伝記映画として史上初の世界興行収入10億ドルを突破した、映画「Michael マイケル」。往年のマイケル・ジャクソンファンはもちろん、本作の大ヒットをきっかけに、マイケルの輝きに魅了された若い世代も多いことだろう。そして、本作ではスーパースターの音楽とダンスの才能だけでなく、マイケル・ジャクソンというひとりの人間としての優しさ、心の温かさも描かれている。
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【フォトギャラリー】世界で唯一、マイケルのヒーリングボイスが聞ける「盛田昭夫塾」館内マイケルの歴史的大ヒットアルバム「Thriller」(1982)や「BAD」(1987)を当時リリースしたのは、ソニーと米レコード大手CBSとの合弁会社、CBS・ソニーレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)だ。1980年代からマイケルとソニーの関係がスタート。マイケルはソニー創業者の一人である盛田昭夫氏を敬い、来日ツアー時には盛田氏の家族とも交流した。1993年、盛田氏が病に倒れたと知ったマイケルは、盛田氏を優しく励ます言葉を録音したカセットテープを贈る。その肉声は愛知県常滑市にある、盛田氏と妻・良子さんの記念館「盛田昭夫塾」で聴くことができるのだ。
このほど、映画.com編集部が「盛田昭夫塾」を訪問し、盛田氏の長女で運営の天涯文化財団代表の盛田(岡田)直子さんに話を聞いた。
▼ソニー創業者のひとり、盛田昭夫氏と妻・良子さんの記念館「盛田昭夫塾」
盛田家は、知多半島の伊勢湾に面した常滑市小鈴谷で300年以上続く醸造業を営む名家だ。その15代当主が盛田昭夫氏である。盛田氏は戦中に井深大氏と出会い、終戦後、ふたりで後のソニーとなる会社を立ち上げる。今年はソニーグループ創業80周年、卓越した技術力と発想力で小さな工場から世界のトップ企業となったその歩みは、日本の戦後史とともに記憶されるべき大きな功績だ。「盛田昭夫塾」は、盛田氏のスピリットと経営哲学を感じられる展示物、そして盛田氏を支えた良子さんの多大なる貢献を、さまざまなテーマから紹介する施設で、直子さんが中心となって2020年に設立された。
塾と名付けられているため、ビジネスマン、もしくは技術者向けの講義が行われるお固い施設だろうか?と思われる方もいるかもしれない。しかし、こちらは予約をすれば誰でも入場可能、その展示内容も、我々の日常を豊かにしてくれているソニー製品さながらに、わかりやすく、“面白い”のだ。ソニーという会社の名は知っているが、盛田氏の名を知らなかった世代も(筆者もその一人だった)、Apple創業者スティーブ・ジョブズが憧れていた日本人と聞けば、興味が湧くのではないだろうか。
「盛田昭夫塾」は、6つのキューブを積み重ねたようなモダンな建築デザインが目を引く建物で、館内の展示はそれぞれ異なる6つのコンセプトが設定されている。ビジネスの場だけではない父・昭夫氏の素顔を知り、世界の要人をもてなした母・良子さんのセンスを受け継いだ直子さんの感性が活かされた、盛田家のヒストリーを学べると同時に、来場者の知的&美的好奇心をも満たす空間だ。すべての見どころを紹介したいところだが、今回はマイケルのコーナーと、盛田氏と映画について紹介する。
▼盛田氏を慕ったマイケル・ジャクソンのコーナー
館内にBGMはないが、展示を順に見進め、最後のコーナーに差し掛かるころ、優しい声の英語のささやきが聞こえてくる。そこが、盛田氏とマイケルの交流を紹介するコーナーだ。マイケルが盛田家を訪問した当時の写真と映像、1995年発売の「HIStory」ジャケットと、マイケルが盛田氏のために作った盾が飾られ、漢字で「永遠の友情」と刻まれている。壁面には、マイケルの直筆メッセージを基にした文字があしらわれ、「ミスター盛田、あなたは必ず良くなります…」と病床の盛田氏を励ますヒーリングテープの現物が展示されるとともに、音声がリピート再生されている。キレの良い歌唱とはまた異なるマイケルの語り口は、心に染み入るような愛情溢れる癒しのボイスで、いつまでも耳を傾けて、その場にとどまっていたいような気持ちになる。
来日公演での楽屋や、盛田家での食事会で生前のマイケルと言葉を交わしたという直子さんは、「映画『Michael マイケル』で描かれているような、優しい青年でした」と振り返り、盛田家とマイケルとの温かな親交をうかがわせる貴重なエピソードを明かしてくれた。ここでは、良子夫人によるマイケル回想記も読むことができ、マイケルの優しい肉声を聞きながら、盛田氏とマイケルという天才同士の交流を目撃できる、世界で唯一の場所であることは間違いないだろう。
▼直子さんに聞く
――盛田昭夫さんとご家族はマイケル・ジャクソンとどのようなお付き合いをされていたのでしょうか?
マイケル・ジャクソンはソニー・ミュージックの所属アーティストということで、父とはいわばボスと部下の関係です。ですから偶然どこかで知り合ったというわけではなく、仕事としての自然な関係でした。ですが、マイケルが父をすごく尊敬し、好いてくれていましたね。日本に来るたびに会社へ行ったり、自宅にも何度も来てくれました。
父は当時のソニー・ミュージックの会長でしたから、もちろん、他にもいろいろな外国人アーティストが我が家に来ました。その多くは友達やマネージャーを連れて大人数で来るわけです。でもマイケルだけは、ボディガードは付いてくるものの、必ず1人で来ました。こちらの展示ビデオを見ても分かる通り、いつも1人なんです。ボディガードは家の外で待機させ、マイケル1人でうちに入ってきてオルゴールやウォークマンを聴いて、すごくリラックスした笑顔で楽しんでいました。
――マイケルの人柄について、昭夫さんや直子さんはどのように感じていましたか?
私も映画「Michael マイケル」を観ましたが、マイケルの人柄そのものが伝わってきました。すごく素直で、正直に何でも言ってくれる人だったと思います。
ただ、彼ほどのスーパースターになると、周りに数多くの業界関係者が取り巻くので、自分が伝えたいことが思うように伝わらないことが多々あったはずです。けれど父と話しているときは、父がコミュニケーションに非常に長けた人でしたので、「この人なら話を聞いてもらえる」と思って、一緒にいる時間を大切にしていたのではないでしょうか。
大スターになると周りも恐縮してしまいますし、個人的に遊びに誘うことなんてなかなかできないことですが、彼は本当に映画の通りの純粋な青年でした。私も海外に留学し、色々な方々とコミュニケーションをしてきましたが、彼は本当に気持ちの優しい青年で。うちに来ると家族ぐるみでみんなでおしゃべりをする……マイケルもそれが嬉しかったのだと思います。
私にとっても、彼に会えたこと自体が素晴らしい人生の経験です。来日コンサートは必ず行きましたし、親と一緒に楽屋へも行きました。それだけでなく、コンサート前のホテルから出かける直前に会いに行ったこともあります。エレベーターホールでの10分にも満たない立ち話でしたが、丁寧に話をしてくれました。私のような業界人ではない人間に対しても、「盛田ファミリーだから」と会ってくれる、心優しい青年でした。
周りの色々な人たちが、マイケル・ジャクソンを作り上げていったのだなと思います。整形して顔は変わっていきましたけれど、彼の性格が変わってしまったわけではありませんでした。私には娘が2人いて、当時、上の子が幼稚園か小学校に上がるか上がらないかの頃、マイケルに挨拶をさせたときも、普通に優しく接してくれましたね。
――直子さんがマイケルと直接お話しされて、特に印象的だった言葉などはありますか?
具体的な言葉は思い出せませんが、ちゃんと話をしてくれたということが印象深いです。もちろん、業界の話やビジネスの話をしていたわけではないので、私から話すことといえば「今日のコンサートは素晴らしかった」とか「最初にステージから飛び出すパフォーマンス、あれは怖くないの?」といった、いちファンとしての他愛のない話でした。それに答えてくれたのが嬉しかったですね。年齢も近いので、同世代として普通に話せました。我が家に何度も来てくれたことは、私にとっても人生の忘れられない思い出です。カリフォルニアのお墓も探しに行ったんですよ。
――音楽がお好きな昭夫さんが、マイケルの楽曲についてコメントすることはありましたか?ご自宅での思い出深いエピソードを教えてください。
父はクラシックが好きでしたが、あらゆる分野の方たちとお付き合いがありましたから、会場で立ち上がって盛り上がるようなマイケルのコンサートにも行きました。立場上、細かな音楽性を云々言う人ではありません。父は音楽に関してはソフトでなくハードを作る側の人間だったので自分の作った新製品をマイケルに見せては、彼のリアクションを見るのをとても楽しみにしていました。そしてマイケルも素直な性格なので思ったことをいろいろ話してアドバイスしてくれたのだと思います。そんなマイケルの新しいオーディオ機器への興味を持つ姿勢に父も感動していたのでしょう。
母は、「いかにここでリラックスしてもらうか」というおもてなしをいつも考えていました。マイケルが来るとなると、ごちそうを並べても彼はそうしたものを食べませんから、主に果物を出していました。一度、母の誕生日とマイケルの訪問が重なって、マイケル用と母用にケーキを2つ作ったのですが、彼はケーキは食べませんでしたね。厳しく体調管理をしていたのかは分かりませんが、柿や梨などの果物を喜んで食べていました。彼は食事そのものよりも盛田家の温かい雰囲気が好きだったのだと思います。
▼盛田氏と映画
盛田氏はとりわけクラシック音楽に造詣が深く、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンとの友情は有名だ。実母からの影響で、起業以前から音楽を愛しており、ソニーがレコード会社を持ち、音楽産業に参入したのも自然な流れだったのだろう。「盛田昭夫塾」では、盛田氏が趣味で集めた音楽再生機、デービット・ロックフェラーやレナード・バーンスタインら、各界の重要人物からの贈答品なども展示されている。また、ソニーは1989年に米コロンビア映画を買収し、映画界にも参入した。盛田氏自身、多忙な中でも時間を見つけて映画を鑑賞していたそうだ。鑑賞記録としてメモを残しており、その一部が展示されている。
さらには盛田氏が良子さんや家族と映画館へ足を運んだ際の作品パンフレットも年代ごとに閲覧可能で、こちらも映画ファンにとって貴重な資料だ。特定のジャンルにはこだわらず、その時の話題作をチェックしていたようだ。
映画製作・配給事業を行うソニー・ピクチャーズのほか、近年、日本で社会現象並みの大ヒットを巻き起こした「鬼滅の刃」シリーズ、「国宝」などもソニーグループがかかわる作品だ。そんなソニーの原点となる盛田氏は、文化・芸術を深く愛する人であった。「盛田昭夫塾」は、そういった盛田氏の一面を知ることができる場でもある。
▼直子さんに聞く
――昭夫さんはソニーの映画産業参入以前から映画にも関心が深かったそうですね。どのような映画を好んで見ていたのでしょうか?
父は大抵、毎週日曜日はゴルフの予定を入れていたのですが、雨でキャンセルになると「映画を観に行くから、指定席のチケットを買ってこい」と言われて。現代のようにネット検索ができなかった時代でしたので、私が渋谷の当時映画館があった東急文化会館まで指定席券を買いに行かされました。当時は時間つぶしに行っているのだろう……くらいに思っていたのですが、この記念館を作る際、蔵を片付けていたら日記が出てきたんです。その日記の後ろのページを見たら、1年間にこれほど観たのかというほどの映画のリストが書かれていて。本当に映画が好きだったのだと、記念館を作るときに初めて知りました。
また、父はミュージカルが大好きで、ニューヨークに行くたびに時間の許す限り観に行っていました。「屋根の上のヴァイオリン弾き」の初演を観て「これは絶対に森繫久彌さんが演じるべきだ」と感動し、森繫さんの奥様にも掛け合って、帰国後、東宝さんに企画を持ち掛けたそうです。そして、3年後に実現したのが森繁久彌さんの「屋根の上のヴァイオリン弾き」(1967年初演)です。最初の3公演分くらいのパンフレットには、父の名前で「私が日本へ持ってきました」という旨の文章がちゃんと載っています。こんな風に、面白いと思ったものはみんなに見せたい、シェアしたいという気持ちが強い人でした。とても実行力のある父でそういうところは、私も父に似ていますね。
――この記念館は「盛田昭夫塾」という名前ですが、ビジネスパーソンだけでなく、おもてなしや暮らし、文化芸術に関心のある方は誰でも博物館のように楽しめる空間ですね。ご両親との思い出、記念館設立への思いをお聞かせください。
そう言っていただけると嬉しいです。入った途端にソニー製品ではなく母の自慢の「ちらし寿司」の蝋細工展示がありますからね(笑)。もちろんソニーの歴史も大切ですので、銀座のソニービルやウォークマン、三宅一生さんデザインのソニーの社服などの展示も取り入れています。
父が亡くなって30年近くが経ち、私が小学校や中学校の頃といえばもう半世紀前の話ですが、末っ子の一人娘として最高に甘やかしてくれました。父はとにかく優しく、母は神田生まれの江戸っ子で厳しい人でした。父は多忙でしたが、飛び石連休があると「学校は休んでいいから、みんなで旅行に行こう!」と時間を作って一緒に過ごしてくれました。実家から出てきたファミリームービーをデジタル化して繋げたら、ずっと子供と遊んでいる子煩悩な父親の姿が映っていて、母は「これじゃ毎週家にいたみたいで、嘘の情報を伝えている!」と笑っていましたが(笑)。
盛田昭夫の娘として、私は本当に多くの貴重な経験をさせてもらったので、私にできる方法で正しい親の姿を次世代に伝えていくことが恩返しだと思っています。専門の学芸員を入れずに、蔵の片付けと並行してこの記念館の展示内容をすべて私自身で決められたのも、母の“おもてなしの背中”を見て育ったからです。母はゲストのために、1カ月前からお花やメニュー、室内のしつらえを細かくプランニングしていました。そんな母譲りで、私もイベントのプロデュースが好きなので、キャプションの文章も自分で叩き台を書き、一般の方が親しみやすいようにプロの方に仕上げていただきました。また、ここを「塾」と名付けたのは、私自身も作りながら学んでいるからです。そしていらした方が興味あるコーナーを見つけ何かを学んでいってほしい、そんな願いを込めました。塾の教科書のように、展示内容もどんどんアップデートして熟成させていきたいと思っています。
娘として、父と母が二人三脚で「縁」を大切にし、国際的に活躍した真の姿をここに残し、この塾を通じこれからもたくさんの新しい「縁」を結んでいけたら、これほど嬉しいことはありません。
▼終わりに
盛田氏は祖父から「旅こそお金には変えられない価値がある」との教えを受け、戦前の学生時代から国内、中国各地や旧満洲などを訪れ、旅日記を残していた。また、起業後はビジネスでの渡航が大半であっただろうが、記念館には押印びっしりのパスポートが何冊も展示され、その渡航国と訪問の数に驚かされる。
筆者がこの記念館を知ったのも個人的な旅がきっかけだった。名古屋旅行のついでに、知多半島まで足を延ばして海が見たいなあ……と考えた際に近隣で立ち寄れるスポットを検索し、偶然見つけたのだ。施設の名前から初めて盛田氏の偉業を知り、訪問前の予習に、と軽い気持ちで、80年代にまずはアメリカで発売され、世界的ベストセラーになった「MADE IN JAPAN」を購入し通読。先見の明に溢れた盛田氏の視点と洞察力に驚き、また日本の戦後史とも言える当時の社会と経済状況を同時に学ぶことができる同書に夢中になった。
同書でとりわけ筆者の心に残ったのは、イノベーティブな技術開発やものづくりへのたゆまぬ挑戦、誰もやらないことをやるという精神、異文化理解、そして功績だけではなく失敗談も語られていること。国際的に大成功した経営者もトライ&エラーの繰り返しだった――そんな物語は、ソニーのような大企業で働いていない人にとっても、新しいことにチャレンジする勇気ややる気を与えてくれるだろう。そして、マイケルファンはもちろん、世界を股にかけ、とびきりスケールの大きい仕事をした日本の先人に出会いたい人は、ぜひこの「盛田昭夫塾」に足を運んでほしいと願ってやまない。
【作品情報】
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