夏の売りは“ひんやり”あずきかき氷女性三代で営む甘味処の看板娘90歳

甘味処として60年以上続く和カフェ「まるか村松商店」の“看板娘”。左から孫の加奈子さん、加寿子さん、

夏の売りは“ひんやり”あずきかき氷女性三代で営む甘味処の看板娘90歳

8月2日(日) 11:00

朝7時、店の奥の厨房に入ると、釜の中で小豆が静かに息をしている。粒のそろった北海道産の小豆が水から火にかけられ、ぷつ、ぷつ、と小さな泡が上がる。

沸いたら一度火を止め、30分ほどおいて豆をふくらませる。最初の煮汁はあく抜きのために流し、もう一度水を入れて、やわらかくなるまで煮る。

小豆を取り出して指でつぶれるころ合いを見て、ザラメを加える。さらに水飴を流し入れると、釜の中の艶が変わる。

「お砂糖を入れたら、もう離れられないです。焦げちゃうからね」

少し重くなった木べらを握る手を休めずに、そう淡々と語るのは、村松加寿子さん(90)。

静岡県藤枝市。旧東海道の面影が残る街角に、夏になると人が吸い寄せられる甘味処がある。和カフェ「まるか村松商店」。“看板娘”の加寿子さんが釜の前に立つのは、この店のいつもの朝の風景だ。

天気予報では今日も30度以上になるとのこと。この地域で暑さを表現する“ぬくとい”を超えて“ばか暑い”日になりそうだ。

「今日はかき氷用のあんこを多めに作ります。同じあんこでも、大判焼きなら、皮の中で熱を受け止めるため少し硬めに。団子やおはぎなら、粘りが出るように、もう少し炊いていきます。かき氷には少しゆるめに炊いたほうがいいの。さあ、もうそろそろ仕上げです」

厨房に立ちこめた小豆の甘く香ばしい匂いは、店内にも広がる。土間敷きの店内には、洋菓子が並ぶ冷蔵ケースがあり、その横には駄菓子や地元の野菜が売られているコーナーも。テーブル2卓と小上がりには卓袱台が。その脇には、お茶を袋詰めする機械。とにかく昭和の雰囲気が濃い。

明治末期に創業した店は現在「まるか村松商店」として、加寿子さん、娘の弘美さん(66)、孫の加奈子さん(36)の女性三世代がつないでいる。

店を切り盛りしている弘美さんがこう語る。

「うちの店では、娘の加奈子が作る洋菓子も売っていて『何屋さんかわからない』と、よく言われますが、本業はお茶屋です。お茶の小売と地方発送をやっています。でも、よろず屋ですね。お茶に合う甘味も一緒にと、大判焼き、団子を売り出しました。冬はおでんも。そして今の一番の売りがかき氷です」

そんな店の夏の顔は、「抹茶あずきかき氷」だ。ふんわり削った氷に甘露を含ませ、藤枝産の抹茶をかけ、やわらかめに仕上げたあんこをのせる。半分食べたら、追い抹茶を。ひと口食べると、抹茶の苦味が先に立ち、あとから小豆の甘味が広がってくる。

多い日には一日に200杯の注文があるという。

ここに毎日のように通う静岡大学名誉教授の土居英二さん(79)はこのように語る。

「私はじつは糖尿病を患っているから甘い物は控えているんです。でも、一人暮らしの私は、ここへ来ないと、一日誰とも話さない。いつも温かく迎え入れてくれて、家族の団らんを味わえるから、毎日来ているんです。また家から15分ほど歩いて来るから軽い運動にもなる。それに加えて、この店のあんこを食べても血糖値が上がらない。不思議でしょう。この店のあんこにはくどい甘さがない。それでいてしっかりした芯がある。ただ甘いだけじゃないんです」

甘味に深みがある。女三世代が切り盛りする甘味処には、ほのぼのとした物語だけでは描ききれない奥深さがあるようだ。

■男性中心の社会に飛び込み、女一人……「化け物」だと言われたことも

「人生は思いどおりいくものではありません。なんとか、かんとか、やってきました」

そう語る加寿子さんは昭和10年、お茶処、藤枝市で生まれた。4人きょうだいの3番目。茶の商いをしていた父は、加寿子さんが3歳のとき、日中戦争で戦病死。

「父の顔は、はっきり覚えていません。母も40歳のときに脳溢血で倒れて半身不随に。病身の母は80歳まで長く生きました」

今と違って介護という言葉がない時代。男手がなく、病人がいる家は、家族と親戚で支え合いながら暮らすほかなかった。

「母の実家が、やっぱりお茶屋さんをやっていたので、小さいころから私はそこの店の手伝いに。ご飯を炊くにも、昔はかまどでね……。悲嘆なんかする前に、火をおこして米を炊いて、店の手伝いをし、私は目の前のことをしてきただけです」

23歳で、藤枝市で茶の斡旋業をしている村松家へ嫁いだ加寿子さん。夫の保昭さんは家業を継いでいた。現在、それを引き継いでいる弘美さんの夫、澄男さん(67)が家業について語る。

「お茶の生産農家と製茶問屋の取引を仲介するのがお茶の斡旋です。農家が刈った茶葉は、数時間かけて荒茶になり、夜中には見本用のお茶として集められます。それを早朝に問屋へ運び、値が決められます。

問屋は『少しまけてくれ』と言い、農家は『その値では出せない』と言い斡旋は、高く売りたい農家と、安く買いたい問屋の間で、双方の顔を立てながら、素早く商談をまとめます。ぐずぐずしていれば、別の斡旋人に持っていかれます。

かつては、いち早くお茶を持っていくために自転車を速くこげる人が重宝されていて、保昭さんの兄は、その足を買われて競輪選手になっています」

お茶の世界には、穏やかな湯気とはまるで違う顔がある。激しい応酬が行われる茶の斡旋業は男性中心の社会。収入を得られるのは、一番茶が出る4月下旬から、7月中旬の三番茶まで。そこでの勝負で一年の家計が決まる。

加寿子さんは家業を手伝いながら、4人の娘を産み育てていた。

ところが、昭和48年、夫の保昭さんが急逝する。肝硬変だった。加寿子さん、38歳。長女は高校1年生、弘美さんは中学2年生、三女と四女はまだ小学生だった。 さらに、その1カ月後、保昭さんの父も死去。村松家は一気に男手を失ってしまったのだ。

「保昭さんは、夜に吐血して、そのまま……。本人もまさかと思ったと思いますよ。女の子4人も残していくなんて。義父も亡くなり、私も、さすがにどうしようかと思いました。食べていけるかなって。でも、正直な話、寂しいなんて言っていられませんよ」

そう語る加寿子さん。夫を失い、娘4人を抱えた彼女は、男性社会である茶の斡旋に飛び込んだ。

「女の人は誰もいませんでしたからね、足元を見られたこともあります。買い逃してしまったときには、その日の生活費とか考えてしまいますね……」

そのころの話になると加寿子さんの口が重くなる。代わりに孫であり、弘美さんの長男で、現在、澄男さんとともに茶の斡旋業を継いでいる敬祐さん(42)がこう語る。

「ばあばは、毎朝3時には家を出て、車を運転して、お茶が入った見本缶を集めて問屋へ持ち込み、電話で農家とやり取りをしていました。ときには『買うだか、買わないだか、はっきりしな』と声を張り上げることもあったと聞いています。

現役時代のばあばを知る人から、あの世界で、女一人でやっていた加寿子さんは化け物だ、と聞いたことがあります」

茶の斡旋には、長年の経験が不可欠だ。敬祐さんは、加寿子さんからこんなアドバイスをされた。

「仕事がうまくいかなかったときに、ばあばから『売れると思って持っていくんじゃないよ』と。売れないこともあれば、断られて悔しいこともある。でも、それでも黙々とまた見本缶を持っていく、それが商いだと。

その精神力もすごいけど、ばあばの体力もすごい。深夜から働いているから、僕なんかは昼間、必ず少し寝ます。そうしないと、とてもじゃないけど体が持ちません。

でも、ばあばは、昼には店を開けて、あんこも煮ていた。その間に、娘たちの食事や学校のことがあったはず。やっぱり化け物なんです」

同じお茶の斡旋業をしている孫だからこそ、祖母のすごさが身にしみているのだろう。

(取材・文:山内太)

【後編】母、娘、孫…女性三代が織りなす三“味”一体の大判焼きあんこも人生も決め手は「塩加減」へ続く

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