フェアレディZの模型を手にした加茂周に「本物をやる」と言われた川勝良一木村和司の加入が「わかってたら、日産に行ってた」

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フェアレディZの模型を手にした加茂周に「本物をやる」と言われた川勝良一木村和司の加入が「わかってたら、日産に行ってた」

7月19日(日) 6:50

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木村和司伝説~プロ第1号の本性

連載◆第23回:川勝良一評(5)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

大学卒業後の進路を考えていた当時のことを振り返る川勝良一氏photo by Miki Sano

大学卒業後の進路を考えていた当時のことを振り返る川勝良一氏photo by Miki Sano



大学生にして、すでに日本代表に選ばれたサッカー選手となれば、大学卒業後の進路選択に際し、引く手あまたであったことは想像に難くない。

実際、法政大4年の川勝良一のもとには、「7チームぐらい(オファーが)来ていた」。

結果的に、数あるオファーのなかから東芝を"就職先"に選ぶことになる川勝は、しかし「一番行きたかったのは、読売クラブ」だった。

だが、オファーを受けたチームの監督と順番に会って話を聞くなかで、読売クラブ監督の相川亮一とも話したが、「一度も『うちに来てくれ』って言われなかった」という。

「『来てくれ』って言われなかったのは、相川さんとガマさん(ヤンマーディーゼル監督の釜本邦茂)だけで、読売とヤンマーはあんまりこう......、熱心に見えなかった」

はたして、川勝は読売という選択肢を消すことになったのである。

その一方で、最も熱心に声をかけてくれたのは、日産自動車監督の加茂周だった。

ただ、川勝が大学4年のときにさかのぼれば、日産は日本リーグ2部所属。「(有名な選手は)金田(喜稔)さんしかいなかったし、そのうえ2部だったし。それで、どうすっかな、と」。

日本代表で一緒だった同い年の木村和司に、卒業後の進路について尋ねてみても、返ってきた答えは「まだ決めてない」。

親友からの助言は決め手に欠けたが、「日産には明るいイメージがあったし、(面談のときに)加茂さんがフェアレディZの模型を持ってきて、『これ、本物やるから』って言われて......」。

魅力的な口説き文句に、川勝は「(日産に)行きます!」と一度は答えている。

もし木村が、この時点で日産入りを決めていれば、あるいは決めていたのなら、それを川勝に伝えていれば、おそらく川勝はトリコロールのユニフォームに袖を通していたに違いない。

しかし、川勝は結局「和司が日産に行くとは思ってなかったんで」、法大の同期に引っ張られるように心変わりし、東芝入りを決断。「日産に行きますって返事してたので、加茂さんがいないときに(日産へ)断りに行った」のである。

ところが、ふたを開けてみれば、木村は日産へ。

「それなら、おまえ、教えてくれよ」

そんなことを思った川勝だったが、時すでに遅し、だった。

「今みたいにプロの時代じゃないんで、やっぱ仲がいいヤツ、うまいヤツが行くとこに一緒に行きたかった。和司もだいたいおんなじとこから声がかかってたんでね。和司も行くってわかってたら、たぶん日産に行ってたよ」

ふたりが社会人1年目の1981年、東芝は日産とともに日本リーグ2部で1部昇格を目指して戦っていた。

立場は同じはずだったが、「東芝はサッカー部の人たちの熱も低かったけど、日産はサッカー部ができたてで、加茂さんがグッと引っ張っていてうらやましかった」と川勝。その年、日産は2部で2位となり、1部との入れ替え戦を勝ち抜いて1部昇格を果たしている。

一方の東芝は、翌1982年に入れ替え戦に進出するも、そこで敗れて1部昇格に失敗。社会人2シーズン目を終えた川勝は、「また(次のシーズンも)2部というので、もうテンションが下がってた」。

そんなときである。川勝は、敗れた入れ替え戦を視察に来ていた読売クラブの首脳陣に声をかけられた。

「(読売の)小見(幸隆)さんと代表で一緒だったんで、たぶんオレが東芝のグチを言ったんじゃないかな。『日産には金田さんとか、和司みたいな選手がいて、2部でもああいうチームがいい』とか、『やっぱ読売行っときゃよかったな』とか」

川勝の東芝在籍は、わずか2年足らず。一度は読売の誘いを断って進んだ道だったが、再び声をかけてもらったことで気持ちは固まった。

当時の読売は、企業チームばかりの日本リーグのなかでは異端とも言うべき存在。実力に応じて差こそあったが、サッカーで給料をもらう、実質的なプロクラブだった。

「そのとき、もうヒゲも伸ばしてたし、自分も和司のことを言えないぐらい態度が悪いっていうか、あいさつもあんまりしないし......、サラリーマンに向いてなかった。和司(のキャラクター)の7割は自分も同じだっていうくらい、社会性が低いというか、人として(どうか)、みたいな感じだったから」

川勝は、そう言って苦笑する。

「だから、和司とは気が合うんでしょうね」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)

1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

川勝良一(かわかつ・りょういち)

1958年4月5日生まれ。京都府出身。京都商業高(現京都先端科学大附高)を経て、法政大に入学。卓越したテクニックを誇り、大学在学時に日本代表に選出された。大学卒業後、1981年にJSLの東芝(北海道コンサドーレ札幌の前身)入り。1983年に読売クラブに移籍。その後、京都紫光クラブ(京都サンガF.C.の前身)、東京ガス(FC東京の前身)でプレーし、1991年シーズンに現役を引退した。引退後は指導者として活躍。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、ヴィッセル神戸、アビスパ福岡、京都などで手腕を発揮した。国際Aマッチ出場13試合。

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