連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
最終回羽生結弦#1
今年2月に開催されたミラノ・コルティナ五輪では、団体戦を含め史上最多となる6個のメダルを獲得した日本フィギュアスケート。その偉大な功績は、これまでの日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩があったからこそのものだろう。
2002年ソルトレイクシティ大会から2022年北京大会に出場した日本人フィギュアスケーターを振り返る本連載最終回(第14回)は、2014年ソチ五輪と2018年平昌五輪を連覇するなど数々の金字塔を打ち立ててきた羽生結弦のキャリアを振り返る。1回目は、ジュニア時代から世界最高峰へと駆け上がっていくストーリーについて。
オランダ開催の2010年世界ジュニア選手権で優勝し、成田空港に帰国する羽生結弦 photo by Kyodo News
【無敗の少年は「動き」が違った】ジュニアカテゴリーの2季目だった2009−2010シーズン。ジュニアGPシリーズのポーランド大会とクロアチア大会を連勝し、初進出を決めたジュニアGPファイナルでは14歳での史上最年少優勝を果たす。さらに、2010年3月の世界ジュニア選手権では日本男子初の中学生での優勝を遂げた。そんな無敗の少年、羽生結弦のシニアデビューは彼が高校に進学した2010−2011年シーズンだった。
この頃、2010年バンクーバー五輪に出場し世界最高峰で戦う高橋大輔、織田信成、小塚崇彦ら、日本男子の選手層は非常に充実していた。そうした状況のなか、羽生のシニアでのGPシリーズ初戦、NHK杯は4位。上々のスタートを切った。羽生自身、「すごく緊迫したなかでも思っていたよりいいジャンプができました。体力がまだ足りないことを実感したので、もっと体力をつけて表彰台を狙っていきたいと思います」と、確かな手応えを得ていた。
一方で、2010年12月の全日本選手権は不本意な結果に終わった。ショートプログラム(SP)2位発進ながら、フリーでジャンプのミスが出て総合4位。「GPシリーズの最初の頃よりスケーティングとスピンはだいぶできるようになった。だからこそ、ジャンプの失敗が悔しい。力みが出てしまいました」と悔しさをむき出しにした。
それでも、彼の滑りを見た筆者には、他の選手とは少し違う身体全体をしなやかに使う動きと、湧き上がる感情をその身体のなかにしっかりため込むような演技が印象的に映った。
年が明け、羽生は初出場の四大陸選手権で勝負強さを見せた。高橋や小塚、ジェレミー・アボット(アメリカ)と、バンクーバー五輪出場選手がいるなか、SPを公認記録の自己ベストで3位発進。フリーもジャンプのミスは出たものの、高橋と小塚に次ぐ3位の得点で、合計は自己最高得点(当時)を大きく上回る228.01点。高橋に次ぐ総合2位でシニア初表彰台を手中に収めた。
試合後、「結果には驚きしかないです。順位より4回転ジャンプと後半のトリプルアクセルをしっかり跳べたのが、来季への自信になると思います」と、羽生は目を輝かせて語っていた。
【大震災発生後の葛藤と覚悟】2011年3月11日、東日本大震災が発生。仙台市内のホームリンクで練習中だった羽生は恐怖を味わった。しかも、震災でそのリンクが使えなくなり、オフの間は関東のリンクで練習したり、出演するアイスショーで経験を積んだりした。当時、羽生はその頃の心境についてこう語っていた。
「身近に被災されて本当に大変な方たちも多いなかで、自分が好きなことをやっていていいのかとも考えました。でも、学校に行った時や街を歩いている時に、僕に声をかけて『演技を見て元気になった』と言ってくれる人たちがいて。少しでもそういう方たちの力になれるのなら、これからも滑っていいのかなと思ったし、もっと元気になってもらうためにも頑張ろうと思いました」
「誰かのために」との思いが羽生を覚醒させたのだろう。2011−2012シーズンは着実にステップアップしていった。
SPに4回転トーループを入れる構成に挑戦し、GPシリーズの中国大会ではSPで初めて80点台を出す。次のロシア大会でもSPとフリーで自己ベストを更新。4回転ジャンプで追い上げを見せたハビエル・フェルナンデス(スペイン)を僅差で抑え、羽生はGPシリーズ初優勝を果たした。
初進出のGPファイナルでは自己最高得点を伸ばしながらも、世界王者のパトリック・チャン(カナダ)、高橋、フェルナンデスに次ぐ4位。トップで戦う厳しさも味わったが、その直後、中1週間というハードスケジュールで挑んだ全日本選手権で再び躍動した。SPは4位発進だったが、フリーでは4回転トーループを決めて1位。高橋、小塚に次いで総合3位となり、世界選手権代表を初めて勝ち取った。
羽生は初の大舞台に向け、「震災を含めていろいろ経験してきたので、それを生かしたいです。アイスショーでは、試合形式のなかで4回転を跳んだのは今までで一番多かったと思うし、照明が暗いなかでも4回転を降りてきたので自信もついたし、プログラムのなかでの体力もついたと思います」と意欲を口にした。
しかし、世界選手権はSP前日の公式練習で右足首を捻挫。棄権も考える状況まで追い込まれた。それでも出場を決めると、SPでは最初の4回転トーループに2回転トーループをつける連続ジャンプに成功。最後のルッツでミスがあって7位発進となったが、フリーでは大きなミスもなく、うまくまとめて自己最高得点を獲得。結果、合計251.06点まで伸ばして、チャン、高橋に次ぐ総合3位と、逆境での勝負強さを見せた。
【ライバルたちとの切磋琢磨で成長】羽生は次の2012−2013シーズンへ向け、新たな決断をした。それは、それまで師事していた阿部奈々美コーチのもとを離れ、拠点をカナダに移してブライアン・オーサーの指導を受けるという挑戦だ。
その心中には女子のキム・ヨナ(韓国)ら多くのトップ選手を指導してきたオーサーへの期待とともに、大技の4回転サルコウをきれいに跳ぶフェルナンデスと一緒に練習し学びたいという思いもあった。羽生はそれまで、練習では4回転サルコウを跳べていたが、試合では組み込むことができていなかったからだ。
「カナダで最初にしたのは、エッジの乗り方などの地道な基本トレーニングでした。(2014年)ソチ五輪出場に向けてはジャンプも跳べなければいけないので、そのレベルも上げていきたいのですが、今は筋肉構造も頭のなかに入っているので、柔軟性を高めるためのストレッチにもハマり始めました」
新天地でそう語った羽生。フリーに4回転サルコウを入れたチャレンジのシーズンで、さらなる飛躍の時を迎えた。まず、GPシリーズ・アメリカ大会ではフリーで崩れて2位に終わったものの、SPで歴代世界最高得点をマークした。
続くNHK杯では、SPで歴代世界最高得点をさらに更新。フリーでは「最後に疲れが出てしまった」と後半の3回転ルッツとコンビネーションスピンで転倒しながらも、合計で自己ベストの261.03点を記録して優勝した。そして、2回目の出場となったGPファイナルはSPで3位発進。フリーではわずかなミスがあったが、合計264.29点と高橋に次ぐ総合2位となり、シーズン前に目標に掲げていた「GPシリーズ1位、GPファイナル表彰台」をクリアした。
ただし、羽生はその成績に満足することなく、「2014年のソチ五輪の目標が出場することだけだったら(GPファイナル)3位でもいいが、やっぱり(五輪で)優勝したいから、上の選手も近いうちに抜かなければいけないと思います。(高橋)大ちゃんはまだまだ強いけど、ソチまでには抜かなければいけない」と話していた。
そうして2012年12月、全日本選手権で初めての"高橋超え"も現実にした。SPはノーミスの演技で1位発進。フリーは最初の4回転トーループと4回転サルコウが耐える着氷になり、終盤も勢いに欠ける滑りで2位の得点だったが、高橋の追い上げをしのいで合計285.23点で初優勝を飾った。
無論、その結果にも羽生が慢心することはなかった。全日本選手権について「まだ体力が足りないという感覚がありました。ショートでいい演技ができたのが大きいけど、フリー2位は悔しい。高橋選手がショートでミスをしたからこの点差になりましたが、まだ僕自身の実力で高橋選手を抜いたという自信はないので、日々努力をしながらやらなければいけないことがあると思います」と振り返って、気持ちを引き締めた。
その後、2013年2月の四大陸選手権では他の日本代表選手がコンディション不良に苦しむなか、2位という結果を残した羽生。しかし、2回目の出場の世界選手権は苦しんだ。翌年のソチ五輪における日本代表3枠の確保が命題となる大会だったが、SPではジャンプの転倒と両手をつく大きなミスがあって9位。高橋もSP4位と出遅れて、3枠獲得に黄信号が灯った。
不振の原因は体調不良だった。四大陸選手権のあとにインフルエンザに罹患して10日間ほど寝込んだ。そのうえ、練習を再開した直後に左ひざを痛めて1週間ほど滑ることができず、世界選手権には痛み止めを服用して出場している状態だったのだ。
おまけに、フリー当日にも朝の公式練習で足首を痛めてしまう。まさに満身創痍の状態だったが、「ここまで来たら日本代表として悔いのない試合をしたかったし、ショートの悔しさと申し訳なさをぶつけたいと思いました。痛み止めも少し量を抑えて感覚を優先することを選びました」と羽生。
迎えたフリーでは、2本目の4回転サルコウや3回転フリップで乱れは出たものの、ミスはそれだけに抑える執念の滑りを披露。合計244.99点で総合4位に入った。結果、6位になった高橋との合計で五輪代表3枠も確保。羽生は安堵の表情を見せたのだった。
第2回へつづく
<プロフィール>
羽生結弦はにゅう・ゆづる
/1994年12月7日生まれ、宮城県仙台市出身。2009年ジュニアGPファイナル、2010年世界ジュニア選手権を制覇。2014年ソチ五輪で日本男子フィギュアスケート初の金メダルを獲得すると、2018年平昌五輪では66年ぶりとなる男子シングル連覇を達成。その間、世界選手権2度優勝、GPファイナル4連覇など数々の偉業も遂げる。2022年、北京五輪(4位)に出場後、同年7月にプロへ転向。自身で企画・プロデュースを手掛ける単独アイスショーを開催するなどプロスケーターとして精力的に活動している。
折山淑美●取材・文 text by Toshimi Oriyama
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