連載:一流アスリートもみんな「ルーキー」だった
五郎丸歩インタビュー(前編)
2015年ラグビーワールドカップ──。
優勝候補の南アフリカから劇的な大逆転勝利を収めた日本代表の勇姿は、開催地の名にちなんで「ブライトンの奇跡」と称えられた。あの熱狂は既存のラグビーファンだけにとどまらず、幅広い層の人々に強烈なインパクトを与え、今もポジティブな記憶として残っているはずだ。
「これは奇跡ではなく、必然です」
試合後にそう答えた五郎丸歩は、2015年大会3勝の立役者であり、ラグビーを象徴する数字「15」番を背負い続けた名フルバックである。プレースキックの際に両手を胸の前で揃える独特のルーティンは、子どもから大人まで誰もが真似をするほどの社会現象となった。
五郎丸歩氏に各カテゴリーでのルーキー時代を振り返ってもらったphoto by Yuka Shiga
2021年をもってヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)での現役生活を終えた五郎丸は、引退後に同チームのCRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)に就任。2024年夏にその役職を退いた今も、その姿は古巣の本拠地・静岡県磐田市にあった。
これまでと変わらない精悍なたたずまいに、丁寧かつ誠実な出迎えと受け答え、そして笑顔──。頻度は少ないものの、20年近く取材してきた筆者としては、早稲田大学やヤマハ発動機、日本代表でそれぞれ活躍し始めた当時とは明らかな違いを感じた。
失礼を承知で率直に表現するならば、「大人になった」と感じたのだ。
若き日の五郎丸は、どこか近寄りがたい存在だった。有り体に言えば、「何人(なんぴと)たりとも俺に近づくな」という雰囲気すら感じられた。正直にそう伝えたところ、「よく言われます」と笑顔で応じ、緊張感のあった取材の場を和ませてくれた。
「当時は『誰にも負けたくない』という気持ちが強かったです。大学1年の時は、『すれ違う奴ら、全員倒してやる』というラグビー場でのスタイルのまま、私生活も含めて過ごしていましたからね」
【早慶戦で不服そうな顔がテレビに】福岡県で生まれ、名門・佐賀工業高校でひたすらラグビーの腕を磨く日々を送っていた五郎丸にとって、初めての東京の地で、早稲田大学ラグビー蹴球部の先輩や大人たちと接するのには、相当な覚悟が必要だった。
「地方都市から出てきた僕にとって、東京はすべてがカルチャーショックでした。それでも自身のベースは九州で作ってもらったという自負があったので、早稲田では『弱いところを見せちゃダメだ』という意識がありました」
大学1年で早くもレギュラーの座をつかんだ五郎丸だったが、伝統の早慶戦でイエローカード。ピッチから10分間一時退出することになった。そのレフリングに納得できなかった五郎丸の不服そうな顔が、テレビカメラに抜かれた。
「それもあって『五郎丸はいつも、ふてくされている』と見られるようになったのかなと思います。ただ、そう思われるのがイヤだなと感じたことは、特になかったですね」
生意気な1年生──そんな「五郎丸歩像」が一部で勝手に作り上げられたというが、当の本人は歯牙(しが)にもかけなかった。
「アカクロ(早稲田大学ラグビー蹴球部のファーストジャージー)を着てピッチに立っていること自体が(ポジション争いを制した)何よりの証明なので、誰に何を言われようとも気にしなかったです。そんなことよりも4年生に『荒ぶる』(大学日本一に輝いた時のみ全員で歌うことが許される同部第2部歌)を歌ってもらって、送り出すことだけにフォーカスしていました。
まだあまり知識のない1年生だったので、四六時中、試合や練習のビデオを見ながら必死で練習についていく毎日でした。それでも自分には(アカクロとしての)責任があると考えていたので、周りからどう思われているのかを気にしている余裕はまったくなかったですね」
【マインドが変化した3年生での経験】筆者一個人の感覚にすぎないが、20歳で日本代表の初キャップを獲得した現在早稲田大4年生の矢崎由高も、どこか近寄りがたいオーラをまとっており、当時の五郎丸の姿と強くオーバーラップするものがある。
在学中から世界に通用するパフォーマンスを見せる日本代表フルバック──という共通点もあるが、そんな矢崎を五郎丸はどう見ているのか。「若い選手にあれこれ言いたくはないのですが......」と前置きしたうえで見解を示した。
「きっと(自分が当時そうだったように)不器用なんだろうなと思います。彼もまだ学生ですし、自分を高めることに注力している真っ最中だと思うんですよね。そして『日本のラグビー界を強くしたい』という思いも強いはずです。
成長して不器用な面が解消されていけば、今の僕みたいにオープンマインドになれるのではないでしょうか。ただ、学生に『大人になりなさい』と言うのはどうなのかなと思います。個性を消してしまうことになりかねないですからね」
実際、五郎丸も必死に研鑽して成長し続けた結果、強がりの一面は落ち着いていった。
「そういう部分は徐々に和らいできましたね。大学では3年で委員会(監督やキャプテンら執行部を支える委員の集まり)に入って、4年でバイスキャプテンになったのですが、それまで"自分フォーカス"だったものが"チームフォーカス"になっていきました。『立場が人を育てる』と言いますが、チームのことだけでなく、大学ラグビー全体のことも考えるようになってきました」
チームの要職である委員になった3年生時の経験も大きかったという。
「3年生で委員に入ると、4年生で何かしらの役職に就くことになります。4年生が最終学年でチームを動かす時に、『こういうマインドで取り組んでいるんだな』とか『組織を動かすってこういうことなんだな』といったことを学ばせてもらいました。
早稲田のラグビー部はかなり規模が大きいので、組織のことを真剣に考える必要があります。そうなったのは、3年生ぐらいからでしたね」
【4年生の先輩たちとよく喧嘩した】だが、チームを高みへと押し上げたいという五郎丸の強い思いは、時に上級生との軋轢(あつれき)を生んだ。
「すごく衝突しました。特に3年生の時は、当時4年生でのちにヤマハ発動機ジュビロでもチームメイトになる曽我部(佳憲)さんとぶつかっていました。4年の矢富(勇毅)さんが仲裁に入ったりして、よく喧嘩していましたね。
その原因は、だいたい『4年生のやり方は違うんじゃないか』みたいなことでした。実は『この人はこう思っているんだろう』という想像の世界で対立していたんですけどね。
当時は『荒ぶる』を歌うために各学年がグッと固まって、下級生も含めて全員が支え合っていくスタンスだったのですが、僕が3年生の時の4年生の代は、学年としてはまとまっているものの個が強かったので、『そんなことで本当に"荒ぶる"を目指せるのか』という疑問が湧いてきたんです。
圧倒的なトップだった清宮さん(五郎丸が2年生まで薫陶を受けた清宮克幸・元監督。現・日本ラグビーフットボール協会副会長)がちょうど代わられた直後で、中竹さん(3年生から指導を受けた中竹竜二・元監督)というまったく違う指導法とリーダー論をお持ちの方が入ってきたので、部全体が戸惑っていた時期でもありました。
そんなことも重なった影響で、夏合宿でも練習を取りやめて話し合いをする日が設けられたほど、とにかくよく衝突しましたね。それでものちのち、お互いの芯の部分を理解することはできました」
表層的には生意気で尖っていたように見えたかもしれない、若き日の五郎丸歩──。だが、その実像はただただ自身の成長と早稲田の勝利を追い求めていた「純真無垢なラグビーマン」だったのだ。
(つづく/文中敬称略)
◆五郎丸歩・中編>>大先輩のレジェンドに「大畑!下がれ!」と呼び捨て
【profile】
五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ)
1986年3月1日生まれ、福岡県福岡市出身。現役時代はフルバック。3歳でラグビーを始める。佐賀工業高では全国高校ラグビーに出場し、早稲田大では全国大学選手権を3度制覇。19歳で日本代表に初キャップ。通算57キャップ。トップリーグではヤマハ発動機ジュビロで5度のベストフィフティーン、3度の得点王に輝き、通算1282得点は歴代1位。2014年度は日本選手権初優勝に貢献。2015年ラグビーワールドカップに出場し、南アフリカ戦の歴史的勝利をはじめとする3勝の立役者となる。2021年の現役引退後は静岡ブルーレヴズのCROとしてクラブ経営に尽力し、現在は一般社団法人Future Innovation Labの共同発起人として地域振興などにも注力するなど、さまざまな活動を展開。
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