木村和司の伝説のFKに「驚きはない」と川勝良一「そのぐらいの力はある。今のボールだったら、もっと決めてた」

photo by web Sportiva

木村和司の伝説のFKに「驚きはない」と川勝良一「そのぐらいの力はある。今のボールだったら、もっと決めてた」

7月26日(日) 6:35

提供:
木村和司伝説~プロ第1号の本性

連載◆第25回:川勝良一評(7)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

Jリーグ開幕戦でもガツガツとやり合っていた木村和司氏とラモス瑠偉氏photo by Etsuo Hara/Getty Images

Jリーグ開幕戦でもガツガツとやり合っていた木村和司氏とラモス瑠偉氏photo by Etsuo Hara/Getty Images



1993年に誕生したJリーグの記念すべき開幕戦が、ヴェルディ川崎対横浜マリノスであった歴史が物語るように、その前身である読売クラブと日産自動車は、晩年の日本リーグにおいて屈指の強豪チームとして知られていた。

1980年代半ばから1990年代にかけては、ほとんどの国内タイトルをこの2チームが分け合っていたと言ってもいい。

日本リーグを代表する2強は、互いの力を認め合う関係であり、1983~1988年に読売でプレーした川勝良一も「日産との試合は楽しかった」と振り返る。

だがその一方で、当然ライバル意識も強かった。

そのすさまじさは――あくまでも昔話として大目に見てもらわなければならないが――川勝いわく「読売側からすると、"削る相手"が決まってたんですよ」というほどだ。

「金田(喜稔)さんには松木(安太郎)さんが、(水沼)貴史には都並(敏史)が、(木村)和司とかマリーニョには小見(幸隆)さんが削りにいく。で、2回目は誰が行くとか、だいたい決まってて、それをやらなかったら、ハーフタイムに怒られる」

ラフプレーと言ってしまえば、それまでだが、そうまでするほど、読売と日産は「力が拮抗していた」ということでもある。

しかし、「和司なんかは、危ないと思ったら、必要以上に(ボールを)持たないんですよ」と川勝は言う。

「今のJリーグを見てると、(当時よりも)ルールが厳格だから、(激しく当たられても)頑張るというか、ガチガチいくでしょ。でも当時は、もう危ないんだったらワンタッチで一回叩いて、正対できるまで無理にやらない。背中向けたらもうアウトですもん。それでビビっちゃうヤツがほとんどだけど、和司は嫌がってはいても逃げなかった」

実際、木村もまた、読売クラブ、あるいはその後のヴェルディとの対戦を楽しんでいた。少なくとも、ただのラフなチームとは見ていなかった。

「やっぱり、うまい人はうまい人を見抜くのが早いんで。和司とカリオカ(ラモス瑠偉)なんかは、どっちも認め合ってて、だから余計にガチガチやる。そんななかでも、チームの中心で何年もやり続けるっていうのは、なかなかできることじゃないよね」

達観したようにそう語る川勝は、自身の現役時代について、「(自分が日本代表に選ばれなくなって)多少悔しいのはあるけど、もともとあんまり欲がなかった」。

だからだろうか、木村が伝説のFKを決めたことで知られる1985年のワールドカップ最終予選、東京・国立競技場で行なわれた日韓戦にしても、「テレビでは見てたのかな......」と、曖昧な記憶を残す程度だ。

「オレは(代表に)一度入ったら、もう満足、みたいなところがあった。(同年代の)人より早くユース(年代別日本代表)に入ったら、早く代表(A代表)に入ったら、それでもう(目標に)到達した、みたいな。

だから、和司みたいにずっと(日本サッカーの)トップにいて、ずっと(日本代表の試合に)出て、ああいうことをやるのを見ても、当時はそこまでこう......、熱がなかった。もう(現役を)やめようかなって思ってたから」

ただ、その試合をリアルタイムで見ていたのか、のちにニュース映像などで見たのかはともかく、伝説のFKについては、「別にすごい驚きでもないしね。そのぐらいの力はあるよな、みたいな感じだった」と振り返る。

「練習でしょっちゅう見てたからね。ユースのときも、ああいうボールを蹴ってたし、(右サイドから)クロスを蹴るのと同じで、やっぱり右足で巻いて狙うときの軌道がもう安定してる。だから、あんまり大きく外れていくってことはなかった。

さすがに、あれ(日韓戦のFK)は距離が遠かったけど......、まあでも、知ってるヤツからしたら、驚きではなかったよ」

冷めた口調でそう語る川勝も、しかし今と昔では、求められる技術が大きく異なることを認識している。

川勝は、木村のFKについて「(ゴールの)バーのちょっと上から落ちるぐらいの高さで蹴れる。その回転とコントロールは抜けてる」と表現するが、それを30年以上前に実現していたところに、木村のすごさがあるというのだ。

「今のボールって軽いし、変化つけやすいでしょ。無回転とかもそうだし。だから、本当にラクだなと思います。オレが蹴っても曲がってくれたりするからね。

でも、昔のボールって重くて、点でとらえてもそんなにブレない。海外の選手みたいに、本当にパワーがないと、なかなか曲げて落とすとかってできなかったけども、和司はやっぱ蹴り込んでたんで、きれいにグーっと(曲げられた)。あれは相当技術がないと、難しいですよ」

川勝が興味深げに続ける。

「今のボールだったら、アイツ、もっと点取ってたんじゃないかな」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)

1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

川勝良一(かわかつ・りょういち)

1958年4月5日生まれ。京都府出身。京都商業高(現京都先端科学大附高)を経て、法政大に入学。卓越したテクニックを誇り、大学在学時に日本代表に選出された。大学卒業後、1981年にJSLの東芝(北海道コンサドーレ札幌の前身)入り。1983年に読売クラブに移籍。その後、京都紫光クラブ(京都サンガF.C.の前身)、東京ガス(FC東京の前身)でプレーし、1991年シーズンに現役を引退した。引退後は指導者として活躍。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、ヴィッセル神戸、アビスパ福岡、京都などで手腕を発揮した。国際Aマッチ出場13試合。

浅田真樹●取材・構成text by Masaki Asada

【関連記事】
◆川勝良一が語る、木村和司の本質と指導者としての才覚「戦術論が常に先行してる感じだけど、結局は技術的な部分が大事」
◆"丸の内御三家"を敵視していた読売クラブが唯一認めていた日産その中心にいた木村和司の「ちゃんとした実力」
◆フェアレディZの模型を手にした加茂周に「本物をやる」と言われた川勝良一木村和司の加入が「わかってたら、日産に行ってた」
◆満員の国立が熱狂した木村和司の「伝説のFK」その歴史的な瞬間に起こっていた知られざる「悔恨」
◆その場にいなかった「後悔がある」本来代表の中心にいるべき男は木村和司の伝説のFKをどこか冷めた目で見ていた
Sportiva

新着ニュース

合わせて読みたい記事

編集部のおすすめ記事

エンタメ アクセスランキング

急上昇ランキング

注目トピックス

Ameba News

注目の芸能人ブログ