【プロ野球】「肩は消耗品だ」 半世紀前に投手酷使へ警鐘を鳴らした近藤貞雄明治大進学の鈴木孝政を獲得した伝説の説得術

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【プロ野球】「肩は消耗品だ」 半世紀前に投手酷使へ警鐘を鳴らした近藤貞雄明治大進学の鈴木孝政を獲得した伝説の説得術

6月19日(金) 9:30

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野球の未来を見ていた男〜近藤貞雄伝

証言者・鈴木孝政(前編)

1972年、近藤貞雄はヘッド兼投手コーチとして中日に復帰した。この年、ヘッドから監督に昇格したウォーリー与那嶺からの要請だった。同じ1925年生まれのふたりは旧知の間柄で、近藤が最初に中日投手コーチを務めていた1961年、与那嶺が巨人から移籍してきた。

ハワイ出身で日系二世の与那嶺は俊足強打の外野手。1951年に来日すると巨人では首位打者3回、ベストナイン7回などの実績を残したが、成績が急下降した1960年のオフ、新監督・川上哲治に構想外とされ解雇。現役続行を求めて移籍したのが中日だった。

1962年限りで現役引退後、中日、ロッテで打撃コーチを務めた与那嶺は、両球団で投手コーチの近藤と一緒に戦う縁があった。それだけに、中日監督となって声をかけるのは自然な流れだったようで、自著『野球を変えた男』(ベースボール・マガジン社)でこう述べている。

<ピッチングは近藤コーチに全部まかせて、ぼく、口を出さなかった。彼は"近藤方式"という独特の分業システムを編み出した。先発、中継ぎ、抑えと一試合に三人のピッチャーを投入する方式ね。いまでは、どのチームもやっている分業システムは、近藤コーチが初めてやったことだった>

独特の方式を認める監督がいて、投手分業制は実行された。そこには当然、リリーフも厭わない投手が必要だったわけだが、近藤がコーチに就任した1972年は、星野仙一が救援のみで48登板。20勝を挙げた稲葉光雄が中心の先発陣を支えた。同年、中日が3位になると、マスコミは<独特の分業システムの投手起用>が要因と評し、近藤を<Aクラス入りの立て役者>と称えた。

さらに同年、1972年11月のドラフト会議。分業システムの本格化につながる投手が1位で指名される。千葉・成東高の鈴木孝政。この快速球右腕はいかにしてシステムに組み込まれたのか。ドラゴンズ一筋17年間で、通算124勝96セーブを挙げた鈴木に聞く。

交渉が成立し、中日入団が決まった鈴木孝政氏(中央)と当時ヘッドコーチの近藤貞雄氏(左端)とスカウト陣たちphoto by Sankei Visual

交渉が成立し、中日入団が決まった鈴木孝政氏(中央)と当時ヘッドコーチの近藤貞雄氏(左端)とスカウト陣たちphoto by Sankei Visual





【鈴木孝政を射止めた"近藤流スカウト術"】「そもそも、近藤さんは僕をプロに引っ張ってくれた人ですからね。甲子園も行ってない、名前も知られてない奴を、ドラフトで2番目に指名してくれて。もう明治大に決まってたんですけど、近藤さんが千葉の家まで来て、親父を説得して」

1972年のドラフトは<指名する順位の抽選>から始まり、中日は指名順位2番目になった。球団の方針は、高校生なら目玉の"ジャンボ仲根"を1位で獲ること。同年のセンバツ優勝投手で身長193センチの大型右腕、日大櫻丘高の仲根正広である。指名順位1番目の大洋(現・DeNA)は法政大の強打者、長崎慶一を指名したから、中日が仲根の交渉権を得られるはずだった。

ところが「2番目」、近藤が独断で鈴木を指名した。本来コーチは会議に出ないが、ハワイに帰郷中の与那嶺の代理で近藤が出席していた。翻意した理由は、スカウトからの報告。「仲根は投手として大成できなくても、体格的に打者として期待できる」との言葉に疑問を感じ、駒不足の投手陣に必要なのは「とにかくボールが速い」逸材と考え、指名に踏みきった。

「3回目の交渉で近藤さんが来たんですけど、まず成東高校へ来て。投げている姿を見るってことで。もう野球部は引退していたんですが、近藤さんのために投げました。トレンチコートを着て、サングラスして、マフィアみたいな(笑)。僕は知らないですから、近藤さんがどういう人か。いや、ふつうじゃなかったです」

ピッチングの披露を終え、帰宅したその日の夜。近藤をはじめ中日球団関係者と新聞各社が、黒塗りのハイヤー7台でやって来た。鈴木家は父と兄のほか親戚も集まり、成東高監督の松戸健も同席した。

「襖を全部外してね。交渉というより、まるで宴会ですよ。親父なんてすっかり浮かれちゃってね。近藤さんがずっとしゃべっているんです。もちろんスカウトの方もいましたけど、話すのは近藤さんひとり。最初に『君を気に入ったから指名させてもらいました』と言って、そのあと延々とプロの厳しさについて話すんですよ。『練習しなければクビになる』とかね。みんな、ただうなずいて聞いているだけ。

そうかと思えば、今度はプロ野球界を持ち上げたり、逆に厳しく批判したりする。その話術が本当にうまい。話し上手というか、わかりやすいというか、とにかく思ったことをはっきり言う人なんです、近藤さんは。それですっかり親父が心をつかまれてしまった。『わかりました。ドラゴンズさんにお世話になります』って、一発で決まっちゃったんです。『えっ?ドラゴンズに行くのは親父じゃなくて、オレなんだけどな......』と思いながら聞いていましたよ(笑)」

【教わったのはクイックと牽制だけ】契約の日取りを調整するなど、近藤はスカウトの仕事まで自らこなし、一気に入団まで話を進めた。鈴木はドラフト前、マスコミに対して「在京球団からの指名ならプロ入り、それ以外なら明治大進学」という条件を示していたが、まさに近藤に引っ張られる形でドラゴンズ入りを決めた。いざドラゴンズの一員となった鈴木は、キャンプで近藤からどのような指導を受けたのか。

「技術的なことは、あまり細かく言われなかったですね。フォームもまったくいじられなかった。どんな形でも、キャッチャーミットに収まるボールがよければいいんだ、という考えの人でした。だから教わったのは、クイックと牽制だけです」

ドラフト順位に関係なく、高校出の新人投手はフォームをいじらない──。そんな方針が近藤のもとで徹底されていたようだ。しかし、鈴木が驚いたのはそのことだけではない。入団後、チーム内で徹底されていた別の"統一事項"にも衝撃を受けたという。

「ブルペンで近藤さんに『何球だ?』って聞かれて、キャッチャーが『110球です』って答えた。そしたら『やめろ!』って言われて。『え?』って、びっくりしました。僕は高校の時から調子が出てくるのは100球ぐらいからで、一番いい感じの時でしたから。『そんなぁ......』って」

近藤はかねてから、練習での過度の投げ込み、試合での投球過多を否定。1972年の秋季練習では主力投手に1球も投げさせなかったうえに、「来年のキャンプインまで絶対に投げるな」と指示していた。疲労を取り除くための措置で、大半の投手に歓迎されたなか、投げないと「ほかのチームのピッチャーよりゲーム勘が鈍る」と不安がるベテランもいた。

【アメリカで学んだ投手を壊さない指導法】「その時も同じです。ベテランの人も球数を制限されて。たしか、頼んでいた人もいたんじゃないかな。『これじゃあ練習にならない』って。僕も物足りなかったです、ブルペンは。そしたら、『近藤さんの考えは、肩は消耗品だ』って、周りの人から伝わってきて。そんな言葉聞いたこともないし、『なんですか?』って聞いたら、『近藤さんはアメリカで勉強してきたんだ』と」

1966年秋、前回の中日コーチ時代。近藤は与那嶺とともに渡米し、若手が参加する米フロリダ教育リーグを視察した。その際、ツインズ投手コーチのジョニー・セインから「投手の肩は消耗品」と教えられ納得。日本流の投げ込みや酷使が確実に投手寿命を縮めると確信し、指導に生かしていた。

その指導に戸惑いを感じつつも、キャンプから順調に過ごした鈴木は、18歳にして4月にリリーフで一軍デビュー。ただ登板は1試合だけで、以降は二軍戦に先発で投げていたなか、6月後半に右肩痛を発症。ノースローでランニングの毎日が延々と続いた。それでも、翌1974年1月に完治すると、5月から一軍戦力となった。

「近藤さんで忘れられないのは、その年の巨人戦で長嶋(茂雄)さんにホームランを打たれたあとのこと。ベンチ裏でこんこんと言われてね。『なんでカーブ投げたんだ』って。それで終わりだと思ったら、宿舎に戻って、耳を引っ張られて部屋まで連れて行かれて......。なんで耳を引っ張ったのか。びっくりしましたよ。今そんなことやったら大変ですけど、あの感触は覚えています。

それで近藤さんの部屋に行ったら、『速い真っすぐがあるのに。真っすぐを投げて打たれたなら仕方ない』っていう話で。長嶋さんというか、大ベテランにカーブを打たれたのが許せないんですね。逆鱗に触れてしまいました。僕はずーっと正座で聞きながら、腹ん中では、『キャッチャーが......』と思ってたんですけどね」

(文中敬称略)

つづく>>

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