連載:一流アスリートもみんな最初は「ルーキー」だった
五郎丸歩インタビュー(中編)
◆五郎丸歩・前編>>私生活でも「すれ違う奴ら、全員倒してやる」
ラグビーの名門・早稲田大で「不動のフルバック」として名を馳せた五郎丸歩は、大学1年生で早くもレギュラーの座を射止め、自身初の大学日本一にも貢献した。それだけでなく、シーズン終了直後に日本代表に初招集され、19歳1カ月15日という若さでウルグアイとのテストマッチ(国代表同士による公式な国際試合)で初キャップを獲得する。
まさに、順風満帆を絵に描いたような代表デビュー。だが、日本代表として華々しいルーキーイヤーを飾ったかに見えた五郎丸の胸中は、思いのほか複雑だったという。
五郎丸歩氏は笑顔を見せながら思い出を語ってくれたphoto by Yuka Shiga
「19歳での代表入りは、もちろんうれしかったのですが、悪い意味で衝撃を受けました。1試合、1試合にかける熱量が早稲田とは違い、違和感を覚えていたんです。当時は勝つことがすべてだと思っていたので、日本代表のみんなが負けたあとにお酒を飲みながら談笑する文化は、僕としては断固として受け入れられなかったです。
負けたからといって全員がふさぎ込むのはよくない、と今では理解できますが、当時は『なんで勝てなかったのにみんなで酒を飲んでいるんだ』とか『なんでヘラヘラしているんだろう』と思っていました。周りからは、そういうところが尖って見えていたんだろうなと思いますが、当時はまったく納得いかなかったですね。
それよりも、早稲田にいる間にしか学べないことが絶対にあるし、代表は大学を卒業したあとでもチャレンジできる。その立場(代表)に再びなれる可能性は十分にあると思ったので、まずは(日本代表ではなく)大学に集中したいと考えるようになりました」
早稲田のラグビーとは異なる価値観に触れた2005年当時の五郎丸にとって、日本代表での活動経験はむしろ、大学での競技生活に専念することを促すことになった。2015年ラグビーワールドカップのちょうど10年前に当たる年に「桜のジャージーにコミットしない人生」を選択したことになるが、五郎丸のその後の活躍と成功を考えれば、ポジティブな決意だったと言えるだろう。
【大人と一緒にいるのが恥ずかしい】しかしながら当時の五郎丸にとって、元木由記雄や大畑大介といった世界的な実績のある代表選手たちとの交流は、新鮮な経験となった。
「元木さんも大畑さんも、ほかのみなさんも優しかったです。元木さんは僕が(空港での)ロストバゲージで荷物がなかった時に、スパイクを貸してくれました。
本当によくしていただいたのですが、19歳の当時はそういう選手たちとの接し方がわかりませんでした。大人と一緒にいるのが恥ずかしいというか、表現方法がわからなかったんです。今でこそ大学生が代表に入ることもよくありますが、当時はあまりなかったので、初めての経験に戸惑っていました」
テストマッチ通算69トライという世界最多記録を今なお保持しており、のちにワールドラグビー殿堂入りを果たすことになる大畑とは当時、こんなエピソードがあった。
「大畑さんから『試合では先輩も後輩も関係ない。だから俺のことは呼び捨てにしてええよ』と言われたんです。それを真に受けた僕は、秩父宮ラグビー場での試合中に『大畑!下がれ!』と大声で指示したんです。最後尾から大畑さんのポジショニングを見て、もうちょっと下がってほしいと思ってそう言ったのですが......。
その瞬間、みんな『え?』となりました。スタンドからも『おお〜!』というどよめきが起きたのを覚えています。今、振り返ると本当にバカだったなと思いますが、当時は純粋といえば純粋だったんだと思います」
大先輩のレジェンドを呼び捨てにした19歳に、またしても「生意気」というイメージがつきかねない出来事だったが、五郎丸は経験を積み重ねることの重要性を強調する。
「当時は人との付き合い方がわからない僕でしたが、すべては経験だと思っています。こうしてメディアの方々とお話しする時もそうですが、そういう経験を積んで今のように言葉にすることによって、自分の頭のなかが整理されクリアになっていくのを実感するようになりました」
成功も失敗も、前述のような「バカだった」と回想するエピソードも、すべてが成長の糧(かて)になる。若き日の五郎丸は貴重な経験を積み重ね、ラグビープレーヤーとしても人間としてもぐんぐん成長していった。
【大学ラグビー界のスターもスキル不足】早稲田大学1年時、2年時に続いて、バイスキャプテンを務めた最終学年の4年時でも全国大学選手権優勝を果たすことができた。涙しながら高らかに「荒ぶる」(大学日本一に輝いた時のみ歌うことが許される同部第二部歌)を歌い上げた五郎丸は、トップリーグのヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)に加入する。
社会人としてのルーキーイヤーは、どんなシーズンだったのか。
「日本代表で木曽一さんや山村亮さんと一緒にやったことが、『ヤマハ発動機に行きたいな』と思う動機のひとつになりました。まだ優勝したことのないチームで自分自身も高めていきたい、という思いでヤマハを選んで入ったのです。
ですが、大学4年間で出しきった感覚があり、ヤマハ発動機での1年目は気持ちと体のバランスが崩れていました。技術を高めるのが先なのに、気持ち先行で試合に出たことで相手を止めるために自然と足が出たり、イエローカードを出されたこともあったりして、相応のスキルが伴っていませんでした」
大学ラグビー界のスターでも、ハイレベルなトップリーグではスキル不足を感じざるを得なかった。ヤマハ発動機ジュビロは思うような結果を残せず、年々順位を落としていき、自身3シーズン目のトップリーグ2010-2011はついに入替戦にまわることになる。九州電力キューデンヴォルテクスに辛勝(12-10)して下部リーグへの降格は回避したが、まさに薄氷のトップリーグ残留となった。
「リーマンショックで一時は会社の経営が傾き(2009年)、当初はラグビー部が廃部になる方針でした。しかし、就任した新社長(2010年3月に社長に昇格した柳弘之氏)が一転して『ラグビー部を存続させる』と決断してくださった。それを受けて僕自身も、『可能性を持ったチームで初優勝したい』という加入当時の思いを胸に刻み、ヤマハ発動機でプレーを続けました。
入替戦まで行ったものの残留することができ、翌シーズンに(早稲田大1・2年時に薫陶を受けた)清宮克幸さんが指揮をとるところから、ヤマハ発動機の新たなストーリーが始まっていきます。2014年度に日本選手権で初優勝を成し遂げることができたのは、本当に大きな経験でした」
【社会人としても見違えるような成長】社会人として学んだ点にも、五郎丸は触れる。
「練習はもちろんハードでしたが、会社の業績が回復しても(プロ選手ではなく)社員のまま続けさせていただきました。バイトをしたことがなく、社会経験のなかった僕にとって、大企業のなかで役割をいただきながら仕事をすることは、『社会を教えていただいた』という意味でもかけがえのない経験となりました」
ヤマハ発動機ジュビロで心身のバランスを崩したルーキーイヤーを経て、廃部の可能性や入替戦といった度重なる危機を乗り越え、ついには日本選手権初優勝を成し遂げた。それは、大学日本一とはまた意味合いの異なる、大きなターニングポイントとなった。
同時に五郎丸は、社会人としても見違えるような成長を遂げた。そして2015年、彼の運命を大きく変えたワールドカップイヤーを迎えることになる。
(つづく/文中敬称略)
◆五郎丸歩・後編>>心がラクになったキッカケは「イチローさんのルーティン」
【profile】
五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ)
1986年3月1日生まれ、福岡県福岡市出身。現役時代はフルバック。3歳でラグビーを始める。佐賀工業高では全国高校ラグビーに出場し、早稲田大では全国大学選手権を3度制覇。19歳で日本代表に初キャップ。通算57キャップ。トップリーグではヤマハ発動機ジュビロで5度のベストフィフティーン、3度の得点王に輝き、通算1282得点は歴代1位。2014年度は日本選手権初優勝に貢献。2015年ラグビーワールドカップに出場し、南アフリカ戦の歴史的勝利をはじめとする3勝の立役者となる。2021年の現役引退後は静岡ブルーレヴズのCROとしてクラブ経営に尽力し、現在は一般社団法人Future Innovation Labの共同発起人として地域振興などにも注力するなど、さまざまな活動を展開。
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