名門・帝京のキャプテンを務めていた佐々木則夫、"県工"の木村和司の第一印象は「ツッパったヤツだな」

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名門・帝京のキャプテンを務めていた佐々木則夫、"県工"の木村和司の第一印象は「ツッパったヤツだな」

8月2日(日) 6:40

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木村和司伝説~プロ第1号の本性

連載◆第27回:佐々木則夫評(1)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

高校時代の木村和司氏(後列右から4番目)写真提供:(有)シュート

高校時代の木村和司氏(後列右から4番目)写真提供:(有)シュート



1976年(昭和51年)度の第55回全国高校サッカー選手権大会は、冬の風物詩"選手権"が現在まで続く首都圏開催となって初めて行なわれた、記念すべき大会である。

と同時に、決勝で浦和南高が5-4という壮絶な打ち合いの末、静岡学園高を下すという、歴史的名勝負が繰り広げられた大会としてもよく知られている。

そんな高校サッカー史に残る大会では、のちに日本女子代表を世界一に導く指揮官となる高校生が、大会優秀選手に名を連ねていた。

当時、帝京高3年の佐々木則夫である。

帝京のMFとしてこの大会に出場した佐々木は、全国高校総体に続く夏冬連覇こそ逃したものの、のちに日本代表(A代表)で活躍する金子久、宮内聡ら、2年生に優れた人材がそろう若いチームを引っ張り、ベスト4進出に大きく貢献した。優秀選手選出は、当然の栄誉だった。

その一方で、佐々木の同級生にして、すでにユース代表(年代別日本代表)候補にも選ばれていた木村和司の名を、そこに見つけることはできない。

大会優秀選手に選ばれる以前に、木村を擁する県工、すなわち県立広島工業高が、全国大会に駒を進められなかったからである。

「(県工は)その前年までは強かったと思うんですけど、僕らの代はそんなに強くなかった。確か、(広島県予選準決勝で)国泰寺に負けたんですよね。だから、和司は全国に出ていなかった」

そう回想する佐々木が、木村の才能を初めて目の当たりにしたのは、選手権が行なわれる2カ月ほど前のこと。前述のとおり、木村個人はユース代表候補にも選ばれるなど、全国的にもその名を知られる存在になってはいたが、佐々木が木村のことを知ったのは、「高3の国体ぐらいから」だったという。

「(木村のいる)広島県選抜と(佐々木のいる)東京都選抜が国体で対戦するかもしれないっていうことで、そのときに初めて和司の技術的な要素というものを確認したって感じでした」

佐々木は木村について、国体前に多くの情報を持っていたわけではない。それどころか、「よく知らなかった」というのが、正直なところだった。しかしだからこそ、木村のプレーは佐々木のなかに強い印象を残すことになったとも言える。

「スピードが変化するドリブルが、すごく有効に機能していました。たぶん左サイドに流れることが多かったと思うんで、右サイドバックのチームメイトには、『ヨーイドンだと、アイツには負けるぞ。とにかく遅らせろ!』とかっていう話をした記憶もあります。

僕はどちらかというと守備的なボランチで、キャプテンでもあったので、最終ラインには『アイツに警戒しなければいけないぞ!』っていうことは伝えていました」

結果的に、そのとき両者が国体で顔を合わせることはなかった。広島県選抜は決勝に進出するも、東京都選抜が準決勝で敗退してしまったからである。

だが、ふたりはその後、奇しくもユース代表の選考合宿で顔を合わせることになる。佐々木が「そのときは、和司もいたし、キンタさん(金田喜稔)も(1学年上だったが)早生まれだったので、そのなかにいたと思います」と記憶する合宿である。

とはいえ、そもそも佐々木自身は、自分がユース代表に選ばれるような選手だとは考えていなかった。

「僕だってミドルパスとか、結構得意だったんですけど、(当時帝京高監督の)古沼(貞雄)先生からは、『則夫は余計なことするな。宮内に(パスを)はたいておけばいいんだ。宮内のほうが効果的なパス出せるんだから』って。試合中、ずっと『はたけ!はたけ!』って言われてました(苦笑)」

そう言って口をとがらせる佐々木は、「僕は選手権でちょっと活躍したのでエントリーされて、それで初めて選考合宿に行った感じ」だったのである。

実際、佐々木はユース代表の公式なメンバーに加わってはいない。

だが、初めて同年代のトップレベルが集結する場に参加したとき、思わぬ出来事があったことを今も覚えている。

のちに明治大サッカー部のキャプテンとなる、本郷高3年の田中喜生もまた、この候補合宿に参加していたのだが、その田中との間でこんなやり取りがあったというのだ。

「則夫は明治に行くこと、決めたの?」

「大学へ行くことになれば、オレも明治だよ」

田中が明治大進学を予定していることを聞いていた佐々木は、自分もまた同じだと伝えると、田中がこんなことを教えてくれた。

「和司も明治を考えてるみたいだよ」

佐々木が木村に抱いた第一印象は、「ツッパったヤツだな」。のちにチームメイトになるふたりだったが、そのときは高校卒業後の進路について直接話をすることもなかった。

だが、佐々木は当時を振り返り、木村との不思議な縁についてこう語る。

「じゃあ、(明治大で)3人一緒になるんだなって、ユースの合宿のときに知った記憶があるんです」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)

1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

佐々木則夫(ささき・のりお)

1958年5月24日生まれ。山形県出身。帝京高、明治大を経て、大学卒業後に電電公社に入社。大宮アルディージャの前身となる電電関東(のちにNTT関東)でプレー。現役引退後、1996年からNTT関東(のちに大宮)の監督を務めた。2006年からなでしこジャパンのコーチ、U-17女子代表監督に就任。2007年からU-20女子代表の監督となり、翌年からはなでしこジャパンを指揮。2011年女子W杯では日本を世界の頂点に導いた。その後、2012年ロンドン五輪でも銀メダル、2015年女子W杯でも準優勝という成績を収めた。現在は日本サッカー協会女子ナショナルチームダイレクターを務めている。

浅田真樹●取材・構成text by Masaki Asada

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