【高校野球】健大高崎・青栁博文監督が明かす創部秘話300万円の借金、涙の10年間を経てたどり着いた甲子園

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【高校野球】健大高崎・青栁博文監督が明かす創部秘話300万円の借金、涙の10年間を経てたどり着いた甲子園

8月7日(金) 6:35

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名将たちの甲子園初出場物語

青栁博文(前編)

2024年春の選抜甲子園。健大高崎(群馬)の青栁博文監督は、閉会式で紫紺の大優勝旗を掲げ、堂々と聖地を一周するナインを万感の思いで見つめていた。群馬県勢初の春制覇。それは、高校野球界に革命を起こした鮮烈なスタイルが全国の頂点を極めた瞬間だった。

しかし、時計の針を2000年代初頭まで巻き戻すと、そこに現在の華やかさは微塵もなかった。

この夏、3年連続6回目の出場を決めた健大高崎・青栁博文監督photo by Katsuharu Uchida

この夏、3年連続6回目の出場を決めた健大高崎・青栁博文監督photo by Katsuharu Uchida





【会社員を辞め、高校野球の世界に】青栁監督が健大高崎の教員になると同時に、創部した硬式野球部の指揮官に就任したのは、日韓共催のサッカーW杯開幕に向け日本中が沸いていた2002年の春。当時30歳だった。前橋商から東北福祉大学を卒業後、群馬に戻り、自動車関連部品会社の軟式野球部でプレー。廃部に伴い、地元の建設会社に転職して営業や総務を担当するなど、前職と合わせて会社員を8年間経験した。

「別に、期待されて呼ばれたわけじゃありません。健大高崎の野球部は、群馬女子短大付が2001年から共学化されて今の校名となり、男子生徒が学校に直訴してできた部なんですよ。前橋商時代の恩師から『群馬女子短大付が共学になったので、そこで野球の指導者をしてみないか』と連絡をもらったのがきっかけです。私も社会科の教員免許を持っていましたが、福祉の免許を持った人材が条件でしたので、通信教育で教員免許を取得することを条件に採用されました」

サラリーマンを辞め、健大高崎に赴任した青栁監督を待っていたのは、愕然とするような現実だった。当時、専用グラウンドはなく、テニスコート2面分ほどの狭い空き地が指定の練習場所だった。ただ、それ以前にお金も野球道具もなかった。

「最初、ボールは2ダース、バットは3本しかありませんでした。女子校から共学になったばかりで、学校側も何を買い与えればいいのかわからない状態だったんです。生徒会から割り当てられた年間十数万円の予算だけでは到底無理だったので、自分で300万円ほど借金をして必要なものを買い足していました。文字どおりゼロからのスタートでしたね」

1期生は15人ほどが集まった。しかし、全員に丸刈りを強制すると、数名が退部した。残ったメンバーの半分も、中学時代はテニス部や陸上部に所属。まずは野球のルールや基礎を叩き込むことに時間を費やした。

「2002年の夏に初めて公式戦に出場し、秋には奇跡的に1勝を挙げることができましたが、まだまだチームの体をなしているとは言い難い状態でした」

【大学時代の恩師から学んだ組織づくり】勝てない日々のなかで、青栁監督の支えとなったのは、名将の教えと、サラリーマン時代の経験だ。

東北福祉大時代、3学年上に金本知憲さん(元阪神監督)や、同学年に和田一浩さん(元中日)ら、のちにプロで活躍するメンバーとプレー。ただ、レギュラーとしてリーグ戦や神宮の舞台で華々しく活躍したわけではない。3年時に数試合出場した以外は、ほとんどを裏方として過ごした。当時、多くのプロ選手を輩出した伊藤義博さん(2002年に死去)が監督を務めていた。

「伊藤監督は自主性を重んじる方でした。そしてなにより、組織づくりがすばらしかった。専門のコーチを外部から招聘し、適材適所に配置する。強制的にやらせる時代にあって、非常に柔軟な組織をつくられていました」

伊藤さんが推し進めていた組織づくりの重要性は、会社員時代に学んだ。2社目の建設会社では「ISO(品質マネジメントシステムに関する国際規格)」の取得業務を担当。どの支店であっても、組織の指示命令系統が盤石でなければ、同じやり方でも品質を管理することはできない。

「組織は自分ひとりだけでは回りません。よく会社の組織図を見て、適材適所に人員が置かれているのかを考えていました。この経験が、のちに健大高崎の指導体制の礎になります。打撃、守備、走塁など、それぞれに専門のコーチを置き、監督である自分は一歩引いて全体を見守る。そのビジョンは、サラリーマン時代にすでに描かれていました」

しかし、その理想の組織論を指導現場に落とし込むには、想像以上に長い時間がかかった。

創部から4年が経った2006年秋に関東大会初出場。翌2007年には専用グラウンドと室内練習場、その後、寮が完成した。環境面が少しずつ整備されたことで、県内や県外から能力のある選手が集まり始めるなど、チームは順調に力をつけているように見えた。

【自分の指導力のなさに涙】だが、青栁監督の心はすり減っていた。甲子園に出るまでの10年間は「本当に地獄でした」と振り返る。夜、アパートに帰って涙を流したことも一度や二度ではない。

「試合に勝つ、勝たない以前の問題でした。とにかく、選手たちのマナーが悪かったんです。試合中に点差が開くと、すぐにあきらめて投げ出す。学校でも、授業中に先生に文句を言ったり悪態をついたり......。ほかの先生方からは『野球部はろくなもんじゃない』『俺が監督をやったほうがいい』とまで言われました。自分の指導力がないのが歯がゆくて悔しくて、あの頃が一番辛かったです」

年を追うにつれ、周囲からの風当たりも強くなってきた。創部から9年目を迎えた2010年、学校の経営陣と酒席を共にする機会があった。そこで、現実を突きつけられた。

「10年やって甲子園に行けなければ、もう終わりだな。やっていてもしょうがないだろう」

私学もボランティアじゃない。不採算事業にはメスを入れていかなければ、経営が立ちゆかなくなる。青栁監督は就任当初から、60歳までの30年間を10年ごとに区切り、ビジョンを描いていた。



「最初の10年で甲子園へ行く。次の10年で甲子園の常連になり、最後の10年で全国制覇を果たす」

甲子園初出場へのリミットが、もう目の前に迫っていた。苦悩のどん底にいた指揮官は、「ある戦術」に活路を見いだすことになる。

つづく>>



内田勝治●文text by Katsuharu Uchida

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