日本の主要なアニメーションスタジオ、東映アニメーションが誕生して今年で70年となる。この夏、国立映画アーカイブで開催中の上映「フィルムでみよう!東映アニメーション」に合わせ、3人による特別寄稿で東映アニメーションとそのスタッフの仕事、作品の魅力に触れていきたい(全3回)。
第3回:多面体として歩んだ東映アニメーションの70年(原口正宏)
はじめに
「フィルムでみよう!東映アニメーション」は、創立70周年を迎えた東映アニメーション(東映動画)の歴史を、文字通り「フィルム」上映を通じて振り返ろう、という企画である。当然だがそのラインナップは、同社にデジタル制作工程が導入される1997年以前、すべてがフィルムで製作されていた時代の作品を対象としている。動画用紙や画用紙に鉛筆や絵筆で原画動画と背景が描かれ、セル(セルロイドまたはアセテートフィルム)にトレスとペイントが施され、フィルムで撮影・現像・光学プリントが行われていた時代である。
上映プログラムには、1957年の「こねこのらくがき」から1993年の「BE-BOP-HIGHSCHOOL 5」まで、37年間、82本もの作品が並んでいる。これは東映動画70年の歴史のうちの半分強、前半をまるまる縦断する年月である。逆に言えば、残り半分はデジタル時代であり、早くも約30年近くが経過したことがわかる。
これだけ膨大な劇場用、テレビ用、ビデオ用の作品群を時系列順に観賞してみると、フィルム時代の37年間だけをとっても、東映動画作品のビジュアルの変化が劇的に見えてくる。それは、同社がメディアの移り変わりを受容しつつ、複数の系統の異なる人材を採用し、共存させてきた歴史の反映でもある。
例えば、読者の皆さんは「東映アニメーション」または「東映動画」と聞いて真っ先にどんな作品群を思い浮かべるだろうか。ある世代にとっては、それは「わんぱく王子の大蛇退治」「太陽の王子ホルスの大冒険」「長靴をはいた猫」「どうぶつ宝島」などの劇場アニメ作品、いわゆる「長編まんが映画」であるに違いない。だが、別の世代にとっては、「デビルマン」や「マジンガーZ」など永井豪原作の変身ヒーロー&巨大ロボットものの「テレビまんが」作品と、そこから派生した劇場版「マジンガー対決シリーズ」かも知れないのだ。さらに下れば、鳥山明原作の「DRAGON BALL」や車田正美原作の「聖闘士星矢」を漫画連載で読みながら、その「テレビアニメ」版をリアルタイムで追い続けた「ジャンプアニメ」世代もいるはずである。年齢によって思い浮かべる作品もビジュアルもまったく違う……そんな「多面性」こそが、東映動画作品の特徴である。
だが、時代ごとにこうも異なる作品イメージが分かれている「多面性」には、一体どんな事情と理由があったのだろうか。その流れを理解するために、本稿では70年の歴史を3つの時期に区分してみた。
A)劇場作品のみを製作した時期(1956年~)
B)劇場作品と30分枠のテレビ作品を並行製作した時期(1963年~)
C)アニメブーム到来後、アニメファン層を視野に入れつつ劇場・テレビ・OVAを並行製作した時期(1981年~)
また、東映動画の多面性を論ずる時、もう1つの視点として忘れてはならないのは原作題材との向き合い方の変遷である。
まず、Aの劇場作品のみを製作していた時期においては、原作は専ら日本や海外の古典、伝承、名作文学作品から材がとられていた(第3作「西遊記」のみ例外)。
Bの時期、30分テレビ作品と劇場作品を並行製作するようになって以降、本格的な漫画原作の起用が始まった。テレビ作品においては白土三平の「忍者旋風」「風の石丸」を原作とした第2作「少年忍者風のフジ丸」(1964年)が、劇場作品においては石森(後の石ノ森)章太郎原作による中編(B作)第1作「サイボーグ009」(1966年)が、クレジット表記に原作者名を表示した初めての事例となった。ただし、長編(A作)のほうはその後も1980年代まで名作文学路線が続いていく。
さて、東映動画では漫画原作を扱う場合、特定の漫画家をイメージリーダーと位置づけ、ともにタッグを組むように一定期間、その作家の作品を数多くアニメ化していく方針があったようだ。このことが、最初に例を挙げた永井豪のように、ビジュアルイメージが判りやすくなるとともに、時期ごとにそれが交代していくという特徴的な現象を生んだ。虫プロにとっての手塚治虫、タツノコプロにとっての吉田竜夫のような、固定した画家がトップに存在しなかったからこそ、同社は柔軟に、時代の流行に合わせてモードチェンジすることが可能だったのだと考えられる。
ちなみに、永井豪の時代が訪れる手前の時期(1966~1971年)は、前述のようにその役割を石森章太郎が担っていた。「サイボーグ009」の2本の劇場版(1966、1967年)やそれに続くテレビシリーズ(1968年)、「空飛ぶゆうれい船」(1968年)「海底3万マイル」(1969年)「原始少年リュウ」(1971年)「さるとびエッちゃん」(1971年)などの連作は、この時期の東映動画が石森を重視していたことを伺わせる。
逆に少し時代が下ると(1977~1983年)、今度は松本零士がイメージリーダーとなり、「惑星ロボダンガードA」(1977年)「宇宙海賊キャプテンハーロック」(1978年)「SF西遊記スタージンガー」(1978年)「銀河鉄道999」(1978年)「新竹取物語1000年女王」(1980年)などが次々と製作されることとなった。
その後、1981年以降は、鳥山明を中心に、ゆでたまご、車田正美など集英社「週刊少年ジャンプ」連載陣がグループとしてイメージリーダーを担った時代ともとらえられる。その流れは1999年以降、現在までの「ONE PIECE」にもそのまま受け継がれている。
このように、東映動画では大きな時代の区切りごとに原作との向き合い方が変化し、その画風がビジュアルイメージの概形を形成することが多かった。
そこで、今述べた原作との関係性を前述の3つの時期に対応させてみると、以下のようになる。
A)名作文学を原作に、劇場作品のみを製作した時期(1956年~)
B)石森章太郎、永井豪、松本零士をイメージリーダーに、劇場作品と30分枠のテレビ作品を並行製作した時期(1963年~)
C)鳥山明ほか「ジャンプ」原作漫画家をイメージリーダーに、アニメファン層を視野に入れつつ劇場・テレビ・OVAを並行製作した時期(1981年~)
以上を時代区分の大前提として、そこから生まれた諸相(面)を俯瞰していこう。
第1面「生え抜き組」と長編まんが映画
第2面芹川有吾と「演出主導主義」
第3面「契約者」とテレビアニメ
第4面「撮影所組」と実写映画的カメラワーク
第5面「マシントレス」と劇画調描線
第6面第二世代としての「追加採用組」演出家
第7面演出家の各話独立性が生んだ「異色回」
第8面アニメブームと「研修生」
第9面研修生以後「研究所」と「作画アカデミー」
東映動画は、メディアを取り巻く激動が起きるたび、新たな人材の投入を繰り返してきた。特に、ビジュアルを創り出す中心である「アニメーター」と「演出家」に注目してみた場合、3つの時期と諸相との因果関係は明白であり、同社が多面性を獲得してきた歴史もそこから見えてくる。
また、このことを知った上で本イベントの各プログラムを観賞すると、別の視点から人と表現の関係性が垣間見えてきて、さらに理解が深まるかも知れない。
(A)1956年~名作文学を原作に劇場作品のみを製作した時期
第1面「生え抜き組」と長編まんが映画
東映動画が誕生した1956年7月から1963年4月まで、最初の8年間にメンバーとなったアニメーターと演出家たちは、創立時の理念に基づいて採用・養成された第一世代とも言うべきグループであり、本稿では彼らを便宜上「生え抜き組」と呼称する。東映動画が「東洋のディズニー」というスローガンを掲げていた当時、彼らに求められたのは、大スクリーンでこそ見応えのある豊かな作画芝居と、それに基づいた映像表現だった。1秒間に12枚という潤沢な枚数をかけたフルアニメーションを教育された彼らは、時に繊細に、時に躍動感いっぱいに名シーンの数々を作り上げた。私たちが「東映長編まんが映画」と聞いて思い浮かべるイメージは、彼ら生え抜き組によって作られた。
演出家としては、日動映画からそのまま同社の創立に参加した藪下泰司(次)を筆頭に、1959年春に進行・演出助手として採用された高畑勲、黒田昌郎、池田宏の3人、1959年12月に新東宝から移籍した芹川有吾、1960年2月に企画部から製作部へ異動した白川大作。アニメーターとしては、日動映画から創立に参加した森康二、大工原章、勝井千賀雄、田島実、同じ日動人脈で第2作「少年猿飛佐助」から加わった熊川正雄、古沢日出夫のほか、新人として採用された喜多真佐武、大塚康生、永沢詢、楠部大吉郎、小田克也、杉山卓、奥山玲子、生野徹太、竹内留吉、吉田茂承、彦根範夫、菊池(地)貞雄、小田部羊一、児玉喬夫、月岡貞夫、小泉謙三、草間真之介、香西隆男、平田敏夫、赤堀幹治、上口照人、木野達児、小林敏明、坂野隆雄、篠原征子、森下圭介、我妻宏、木村圭市郎、永木総博、小川昭弘、薄田嘉信、阿部隆、的場茂夫、向中野義雄、倉橋孝治、羽根章悦、林靜一、池原昭治、細田暉雄、宮﨑駿、服部照夫、角田紘一、高橋信也、竹内大三など。すべて正社員であり、途中で虫プロへと移籍した坂本雄作、紺野修司、中村和子、石井元明、杉井儀三郎(ギサブロー)、林重行(りんたろう)もこの一群に含まれていた。
この時期の東映動画は、今のアニメーション業界のように監督が作品の頂点に立って指揮をする「演出主導主義」が確立されておらず、いわば「作画主導主義」と言える現場だった。「少年猿飛佐助」(1959年)から「アラビアンナイトシンドバッドの冒険」(1962年)までの劇場作品初期5作の演出を担当した藪下泰次は、アニメーターや美術スタッフそれぞれの意見を聞きながらとりまとめ、絵コンテを決定していく「コーディネーター的演出」に徹していたという(大塚康生の証言より)。ロングショットや長回し、人物の横移動に合わせたフォローパンが多用される画面は、演劇的・舞台劇的でもあり、そこではアニメーターの活躍が全面的に保障された。画面狭しと全身で活躍するキャラクターたちの姿が、初期東映長編のイメージを形作った。
第2面芹川有吾と「演出主導主義」
そんな作画主導主義に対して、演出家の立場から一石を投じたのは、藪下に代わって第5作「わんぱく王子の大蛇退治」(1963年)の単独演出を務めた芹川有吾だった。新東宝で助監督を経験した後に東映動画に移籍してきた芹川は、実写撮影現場では当たり前だったカメラワークや構図、カットつなぎを同社に積極的に導入した。
例えば、天馬を駆る主人公スサノオと八岐大蛇の決戦では、スサノオを追うカメラが手前から奥へ、逆に奥から手前へとスピーディーに移動する「縦移動」のカメラワーク。スサノオと八岐大蛇を短い切り返し(カットバック)で交互にとらえ、接近する両者の距離を誇張して緊迫感を高める「空間の引き延ばし効果」。高高度から眼下を見下ろす航空写真的アングルと、そのカメラに向かってL字型に垂直上昇するスサノオをとらえた大胆な構図(演劇的・舞台劇的アングルからの解放)。地面や壁面に映じた影を効果的に使うことで、フレームの外にいる巨大な大蛇の存在を予感させる空間演出などだ。
絵コンテ設計の段階で明確な主張を持ち、カメラ自体を能動的に動かしていこうとする芹川の画面づくりは、「演出主導主義」転換への最初の試みであった。とは言え、「作画主導主義」がいきなり消滅したわけではなく、その変化は漸次的に進んだ。
例えば、本作で演出助手を務めた高畑勲は、劇場演出デビュー作「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968年)で芹川の演出主導主義を発展させ、絵コンテで設計した構図やカット割りをアニメーターたちに徹底する一方、彼らの才能を信頼したロングショットのモブシーンを用意するなど、コーディネーター的演出の長所も活かす方法をとった。また、同じく演出助手を務めた矢吹公郎の「長靴をはいた猫」(1969年)や、高畑と同期入社の黒田昌郎の「ガリバーの宇宙旅行」(1965年)、池田宏の「空飛ぶゆうれい船」(1969年)「どうぶつ宝島」(1971年)においても、同様の折衷案的な方法論が用いられた。
アニメーター・宮﨑駿は上記の一連の作品に原画として参加し、いずれも話題のシーンを仕上げている。彼が演出や美術設定の領域にも及ぶ八面六臂の活躍を果たせた背景には、同社が作画主導主義から演出主導主義へと移行する過渡期だったという状況も関係していたと言えるだろう。
(B)1963年~石森章太郎、永井豪、松本零士をイメージリーダーに、劇場作品と30分枠のテレビ作品を並行製作した時期
第3面「契約者」とテレビアニメ
東映動画が、劇場長編作品のみを製作する時代は8年目に終わりを告げた。1963年、30分テレビシリーズを並行製作していく新体制へと方針転換した同社は、現状のままでは社内のスタッフが大幅に不足している現実に直面する。かくして、1963年10月から1970年10月にかけての9年間、テレビ時代に合わせた大量増員を行った。
アニメーターとしては、劇場長編に従事するそれまでの正社員とは別枠として、テレビ作品を専門に担当する「契約者」を採用した。
そのなかには、芝山努、小林治、生頼昭憲、若林哲弘、白川忠志、椛島義夫、国保誠、岡田敏靖、鯨井実、白石邦俊、大橋学、小華和為雄、辻伸一、端名貴勇、鈴木欽一郎、村田四郎、野田卓雄、山口泰弘、金田伊功が含まれていた。いずれも、その後の日本のテレビアニメをさまざまな形で牽引していくことになった人材である。
彼らには、週に1本、30分枠のアニメを完成・放映していくため、1秒に8枚以下の枚数で動きを設計していく和製リミテッドスタイルの技術が養成された。だが、その指導にあたったのは先輩である正社員アニメーターたち(森康二、大塚康生、楠部大吉郎)であり、結果として伝授されたのは、たとえ枚数は減らしても「動きの魅力をあきらめない」精神だった。レイアウトや動画のタイミングを工夫することで、少ない枚数でもメリハリのあるアクションを実現したり、一見動きを外れたような動画を1枚意図的にはさむことで誇張や飛躍を加味し、うねるような動感を網膜に残したり。そんな日本のアニメならではの切れ味のある作画テクニックは、この契約者アニメーターたちの置かれた環境から生み出されていったのである。
第4面「撮影所組」と実写映画的カメラワーク
テレビアニメ時代に突入すると、当然ながら演出家の数も大量に不足した。1つのシリーズを毎週放映していくためには、最低でも7人の演出家が同時並行して作業を進める必要があるが、当時の東映動画は「狼少年ケン」(1963年)に加えて「少年忍者風のフジ丸」(1964年)「宇宙パトロールホッパ」(1965年)と最大3ラインのテレビ作品を準備していた。単純計算でも7人×3=21人となり、現状の演出家7人以外に14人の即戦力を手に入れねばならなかった。
そこで、東映動画は、社内のアニメーターだった勝田稔男、山本寛巳を演出家へと転向させて人員を補充する一方、画期的な方法を実行に移す。親会社である東映の東京撮影所及び京都撮影所から、アニメの演出家に転身してもよいという希望者を募り、配置転換を行ったのである。折しも映画界は斜陽期を迎えており、東西の東映撮影所には、将来に不安を抱える助監督たちが大量に存在していた。募集に応えた中には、美術の仕事に就いていた者や、大部屋俳優だった者も含まれていたという。本当は実写映画での活躍を夢見ていた彼らだが、テレビアニメもまた「映画」の一種であると考えた若者たちの一部が、東映動画という新天地の門をくぐった。これが、いわゆる「撮影所組」と呼ばれるグループである。
京都撮影所からは田宮武、勝間田具治、白根徳重、村山鎮雄、奥西武、田中亮三、宮崎一哉、東京撮影所からは明比正行、久岡敬史らが1963年末から1964年春にかけて同社に異動となり、「狼少年ケン」(1963年)や「少年忍者風のフジ丸」(1964年)の演出に投入された。
ちなみに、東京撮影所からは真野義雄(好央)、山口康男、京都撮影所からは設楽博、松下秀民、矢吹公郎も移籍しているが、その時期は他の撮影所組よりも半年から1年早い。矢吹の証言によれば、テレビ時代の到来を見越した配置転換だったそうで、東映動画が必ずしも虫プロの「鉄腕アトム」だけに刺激されてテレビに進出したわけではないことを示している。
撮影所組の演出家たちはいずれも実写畑での経験を積んでいたことから、先人の芹川有吾がそうであったように、縦移動をはじめとする能動的なカメラワークを好んだ。また、実写経験者だからこそ、実際の撮影現場では予算的にも設備的にも実現しづらいカメラアングルを好んで選び、画面を端から端まで使い切った奇抜な構図、小刻みなカットの積み重ね、人物の情念に切り込むような極端なアップショットをも多用した。生身の人間たちの肉体を感じさせる手法として、飛び散る汗やよだれ、流血を描くことも厭わなかった。彼らは、セルアニメ製作の現場知識が不足していたことで、逆に生え抜き組が予想もしない斬新な映像設計や、時には難度の高い撮影を要求した。結果として、2つの世代が切磋琢磨することで、演出表現の幅は飛躍的に広がる結果となった。
撮影所にいた頃に時代劇やアクションものに関わっていた彼らは、東映動画に来てからも同様のジャンルへと投入された。先輩の芹川有吾と並び、テレビアニメの中では「少年忍者風のフジ丸」(1969年)「ピュンピュン丸」(1967年)などの時代劇もの、「レインボー戦隊ロビン」(1966年)「サイボーグ009」(1968年)などのSFもの、「ゲゲゲの鬼太郎」第2期(1971年)「デビルマン」(1972年)などの妖怪・妖獣もの、「タイガーマスク」(1969年)「アパッチ野球軍」(1971年)などのスポ根もの、「マジンガーZ」(1972年)「ゲッターロボ」(1974年)などのロボットものを通じて、撮影所組はその才能を開花させていった。一方の生え抜き組の演出家たちは「魔法使いサリー」(1966年)「ひみつのアッコちゃん」(1969年)などの少女ものや「ハッスルパンチ」(1965年)「もーれつア太郎」(1969年)などのコメディ・ギャグものに多く投入され、両者の経歴と得意分野の違いが、そのまま東映動画の多面性を際立たせる上で大きく機能した。
第5面「マシントレス」と劇画調描線
撮影所組の活躍と、その演出スタイルが強い印象を与えた背景には、東映動画社内にマシントレス技術(ゼロックス、トレスマシン)が導入されていった流れも関係していた。アニメーターが動画用紙に描いた線をセルに写し取る工程は、それまで「トレス」という役職のスタッフがペンとインクを用いてすべて手作業で行う「ハンドトレス」によって賄われていた。これを、人件費の節約と正確な写し取り、時間短縮の各面から機械工程によって代行させる動きが1964年から始まり、1970年初頭にかけて徐々に普及していった。マシントレスは、アニメーターの線の味わいをそのまま拾える利点がある一方、転写能力には限界があり、きれいなグラデーションは再現出来ず、描線にはしばしばかすれやムラが生じた。だが、折からの劇画ブーム、スポ根漫画ブームが幸いし、荒々しい線のタッチや、ザラザラとした質感はかえって効果的であると歓迎された。かくして、この時期の東映動画作品には、マシントレスを活用した「劇画調」の線があふれることとなった。
特に「タイガーマスク」(1969年)は、このゼロックスの風合いを最大限に活用した作品だった。木村圭市郎、村田四郎、小松原一男、白土武、野田卓雄、我妻宏など作画監督を務めたアニメーターたちは、競い合うようにアメコミや劇画のタッチをアニメ画面に採り入れた。撮影所組の演出家たちもまた水を得た魚のごとく、本作を通じて大胆なカメラワークや奇抜な構図に挑戦し、両者の名コンビネーションが名作の数々を作り上げた。
ちなみに、生え抜き組の代表格である高畑勲も、その監督作「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968年)においてはこのゼロックスの描線を作風として採り入れている。その意味では、マシントレスが醸し出す「線」の記憶は、1960年代後半から1970年代前半の同社全体を象徴したイメージとも考えられ、これもまた同社の多面性を際立たせている。
第6面第二世代としての「追加採用組」演出家
1964年春~1965年春には、上記の撮影所組以外に、追加採用として新田義方、佐々木勝利、西沢信孝、高見義雄、竹田満、葛西治、茂野一清、笠井由勝、蕪木登喜司、大谷恒清らも演出助手として同社に加わった。彼らは、生え抜き組と撮影所組という2つの流派の先輩たちの下で演出助手の修業をしながら、異なる価値観の両方を吸収した。そして、東映動画の第二世代として、テレビアニメにふさわしい洗練された演出を体現していった。特に、漫画原作への理解の深さと、漫画の画風を活かした映像表現の上手さにかけては、このグループは抜きんでていた。1970年4月にはさらに横田和善、遠藤勇二、森下孝三、早川啓二が採用され、彼らの列に加わった。
同社のヒット作として知られる「銀河鉄道999」(1978年)「パタリロ!」(1982年)「SLAM DUNK」(1993年)「湘南爆走族」(1986年)は西沢信孝が、「聖闘士星矢」(1986年)は森下孝三がチーフディレクターやシリーズディレクターを務めている。どの作品も原作のイメージをいかに大切にアニメに反映させていくか、というチャレンジが感じられる作品ばかりである。
第7面演出家の各話独立性が生んだ「異色回」
東映動画の製作体制を語る上で、特筆すべき点がもう1つある。それは、シリーズ中に唐突に訪れる「異色回」の存在だ。テレビ作品を観ていると、脚本家や演出家が独自のメッセージや映像スタイルを強く盛り込んだ、いつもと雰囲気の異なる回と出会うことがあった。コメディタッチのものから“泣ける”回まで、その振り幅はとても広い。東映動画作品を愛する者にとっては、それはかけがえのないスパイスであった。
なかでも、敵の女兵士が主人公との交流を通じて愛を知り、最後はその主人公を救うために命を落とすという「悲劇の敵ヒロイン」を描くエピソードは「異色回」の定番ジャンルであり、芹川が劇場版『サイボーグ009怪獣戦争』(1967年)においてその定型を確立した後、さまざまな劇場作品やテレビシリーズでバリエーションを生んだ。芹川自身による変奏とも言える『マジンガーZ』の第38話「謎のロボットミネルバX」(1973年)や第67話「泣くな甲児!十字架にかけた命」(1974年)、勝間田具治による「UFOロボグレンダイザー』の第25話「大空に輝く愛の花」(1976年)、第63話「雪に消えた少女 キリカ」(1976年)、第72話「はるかなる故里の星」(1977年)などは特に人気が高かった。
このような異色回が生み出されたのは、東映動画に1970年代半ばまでチーフディレクター制がなく、各話演出家が言わば独立した「監督」として尊重されていたことが関係していた。彼らは音響演出も兼ねていたため、BGMや効果音、声優の演技にまで自身の美意識を反映させることが可能だった。
つまり、東映動画には異色回が生まれやすい自由な風土があったわけで、それは生え抜き組、撮影所組、追加採用組の垣根を越えたものだった。
事実、「泣きの芹川」「芹川節」の異名を誇った芹川有吾はその筆頭としても、生え抜き組では高畑勲や池田宏、撮影所組では勝間田具治、久岡敬史、追加採用組では新田義方らはいずれも異色回の名手であった。
ただ、そんな異色回のなかでも、1960年代後半から1970年代初頭にかけて特に異彩を放ったのは、戦争の傷跡、公害、人種差別、孤児、貧困、交通戦争などをテーマに描かれた「社会派」エピソードであり、その中心となって活躍したのは撮影所組であった。もともと実写映画の監督を目指していた彼らの多くは、日本社会の現実を照射する題材を扱うことに前向きであったからだ。その点では、生え抜き組の一員ながらも、同じ実写畑出身である芹川有吾も同様の志向性を持っていた。
芹川有吾は、脚本の辻真先と組んで「魔法使いサリー」(1968年)の第60話「ポニーの花園」では異人種間の差別といじめ、和解と希望への道程を描き、「サイボーグ009」(1968年)の第16話「太平洋の亡霊」では憲法第九条と自衛隊の矛盾をテーマに掲げた。撮影所組の勝間田具治も同じ「魔法使いサリー」(1967年)の第37話「東京マンガ通り」では交通遺児問題を採り上げ、久岡敬史は「魔法のマコちゃん」(1971年)の第12話「海のひびき」で海洋汚染と漁村の死滅を扱った。たとえ魔女っ子ものであっても、そこに現実の厳しさを持ち込み、時には魔法が解決の手段にならないことすら描こうとした。日本四大公害病の1つ・四日市ぜんそくを扱った「タイガーマスク」(1970年)の第55話「煤煙の中の太陽」では、勝間田が現地へと赴いて取材した成果が生かされ、時事性に富んだ説得力のある画面が実現した。
ちなみに、この異色回や社会派の伝統は、その後も東映動画の社風として生き続け、後述する研修生世代や角銅博之、山内重保、細田守、田中裕太ら若手演出家の台頭を印象づけたほか、「ゲゲゲの鬼太郎」第6期における同時代の日本社会を映した挑戦的なエピソードの数々にもその遺伝子の健在を確認することが可能だ。
(C)1981年~鳥山明ほか「ジャンプ」原作漫画家をイメージリーダーに、アニメファン層を視野に入れつつ劇場・テレビ・OVAを並行製作した時期
第8面アニメブームと「研修生」
撮影所組と新規採用組の社員演出家たちと、契約者のアニメーターたち。彼らの最後の代が入社したのは1970年であり、その後、数年間は東映動画は新たな社員の追加を行わなかった。
その間に時代は流れ、1970年代後半には「宇宙戦艦ヤマト」の劇場版大ヒットに象徴される一大アニメブームが到来した。東映動画では、親会社の東映からは独立した形で初めて企画・製作を手がけた劇場長編大作「銀河鉄道999」(1979年)を世に放ち、大成功を収めた。監督には、従来は同社の社員演出家を起用するのが慣例であったが、本作に限っては社長・今田智憲の指名により外部演出家のりんたろうが抜擢された。もっとも、りんたろう自身は、かつて東映動画の黎明期に同社に正社員として所属し、「白蛇伝」(1958年)や「西遊記」(1960年)で仕上や動画を経験していた歴としたOBであった。
それはともかく、アニメブームの隆盛は、視聴する観客の年齢層の上限を10代後半のハイティーン以上へと押し上げ、アニメの題材もまたその年齢層にアピールするものが望まれるようになった。「銀河鉄道999」のヒットは、その判断の正しさを証明する形となったのである。
そこで東映動画は、視聴者や観客の嗜好性に見合った作品を提供していくためにも、彼らと近い年齢の製作者たちが新たな血として入ることが不可欠と考えた。
こうして1981年4月、約10年ぶりに演出家8人、アニメーター8人を「第1期研修生」として同社に迎え入れたのである。
演出家としては、西尾大介、貝沢(澤)幸男、梅沢(澤)淳稔、芝田浩樹、佐藤順一、有迫俊彦、アニメーターとしては鈴木郁乃、梨沢孝司、中鶴勝祥、濱洲英喜、井手武生、新井浩一、安藤正浩など計16名。その5年後には「第2期研修生」の養成も行われ、演出家として幾原邦彦、佐々木憲世、アニメーターとして稲上晃、爲我井克美ほか、他の役職も含む約30名が選ばれた。
彼らは、入社してすぐに先輩の演出家やアニメーターの下につき、現場での制作作業を一緒に体験することで実践的に技術を習得していった。
研修生に共通する特徴は、彼ら自身が東映動画の劇場長編やテレビ作品で育った「アニメファン世代」である点だ。生え抜き組が作った「長編まんが映画」の「作画主導主義」に憧れつつ、同時に撮影所組が作った「テレビまんが」の限られた枚数での見せ方や、奇抜な構図、カット割りの工夫にも心惹かれていた。しかも、漫画文化に対しても一読者として子どもの頃から接してきた体験があるため、アニメ化においてどのようにエッセンスを抽出すればよいか、視聴者の身になって判断できる知識もセンスも持ち合わせていた。
例えば佐藤順一は、同社久々のオリジナルテレビ作品「とんがり帽子のメモル」(1984年)の各話演出で頭角を現し、シリーズディレクターとして「メイプルタウン物語」(1986年)「悪魔くん」(1989年)「きんぎょ注意報!」(1991年)などを手がけた後、「美少女戦士セーラームーン」(1992年)を大ヒットシリーズへと導いた。その後も同じくオリジナルテレビ作品「おジャ魔女どれみ」(1999年)を企画から関わって軌道に乗せるなど、1980年代以降の同社の歴史を語る上で欠かせぬ存在となった。
同様に、西尾大介もまた「Dr.スランプアラレちゃん」(1981年)の演出や「DRAGON BALL」(1986年)のシリーズディレクター補佐を経て「DRAGON BALL Z」(1989年)ではシリーズディレクターを務め、同作を世界的な人気シリーズへと育て上げることに成功した。企画から参加したオリジナルテレビ作品「ふたりはプリキュア」(2004年)でもシリーズディレクターを務め、足技をはじめとする格闘バトルの要素(撮影所組の流れ)と魔法少女ものの要素(生え抜き組の流れ)を融合させた斬新なジャンルの確立に貢献。現在も続く「プリキュア」シリーズの礎を築いた。2024年には韓国の絵本作家ペク・ヒナの原作を「あめだま」のタイトルでCGアニメ化。同作は第97回米アカデミー賞の短編アニメーション部門にノミネートされるなど、大きな反響を呼んだ。
第9面研修生以後「研究所」と「作画アカデミー」
研修生は、生まれた時から東映動画が存在していた初めての世代だった。アニメーションを全方位的に享受して育った強みから、生え抜き組と撮影所組、両者に師事した追加採用組という多面的な3つの先輩たちの価値観を、すべて柔軟に受け入れ、対処することもできたのではないか、と考える。弁証法における「正・反・合」の「合」に該当する立場である。
それ以後の世代について少しだけ触れておくと、第1期と第2期の研修生の間には、角銅博之や山内重保が活躍を始めた空隙の時期が位置し、その後は細田守、境宗久、池田洋子、長峯達也が台頭した時期が挟まる。さらに、1995年に「東映アニメーション研究所」が設立されると、同所を卒業した才能が毎年、東映動画の新たなメンバーとして加わるようになった。演出家としては所勝美、古賀豪、中島豊、地岡公俊、門由利子、座古明史、畑野森生、土田豊、松本理恵、田中裕太、アニメーターは小松こずえ、西田達三、村俊太朗、林祐己、渡邊巧大、太田晃博など。以後は途切れることなく毎年、新入社員としてのアニメーター、演出家たちが同社に増強されてきているのが現状だ。現在は、2011年に閉所した研究所に替わる養成所として2023年にスタートした「東映アニメーション作画アカデミー」が新たな才能を育てている。
今回の国立映画アーカイブのブログラムは、フィルム製作時代までを対象としているため、ちょうどこの研修生世代がシリープディレクターとして代表作を次々と送り出している真っ只中の時代までの作品が追える形となっている。
おわりに
さて、本稿では3つの転換期と、それぞれの時期に東映動画に加わった才能たちの流れを、演出家を4つのグループ(生え抜き組→撮影所組→追加採用組→研修生)、アニメーターを3つのグループ(生え抜き組→契約者→研修生)として大きく分類し、その出自の違いと、彼らの映像表現者としてのバックボーンについて私なりに解説を試みたつもりである。グループ1つが、イメージリーダーとなった原作者1人1人それぞれ1つの面を受け持つ多面体が、私にとっての東映アニメーションのイメージだった。
なお、激動の節目ごとに投入された新たな才能を1つの集団的特徴としてとらえることが目的だったため、アニメーターや演出家それぞれの個性の差異については敢えて触れなかった。また、当然ながら外注プロダクションのアニメーターや演出家の存在や影響についても言及を割愛した。小松原一男、白土武、荒木伸吾、姫野美智、兼森義則、今沢哲男……それらについては、また別の機会があればまとめてみたい。
●原口正宏
アニメーション史研究家。リスト制作委員会代表。京都精華大学、神戸芸術工科大学、東京工芸大学、学習院大学、日本大学で非常勤講師を担当しつつ、雑誌「アニメージュ」などを通じて記事の取材・編集・執筆にも関わっている。日本の商業アニメのスタッフワークを長年記録し、近著に「ゲゲゲの鬼太郎」を通史的にらえた「ゲゲゲのアニメ」(徳間書店)がある。
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銀河鉄道999
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