は、兄と一緒に母を守ろうとしました。すると、父が「今度はお前らを殴るからな」という趣旨のことを言ったんです。それ以来、本当に暴力が始まりました。くわえて、母からの暴力も常態化しました。基本的には気に入らないことがあれば殴る、蹴るというものです。
――そのときのお母さんの反応は。
リリ:
のちのちわかってくるのですが、母は子どもに一切の関心がないんです。だから、「あなたが殴られなさい」みたいなことを言っていたと思います。
――なかなか聞く言葉ではないですね。
リリ:
小学校に入学してからも、母の無関心はどんどん露骨になっていきました。授業参観には来ませんし、給食費も支払いません。家庭内では料理をしなくなりました。見かねた父が食事を作ることもあったんです。だけど父は運送系の会社を経営していて多忙だったから、帰宅しないこともありました。母も遊んで帰宅しないことがしばしばあり、そんなときはやはり何も食べるものがないんですよね。
だから私は給食だけが唯一食べ物を口にできる機会だったのですが、先ほどお伝えしたように給食費も滞りがちになり、給食も食べられないことがありました。
周囲の大人に助けられた記憶
――学校側が食べさせなかった。
リリ:
給食費を滞納しているので、給食の時間になると職員室に数日間連続で呼ばれたことがあります。ただ、今思えば先生の自腹だと思うのですが、パンやおにぎりを買ってきてくれました。給食は食べられないけれど、そうした配慮はありがたかったですね。
――特に育ち盛りに空腹でいるのはつらいですよね。
リリ:
はい、かなりつらかったです。母には「食べるものを買いたいからお金をちょうだい」と言っても、「ない」の一点張りで。あるときは、「そんなにカネ、カネいうな」と言って小銭を投げつけられたこともあります。かき集めた100円ほどを持って、移動販売のパン屋さんのところに行きました。メロンパンが目当てだったのですが、130円だったんです。「足りないな」としょんぼりしていると、そこのおじさんが「100円でいいよ」と言ってくれて。そのときの光景を40歳すぎた今でも覚えているんですよね。思い出すと涙が出てきてしまいます。
現在でも左半身に麻痺が残る怪我
――小学校時代には、やはりお父さんの暴力で大怪我をしたとか。
リリ:
そうです。私には姉がいるのですが、父の部屋と隣の部屋で夜遅くまで大きな声で電話をしていたらしいのです。その声を私の声と勘違いした父が、寝ていた私を叩き起こして殴ったんです。突然のことで何がなんだかわかりませんでしたが、目に激痛が走りました。結果として、眼球が陥没するほどの負傷をしました。また、このときに鼓膜も破れています。
――その後も、暴力は続く。
リリ:
家族と決裂するきっかけになったのは、高校生のときです。高校時代、私は働きながらお金を貯めて学校に通っていました。しかし母が、そのお金を口座から引き出して使っていたことが分かったんです。当然、母からの補填はありません。学費未納となり、自主退学をせざるを得なくなりました。
よく事情を知らない父は、私が高校を退学したことに腹を立て、部屋に入ってきました。そこでもみ合いとなり、階段から突き落とされた私は、骨盤を骨折したんです。現在でも左半身に麻痺が残るほどの大怪我です。当時、骨盤を固定していた金具やボルトは今でも手元にあります。
18歳のとき、ついに家族と絶縁
――その後はどうなるのでしょうか。
リリ:
もちろん入院してリハビリを受け、左半身は不自由なことが多いものの、何とか人並みの生活を送れるまでに回復しました。17歳のとき、またも母が私のお金を使い込んでいたことがわかり、もう一緒にはいられないと思って家を出ました。完全に絶縁をしたのは18歳のときで、それ以来は会っていません。
ただ、未成年でお金を稼ぐ方法などたかがしれていますよね。いわゆる反社会的な人たちとつるむようになり、彼らが言う「家がないなら泊まらせてあげるよ」という言葉に騙されて、何度も望まない性行為をさせられました。18歳になるまでは、テレクラに公衆電話からかけてお金を稼ぐこともありました。
――いわゆる性を売り物にする生活をはじめた。
リリ:
そうですね。ただ、18歳になるころには寮付きの会社に雇ってもらうことができて、その上司から紹介された人と20歳で結婚しました。21歳で子どもを授かるまでは、幸せでしたね。自由にテレビがみられて、温かい布団で寝られて。仕事はきついこともありましたが、振り返ってもあの安心感は何だったんだろうと思います。それまでの不眠傾向も改善して、ぐっすり寝られることに驚きました。
信頼していた兄とも今では会わないワケ
――ご出産後、旦那さんとの諍いが増えた。
リリ:
はい、当時は保育園の空きが少なくて。「どっちが働きに出るか」みたいな揉め事から大きな喧嘩に発展することがありました。ほかにも、ギャンブルにのめり込む傾向のあった旦那とは馬が合いませんでした。あるとき、喧嘩の最中に旦那が逆上して私の顎を殴りつけたんです。顎がかなり複雑に折れてしまったらしく、医師からは「格闘家などの折れ方」と言われました。通常、全身麻酔をして手術を行うのですが、母乳で子育てをしていたため、局所麻酔での手術となりました。あのときの痛みは人生で味わったことがないほど強烈でしたね。
その後、元旦那とは離婚をすることにしました。彼はその後、行方をくらませてしまい、養育費もほとんど受け取れていません。彼の親にもかけあいましたが、「許してやって」などと擁護するばかりで、謝罪も反省もありませんでした。
――さまざまなご経験をされたリリさんですが、もとの家族に対して思うことはありますか。
リリ:
不思議ですが、あれほど暴力を振るわれた父に対してよりも、母に対してのほうが憎しみの気持ちがあります。父に関することで思い出すのは、母の代わりになってご飯を作ってくれる姿だったりするんです。数少ない優しくされたことを強く印象に残すなんて、記憶はよくわからないですね。
姉は両親からの影響を受けていて、私を殴ったり蹴ったりすることが多かったので、絶縁しています。兄は反対に家族のなかで私を守ってくれることも多く、もっとも信頼を置いていました。ただ、兄とも会っていませんし、おそらく頻繁に会うことはないでしょうね。兄にとっても、あの家はつらい思い出であるはずですから、私に会うことでその記憶に悩まされてほしくないというのがその理由です。会わないでいることが、今のところ私にとっての愛情表現と言えそうです。
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虐待家庭において、家は事件の現場にほかならない。たとえ助け合った者同士であっても、当時の忌まわしい記憶を呼び起こすトリガーになりかねず、必ずしも肩を寄せ合って歩めるまでの関係に至らないこともあるのだろう。リリさんの深い慟哭に触れて改めて知る。虐待は、家族そのものを壊し、被害者の心を壊す。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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