名将たちの甲子園初出場物語
小倉全由(前編)
2025年9月のU−18ワールドカップを最後に、高校野球の指導現場を離れた小倉全由(まさよし)氏。日大三の監督として2度の全国制覇を成し遂げたことから「三高の小倉」のイメージが強いが、監督としての第一歩を踏み出したのは関東第一だった。
小倉が初めて甲子園出場を果たしたのは、つくば万博が開催された1985年。監督就任5年目、まだ28歳の時だった。この「小倉の甲子園初出場」は、1925年創立の関東第一にとっても春夏通じて初の甲子園出場だった。さらに、江戸川区の高校としても初めての甲子園出場という歴史的な快挙でもあった。
バブル経済の足音が聞こえ始め、日本全体が活気に満ちていた時代、「学校はもちろん、地元の江戸川区も大いに盛り上がった、熱い夏でしたね」と、小倉はそう懐かしそうに振り返る。「打倒・帝京」にすべてをかけた熱血青年監督と、「下町の暴れん坊」と呼ばれた選手たちは、いかにして初の甲子園出場へと歩みを進めていったのか。その軌跡をたどる。
1981年に関東第一の監督に就任した小倉全由氏photo by Nikkan sports
【実績ゼロの青年監督が選んだ道】大学時代、母校・日大三でコーチを務めながら教員免許を取得した小倉は、監督の小枝守(のちに拓大紅陵監督)をサポート。大学4年の夏に甲子園出場を果たした。卒業後は母校の社会科教員兼野球部コーチとして、社会人生活をスタートさせる予定だった。しかし、学校側の事情により、監督の小枝とともに日大三を離れることになった。
関係者を通じて関東第一からコーチ就任のオファーが届いたのは、1980年12月のことだった。初めて学校を訪れた日、理事長から「君はどうしたいんだ?」と問われると、小倉は迷うことなく、「甲子園を目指します!」と答えた。
翌1981年4月、小倉の監督就任が決まり、初めて理事会に出席した。そこで感じたのは、歓迎ムードとはほど遠い空気だった。
「自分のような若造が監督をやることになって、皆さんトーンダウンしている雰囲気を感じましたね」
もっとも、小倉は「実績のない自分では仕方がない」と割りきった。監督に就任した小倉は、チームに「試合に出ている下級生が中心」という雰囲気を感じとった。そこで掲げたのが、「3年生と目一杯やる」という方針だった。初めて迎えた夏は國學院に惜敗したものの、「3年生が自分についてきてくれて、いつも一生懸命やってくれたことが本当にうれしかった」と振り返る。
夏を経験した選手たちが中心となった秋季大会では帝京を7対6で撃破。つづく準々決勝では、翌春の選抜で準優勝投手となる市原勝人(現・二松学舎大附監督)を擁する二松学舎大附に0対1で敗れるも善戦。
翌年春の都大会でも、選抜帰りの早稲田実を相手に1対5で敗れたが、終盤まで0対0と互角の戦いを展開した。夏も準々決勝まで勝ち進み、修徳に2対3でサヨナラ負けを喫したが、小倉はチームづくりにたしかな手応えを感じ始めていた。
しかし、新チームとなった秋季大会では、準決勝で帝京に1対4で敗戦。この敗戦を機に、小倉は「帝京を倒さなければ甲子園はない」という思いがいっそう強くなった。
【就任3年目で決勝進出を果たすも...】迎えた1983年4月。甲子園では池田(徳島)が選抜を制し、夏春連覇を達成するなど、「池田フィーバー」は社会現象となっていた。
そんななか、のちに関東第一の甲子園初出場時に主将を務める寺島一男、エースへと成長する木島強志、さらに名門・調布シニア出身の田辺昭広や抜群のセンスを誇った塩田正廣らが入学した。有力校から声がかかるような名の知れた選手はいなかったが、小倉は新入生を見て「身体能力の高い選手や、足の速い選手が多い」と感じた。一方で、最も印象に残ったのは、その気性の激しさだった。
「野球をやっていなかったら、どうなっちゃうんだよって心配になるくらい、向こう気の強いやつらが集まっていましたね(笑)」
田辺や塩田ら1年生数人がベンチ入りした1983年夏、小倉率いる関東第一は大きな飛躍を遂げた。好投手・山崎勝巳を擁して勝ち進むと、準決勝では夏4連覇を狙う早稲田実を7回コールドで撃破。そして決勝で待ち受けていたのは、前年秋に苦杯をなめた因縁の相手・帝京だった。
大柄な選手が揃う帝京に対し、関東第一は小柄な選手が多いチームだった。それだけに小倉は、「こういうチームが甲子園に行けたら、それこそ本当の高校野球だよな」と日頃から感じていたという。しかし決勝を前に、周囲の予想は圧倒的に帝京優勢だった。
「何点取られるんだろうという感じで、みんな帝京の圧勝を予想していましたね」
それでも関東第一は最後まで食い下がり、2対3とあと一歩まで追い詰めた。閉会式では号泣する選手たちを前に、「本当によくやってくれた」とねぎらったが、就任3年目で味わったこの敗戦は、小倉の監督人生における大きなターニングポイントとなる。
「打倒・帝京。それしかなかったですね」
この敗戦を境に、その思いはさらに強くなった。「縦縞のユニフォームは大嫌いだ。見たくない」と、あえて強い言葉を口にしながら、選手たちの闘争心をかき立て、「打倒・帝京」をチームの揺るぎない目標に据えていった。
【有望中学生の獲得に成功】決勝で帝京に惜敗した悔しさを胸に、小倉はすぐに次の戦いへと動き出した。力を注いだのは中学生の勧誘だった。当時は「甲子園に出るまでは、声をかけてもなかなか来てくれない」という状況が続いていたが、それでもあきらめなかった。
東京ナンバーワンとの呼び声が高かった板橋シニアの西村忠之を獲得するため、何度も足を運んだ。ある日には、普段なかなか家族サービスができない妻・敏子さんと長女・弓佳さんを車に乗せて出かけたものの、家族を車内で待たせたまま、自分だけ戸田市(埼玉)のグラウンドへ向かい、西村の試合を視察したこともあった。
西村の兄は帝京野球部の出身だった。兄からは「関東第一はこれから絶対に強くなるけど、練習は厳しいぞ」と聞かされていたという。それでも西村は、「決勝で帝京に敗れた関東第一を見て、『まだ甲子園に出たことがないこの学校で挑戦してみたい』と思いました。そして何より、小倉監督の熱い思いがうれしかったんです」と関東第一への進学を決意した。
昨年9月のU-18 W杯をもってU-18日本代表監督を勇退した小倉全由氏photo by Sportiva
西村から「よろしくお願いします」という返事をもらった小倉は、真っ先に妻の敏子さんへ報告。「あの時は本当にうれしかったですね」と、昨日のことのように覚えている。
1984年夏、城西大城西に敗れて新チームが始動すると、小倉は寺島を主将に、塩田と田辺を副主将に指名した。
「この秋は密かに狙っていたんですよ」
前チームからの経験者も多く、どこと対戦してもいい戦いはできるだろうと思っていた。しかし、秋季ブロック予選では皮肉にも帝京と同じブロックに入り、2戦目で激突した。接戦が期待されたものの、結果は1対10の大敗。しかも帝京はエース・小林昭則を温存し、背番号10の小林宏之を先発させる余裕すら見せた。
この敗戦のショックは大きかったが、落ち込んでいる暇などなかった。翌日からすぐに猛練習を再開。再び「打倒・帝京」へ向けてチームを鍛え上げていった。
【娘が生まれた翌朝もグラウンドへ】「夏に甲子園へ行こうと思うなら、来年春の関東大会に出るしかない。関東大会に出場できなければ、夏の甲子園はないと思ってやっていこう」
帝京に敗れた直後のミーティングで、小倉は選手たちにそう言い放った。当時1年だった西村は、この言葉が今でも強く心に残っているという。
関東第一は豊富な練習量を誇り、毎朝5時半から朝練が行なわれていた。寺島、塩田、西村が異口同音に語るのは、ひたすら走り込んだ日々だ。
「とにかく毎日走っていました。監督さんも一緒に」
小倉は自ら先頭に立ち、合宿所から約5キロ先まで選手たちと走る。坂道では傾斜を利用したダッシュを何本も繰り返し、徹底した走り込みでチームの土台を築いていった。
冬の強化合宿中には、小倉の次女・理佳さんが誕生した。
「練習が終わってから、監督さんは病院へ向かうため一度家に帰られたんです。だから『さすがに明日の朝練は来ないよね』ってみんなで話していました」
寺島は笑いながら当時を振り返る。
「ところが翌朝、監督室の前を見るとスリッパがあるんですよ(笑)」
小倉は明け方には合宿所に戻り、何事もなかったかのようにいつもどおり朝練に参加していた。寺島は言う。
「『お子さんが生まれた日くらい朝練を休めばいいのに』って、みんなで話していました(笑)。でも、いま振り返ると、監督さんはいつも自分たちのことを第一に考えてくれていたんだなって思います」
その姿勢は選手たちの胸に深く刻まれ、小倉とチームの絆はさらに強いものになっていった。
(文中敬称略)
つづく>>
新田光●文Hikaru Nitta
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