右から、加寿子さんの長女・眞由美さん、次女・弘美さん、加寿子さん、孫の加奈子さん、優光さんと妻の恵さ
8月2日(日) 11:00
【前編】夏の売りは“ひんやり”あずきかき氷女性三代で営む甘味処の看板娘90歳から続く
「まるか村松商店」が甘味処をはじめたのは昭和37年のこと。茶の斡旋業の閑散期に、大判焼きを売り出したという。
加寿子さんがこう語る。
「発案は義母です。厳しい人でお茶の商いのこと、家を守ることをたたき込まれました。なにより大事なことは、人に喜んでもらうことだと。大判焼きのあんこ作りは、最初から私の仕事。炊き方は、最初は親戚のお菓子屋さんに教わり、それからは自分なりにね」
そんな甘味を求めて通っている人も多いが、それに加えて、アットホームな雰囲気にひかれて、子どもからお年寄りまで、男性も女性も、さまざまな人が足を運ぶ。
「体重気になるなら、おしるこのお餅、抜いとこうか?」
「なんのお菓子を買う? それより夏休みの宿題やったの?」
「最近、見かけなかったけど、体調でも崩していた?」
小豆と向き合う加寿子さんの代わりに、弘美さんが客に話しかける。そこから世間話やら近況報告、地域のイベントなどの会話が行き交う。壁にはコロナ禍の名残の「黙食を」の張り紙があるが誰も気にしない。
この店を23歳で継いだ弘美さんが醸し出す空気もこの店の魅力のひとつだろう。そんな弘美さんだが、積極的に店を継いだわけではない。
「甘いものは好きだったし、小さいころから大判焼きを手伝ってもいました。けれど、地元のお茶屋さんに勤めていたし、店は姉が継ぐものだと思っていました。姉は確かな味覚を持っているんですよ。
ところが姉が一時期東京へ仕事で出ていたころに、私は3人きょうだいの次男だった夫と縁がありました。私たちなら家を継げるだろうと、親戚からも『結婚して家に入れ』という流れができてしまったんです」(弘美さん)
現在、弘美さんは、姉、眞由美さん(67)とともに、常連客と会話が弾む接客をしながら大判焼きを作っている。
「最初は、大判焼きの皮もいろいろ試しました。大判焼きは表面がサクッとして、中はふんわりした食感が大事。そのためにはゆっくり焼いていくことです。でも、あるとき、近所の人に『怖い顔をして大判焼きを焼いている』と言われたことが。
母の味を守ろうと必死だったのかもしれません。それからは、誰が見ても、楽しそうだなと思ってもらえたほうがいいかなと。
それに大判焼きは、焼きたてがいちばん。私が焼いているときは姉が、姉が焼いているときは私が、焼きたてを待っているお客さんといろんなお話をしているんです」
さらに、弘美さんがこう語る。
「お客さまと会話していると、すごいつながりが出てくるんです。どちらからいらっしゃったんですか、という会話から、常連さんになってくれることも。また、子どもが店に来たら楽しいと思って駄菓子のコーナーを作ったのも私。
母には『撤去しろ』と言われ続けていますが、いろんな世代と触れ合いが生まれるのがいいんですよ。ちょっと前に、小学生に、100点のテスト用紙を持ってきたら大判焼き1個プレゼントということをやったことも。でも10枚も答案用紙を持ってくる子がいて、あわてて1人1枚までにしました」
味は母が守る。店の空気は娘たちが作る。そんな分担が、いつの間にか村松家に根づいている。 弘美さんは加寿子さんをどう見ているのだろうか。
「母から褒められた記憶も多くはありません。頑張り屋で、負けず嫌い。絶対に弱音を吐かない人です。そんな母と競う気はありません。私は母とは別の場所で店を支えようと思っています」
厨房から出てきた加寿子さんは、そんな娘たちが常連客と楽しそうに話している様子を目を細めて見守っていた。
■あんこ、皮、ホイップしたバター 三代が織りなす、三“味”一体の大判焼き
弘美さんの長女で、加寿子さんにとっては孫にあたる加奈子さんは、甘味処の実家で育ったこともあり、子どものころから甘いものに目がなかった。幼稚園では将来の夢に「サーティワンの店員さん」と書いた。そして、なによりも、加寿子さんのあんこが大好きだった。
「外であんこを食べても、あまりおいしいと思わなかったです。うちの店のを知っているからかもしれないけど。甘さの加減がちょうどいい。くどくもないし、あっさりしすぎてもない。皮の破れもなく、粒が美しく整っている。
ただ、おばあちゃんの味を私が受け継ぐという思いは、全然なかったです。ケーキが作りたかったんです」
加奈子さんは、高校卒業後、浜松の製菓専門学校で学び、名古屋や静岡の洋菓子店で働いた。
27歳のときに結婚し、2人の娘をもうけた。いつか焼き菓子専門の店を持とうと考えていた矢先、生後2週間の次女が心臓の難病を抱えていることがわかった。
加奈子さんが語る。
「ミルクを飲んでもすぐに吐いていたんです。しばらくしたら呼吸が荒くなり、指先も冷たくなってきて、子ども病院に緊急搬送されました。小さい体にたくさんの管がつながれて……。
最初、原因はわからずに、おなかを切るかもしれないと言われて。1カ月で退院しましたが、今度は、結婚生活が行き詰まってしまい……。夫婦関係が破綻して、ご飯もあんまり食べられなくて、すごく痩せてしまいました。もう限界でした」
令和4年、加奈子さんは、4歳と2歳の娘を連れて実家へ戻ることにした。両親や祖母がいる実家なら、なんとかなると。
ところが……。
「ばあばは『そんぐらいで帰ってくるだか』と塩対応でした。優しい言葉をかけてくれることは期待していなかったけど、まあ、別に、冷たいということではなく、それがばあばだから。それに私も、慰められるためではなく、働くために実家に帰ってきましたから」
子ども2人を抱えた働く孫に対して、言葉少なくも加寿子さんなりの迎え方だったのだろう。
それからすぐに、加奈子さんは、祖母と一緒に厨房に立つように。
そして、まるか村松商店では、和菓子や駄菓子のほかに、クッキーやフィナンシェ、注文が入ればホールケーキまで売るようになった。一緒に働く祖母を、加奈子さんはどう見ているのか。
「ばあばから、お菓子作りを教えてもらったことはありません。説明が苦手で、言葉にして伝える前に、自分の手が動いてしまう人だからです。
あと、本当に頑固です。自分の中のルールがあって、それを曲げない。団子を焼いたあとは少し冷まさなきゃいけないとか、あんこの塗り方にもすごいこだわりがある。私が手伝おうとすると『こんなんじゃ出せないよ』って、めちゃくちゃ怒ってきます。
それでも今となってはかっこいいと思います。生きざまといい、こだわりといい」
加奈子さんが作る菓子は、派手なデコレーションはないが、素材の味がまっすぐ届く。フィナンシェもクッキーも、どこか素直な味わいだと、和菓子の口になっている常連客たちの評判も上々だ。
この店で季節を問わず人気なのが「あんバター」の大判焼きだ。加寿子さんのあんこを使い、弘美さんが皮を焼き上げ、そこに加奈子さんがホイップした岩塩入りの冷凍バターを重ねる。
あっさりした甘さ、パリッとした皮、濃厚で塩気のきいたバター。女三代が一体になった味だ。
その味を、店の外へ届けようとしている家族もいる。加寿子さんの孫で、弘美さんの次男、優光さん(39)は、店の営業を担いながら、加寿子さんのあんこを生かした「濃い抹茶あずきジェラート」を考案。2025年の藤枝セレクションに選ばれ、まるか村松商店の味は少しずつ街の外へも広がっている。
家族はみな加寿子さんの背中を見て育ってきた。
■「あんこはまだまかせられない」あんこも人生も決め手は絶妙な“塩加減”
釜の中の小豆が、いよいよあんこへ近づいていく──。
加寿子さんは木べらを動かしながら、かき氷用のあんこを取り出すタイミングを、目だけでなく釜の音にも耳を澄ましている。
「最後の最後に、甘味を際立たせるためにお塩を加えます。塩は少なすぎれば、甘さがぼやける。でも入れすぎれば戻せません」
加寿子さんはそう語りながら、一握りと半分ぐらいの塩をあんこの中に溶かし込む。量っているようで量っていない。手のひらの感覚が、ものさしなのだろう。
「何グラムか、なんてわかりません。その日によって小豆も、火も、湿度も、私の体調も同じではないから。とにかく甘やかしたらだめ。引き締まったあんこにするには、適度な加減が必要です」
加寿子さんが語る。幼い日の父の死。母の病。厳しい姑。夫との早すぎる別れ。男性社会の茶の斡旋。4人の娘を育てた日々。その一つひとつを、加寿子さんは釜の前で静かに受け止めてきた。
その背中をもっとも身近で見てきた弘美さんはこう語る。
「母は、簡単には小豆を煮る釜の前を譲ってくれません。乳がんを患い、胆のうも摘出しました。厨房で転んで頭を打ち、救急車で運ばれたこともあります。それでも『家族は修業中だから、あんこはまかせられない』と言い続けています。
大変な人生だと思いますが、母は悲しかったことも、苦しかったことも、ただ“なんとか、かんとか”と乗り越えてきた。今は、孫やひ孫たちに囲まれて幸せだと思います。そんな経験が、小豆を炊くときに入れる絶妙な塩加減になっているのだと思っています」
ほんの少しの塩が、まるか村松商店の味を引き締めている。加寿子さんが釜の前で守ってきたのは、あんこの味だけではない。
10時開店。すでに強い日差しが、藤枝の街をじりじりと焦がしている。きっと今日も、かき氷が飛ぶように売れていくことだろう。朝、釜の中で静かに息をしていた小豆は、一杯のかき氷となって、今日も誰かの一日を少しだけ甘くする。
(取材・文:山内太)
