「1990年のライオンズは最強だった」と断言する石毛宏典が、ヤクルトの“ID野球”に対抗心をいだいていたワケ

1993年の日本シリーズ第1戦西武対ヤクルト石毛が右腕に死球を受けた際、グラウンドで話す西武・森祇晶監督(左)とヤクルト・野村克也監督©産経新聞

「1990年のライオンズは最強だった」と断言する石毛宏典が、ヤクルトの“ID野球”に対抗心をいだいていたワケ

8月31日(月) 15:54

提供:
1980年代から90年代にかけ、圧倒的な強さでプロ野球界を席捲した黄金期の西武ライオンズ。常勝軍団を類まれなリーダーシップで牽引したのが石毛宏典だ。

広岡達朗と森祇晶という2人の名将から学び得たことをはじめ、対抗心を持っていたという“ID野球”に対する見解と自身のこだわり、さらには、チームを束ねるために大切なことを語ってもらった。

名将から学んだ技術指導と管理術

「自分がリーダーだったから、キャプテンだったから、ということではなく、当時のチームは選手の力量がすごかったですし、広岡監督が選手の力量を上げる指導をしていました。毎試合後に行われるミーティングで試合を振り返り、改善点を伝えるなど、建設的なフィードバックをしていましたし、それを続けた首脳陣が優れていたんです。技術指導と野球観の教育は必要だと思い知らされましたね」

石毛は西武に14年間在籍し、そのうちの4年間は広岡監督、9年間は森祇晶監督のもとでプレー。2人の名将から、それぞれ異なる学びを得た。

「広岡監督からは、『技術が勝敗を左右するスポーツだから、技術力を磨け』とよく言われましたし、そのために必要なノウハウを教え込まれました。技術が身につけば『上手くなったな』と褒めてくれましたし、なかなか上達しない時は『そんなんじゃダメだ』と容赦がなかったですね。

森監督就任1年目にはキャプテンに就任し、監督・コーチのミーティングにも参加するようになりました。選手としてプレーするだけでなく、チーム全体を俯瞰し、且つ首脳陣と選手のパイプ役を求められていましたし、シーズンを通しての選手起用や戦略など、チームマネジメントを学ばせていただきました」

1990年のライオンズは最強だった

1980年代前半~90年代半ばまで続いた黄金期。なかでも、石毛が “最強”と自負するのが1990年。2位に12ゲーム差をつけてリーグ優勝し、巨人と相まみえた日本シリーズでは4連勝で日本一。圧倒的な強さを見せつけたシーズンだ。キャプテンとして改めて当時のチームを振り返る。

「個人としても、チームとしても、経験と技術と戦術が最高潮に達していたのが1990年です。走攻守で隙がなかったと思いますし、シーズンも日本シリーズも負ける気がしませんでした。ただ、それ以降はチームが下り坂に入っていったんです。1992年と93年にヤクルトスワローズと日本シリーズで対戦し、92年は西武が勝ち、93年は負けましたが、92年もヤクルトの2つのミスがなければ負けていたと思います。

3勝3敗で迎えた第7戦。ヤクルトに1-0とリードされて迎えた7回表2死一、二塁の場面で、ピッチャーのたけちゃん(石井丈裕の愛称)が打ったライナー性の打球をセンターの飯田哲也が落球し、同点に追いつきました。これが、まず一つ。

もう一つは、7回裏一死満塁の場面。ヤクルトの代打・杉浦亨さんがセカンドにゴロを打ちました。三塁走者の広沢克己(現・広澤克実)が本塁に向かってスライディングをしましたが、スタートが遅れたうえにスライディングも悪く、アウトになったんです。セカンドの辻発彦の送球やキャッチャーの伊東勤のブロックがよかったなどといった意見もありますが、広沢のスタートが遅れていなかったらセーフだったはずです」

ID野球に対抗心を持つワケ

ヤクルトの強さや西武のチーム力が下降期に入っていたことを認めつつも、ヤクルトの“ID野球”には対抗心を持っていたという。

「野村克也監督の野球がID野球(綿密なデータに基づいてプレーする野球理論)と言われていましたが、『なにがID野球だと。我々は技術を高めてきたし、IDよりも技術が先だろう』という自負がありました。

例えば、キャッチャーがピッチャーにデータに基づいたサインを出し、アウトローにミットを構えるとします。投げたボールが逆球(構えたコースとは逆のコースに外れる)になり、インサイドへ行ってしまったけど、結果として抑えたとします。IDと言うのであれば、構えたコースと逆にいっているわけで、打たれるのが筋ですよね。そう考えると、IDとはなんなんだと思うわけです。

データ通りに投げるにしても、技術がなければキャッチャーが構えたコースに投げられないわけじゃないですか。逆に、技術があってこそデータを生かすことができるという言い方もできますよね」

当然、当時の西武もデータは活用していたが、重要視はしていなかったという。

「参考にする程度です。例えば、『このカウントで真っすぐが来る』というデータを信用してバットを振っても、スライダーが来ることもありますよね。『このカウントでボール気味のフォークが来る』という傾向に従ってバットを振らずにいても、ストライクゾーンに真っすぐが来ることもあるわけです。

真っすぐのタイミングでバットを振って緩い変化球が来ると、体勢を崩されてしまいますよね。それでもバットのヘッドが残っていれば、体は泳いでいても拾うことができます。それこそが技術じゃないですか」

信念を貫いた王監督の凄さ

優れた技術を持つ選手は、自信を持っていて自我が強い。どう束ねていくのか。黄金期の西武は、打つほうでは秋山幸二や清原和博、辻󠄀、投げるほうでは工藤公康や渡辺久信、郭泰源らタレントが揃っていたが、個の力を組織の力に変える秘訣はあるのだろうか。

「チームの目標を定めることじゃないですか。王貞治さんがいい例です。1994年オフ、王さんが福岡ダイエーホークスの監督に就任。同じタイミングで自分はフリーエージェント(FA)権を行使し、ダイエーに移籍しました。就任1年目(1995年)は5位、2年目(96年)は6位と結果が出ず、『生卵事件』(ふがいない成績に激怒したファンがチームバスを取り囲み、大量の生卵を投げつけた)なんかもありました。

負けた時は試合後に必ずミーティングをしていましたが、とにかく長かったんです。王監督は常に『目標は優勝』だと。シーズンが後半に差しかかり、首位のチームとどれだけ離されていようが、優勝と言い続けるわけです。コーチ陣が『いや、さすがに無理じゃないですか』と言っても、とにかくブレませんでした。

ご自身のプライドもあったでしょうし、目標を下げなかったからこそ選手にも叱れたんだと思います。すごくエネルギーが必要なことじゃないですか。それが王監督の凄さだと思いますね。球団創設11年目の5年目(99年)に初優勝を果たしたわけですが、王監督の信念こそが原動力だったと思います」

世代ごとの軸があるチームは強い

世代ごとに、軸となる選手がいる大切さも説く。

「西武に石毛、秋山、キヨ(清原の愛称)と世代ごとの縦軸があったように、ダイエーには小久保裕紀、松中信彦、城島健司の縦軸がありました。それにより、ベテラン、中堅、若手が一つになれるんです。実績と経験のある選手が世代ごとにいるチームは、強くて当然です」

1980年代から90年代にかけ、黄金期を築いた西武。1999年のダイエー時代の優勝を皮切りに、以降数十年に渡って常勝軍団として君臨するソフトバンク。共通しているのは、卓越したリーダーシップを持つ指導者とチームリーダーの存在。両チームのエピソードを聞き、そのことを改めて思い知らされた。

<取材・文/浜田哲男>

【浜田哲男】
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界を経て起業。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ・ニュース系メディアで連載企画・編集・取材・執筆に携わる。X(旧Twitter):@buhinton

【関連記事】
・ 西武黄金期に石毛宏典が“ほぼ唯一”サシで飲みに行っていたベテラン投手の存在「“昔の野球”も管理野球も知っていた」
・ 「西武黄金期」を牽引した石毛宏典が「リーダー」と呼ばれることに違和感があったワケ「プロは部活じゃないんだから…」
・ 「清原や立浪に比べたらセンスがない」と自称する石毛宏典。プロ1年目で結果を残せた背景には「名伯楽」根本監督の存在が
・ 「プロはいいです」と頑なだったアマ時代の石毛宏典。ドラフト1位の名誉も「納得して指名を受けたわけではない」
・ 駒澤大学野球部寮で「先輩の中畑清」と同室になった石毛宏典。授業を受けに行こうとしたら「お前、何考えてんだ」と叱責
日刊SPA!

生活 新着ニュース

合わせて読みたい記事

編集部のおすすめ記事

エンタメ アクセスランキング

急上昇ランキング

注目トピックス

Ameba News

注目の芸能人ブログ