東京・新宿の東急歌舞伎町タワー内で営業する映画館「109シネマズプレミアム新宿」の開業3周年を記念するスペシャルファンミーティングが6月6日に開催され、同館の廣野雄亮総支配人と、坂本氏が信頼を寄せたサウンドエンジニアの1人である株式会社イースタンサウンドファクトリーの佐藤博康氏が登壇。世界的音楽家、故坂本龍一氏が監修した音響システム「SAION -SR EDITION-」の誕生秘話や技術的な裏側が明かされた。
この日のイベントは、同館のファンであるシネマポイント会員を中心に招待。イベント応募時にも、映画館の機材についての質問を寄せる熱心なファンが多かったとのことで、劇場内は開場後から早くも熱気あふれる空間となっていた。
■なぜ「109シネマズプレミアム新宿」を坂本龍一氏が監修することに?
イベントはまず坂本氏監修による「SAION -SR EDITION-」の誕生秘話からスタート。もともと東急歌舞伎町タワーのあった場所には、東急レクリエーションが手がける映画館・新宿ミラノ座が営業していたが、1956年の開業以来、58年にわたって多くの映画ファンに愛された新宿ミラノ座は、2014年12月31日に惜しまれながらも閉館。ちなみにこの日も半数以上の観客が新宿ミラノ座を訪れたことがある、とのことだった。
そんな多くの映画ファンに愛された新宿ミラノ座の跡地となれば、東急レクリエーションにとっても極めて重要な場所となる。それゆえ「ここに必ず特別な映画館をつくりたい」という強い思いをもとに、映像、座席、空間、そして音響のすべてにこだわった最高峰の映画館の開発がスタートするのは必然であった。
だが「最高峰の映画館」を目指すためには、トップレベルの専門家からのアドバイスは欠かせない。そこで白羽の矢が立ったのが、世界的音楽家であり、新宿の映画館に通いつめていたと語るほどに、映画文化に対する深い愛情を持つ坂本龍一氏であった。
運営サイドが坂本氏に依頼のメールを送ったのは2020年10月、コロナ禍の真っただ中であった。人々が不要不急の外出を控える中、エンターテインメント業界がかつてない苦境に立たされていた時期である。そんな時に送った「決して映画館は不要なものではない。必ずコロナに打ち勝って、この映画館を映画文化・エンターテインメント復興の象徴にしたい。シネマの文化を守るためにお力を貸していただきたい」という熱意あふれるメッセージに、坂本氏本人からは「私に何ができるか分からないですが、ぜひ協力できれば」と前向きな返信が。こうして同館のプロジェクトが本格的に動き出すこととなった。
■コンセプトは「曇りのない正確な音」…坂本龍一氏がもたらしたものとは?
そして翌月には坂本氏を交えたオンラインミーティングが行われ、目指すべき音の方向性が「曇りのない正確な音」であることが確認された。そしてそのためには、スピーカーだけでなく、スピーカーをつなぐケーブルやパワーアンプなど、すべての構成要素で最高峰のものがそろうことが必要不可欠となる、ということも告げられた。そうした助言を受けて、安定した電力を供給するための電力設備も見直すこととなった。
さらにスピーカーケーブルについては、坂本氏が「地雷ゼロプロジェクト」や最晩年に制作した「Krugのための組曲」など、折々の東京でのレコーディングの際は指定して長年利用し、高く評価していた東急Bunkamuraスタジオの中に、候補となるケーブルを複数持ち込み、徹底的な聞き比べのテストを行った。その結果をもとに一番優れているケーブルを選定し、その上でさらに電力を伝えられるよう1からカスタム。映画館のためにオリジナルケーブルをつくって導入するというのも、同館のこだわりのひとつである。
また、静寂な空間を実現するために、通常の映画館よりもかなり分厚い吸音材を大量に配置し、無駄な反響を徹底的に抑え込んでいるのだとか。一般的なシネコンとは一線を画した、まるで別世界にいるかのような空間をつくり上げているのにはそうした秘密もあるようだ。
さらに坂本氏は「いい音響システムをつくることも大事だが、それを聞く側の“耳の状態”も同じくらい大事」と力説していたとのことで、ノイズの多い歌舞伎町の喧騒を通り抜けて劇場にやってきた客を出迎えるために、映画を見る前に“耳を整える”場所をつくるべきである、という提案を行ったのだとか。「109シネマズプレミアム新宿」のラウンジに足を踏み入れると、世界有数の歓楽街で営業する映画館とは思えないほどの静かで落ち着いた空間が広がっている。
もともとは、観客が映画を鑑賞する前の“耳を整える”空間として、「完全無音室」をつくったらどうだろうか、というのが坂本氏のアイデアだったが、それは建設スケジュールの都合上、実現はかなわなかった。だが代替案として、ラウンジ空間で坂本氏の楽曲を流し、いったん観客の耳をリセットしてもらうのはどうだろうか、というアイデアが浮上した。それに合わせて、開演を知らせるチャイム音や、本編上映前のロゴ映像の音なども合わせて坂本氏にお願いできないかということとなったが、だが当時の坂本氏は新たなガンがみつかり、非常に過酷な闘病生活を送っていた時期。運営側としても強い葛藤の中での依頼だったが、坂本氏は楽曲の提供を快く引き受けてくれたという。そして2022年12月末には坂本氏からラウンジに流すための3つの楽曲が届いた。劇場の空間と見事にマッチするその音色にスタッフ一同、深い感銘を受けたという。
体調が不安定な状況下でも坂本氏は「109シネマズプレミアム新宿」の音響システムに常に多大なる関心を持ち続け、現地のサウンドチェックを行う際には、アンドレイ・タルコフスキー監督の「鏡」や「惑星ソラリス」の1シーン、そして自身が手がけた「シェルタリング・スカイ」の1シーンを再生してみたい、というリクエストを寄せていたという。そこでこの日のイベントでは、これらの作品のサウンドトラックの楽曲を劇場で再生するという試みも。坂本氏が見据えていた劇場の音響設計の一端に触れた観客も、そのクリアで澄みきった同館の音響の魅力を再発見しているようだった。
坂本氏自身、現地で立ち会いたいという強い思いから、何度も同館へ訪問するためのスケジュールを調整し続けていたというが、その都度、体調不良に見舞われ、最期まで訪問はかなわなかった。その後、2023年4月14日に同館は無事にオープンする運びとなったが、廣野総支配人も「本当に大変な状況で引き受けてくださったということで、われわれも心の底からの感謝の気持ちと、最後まで自分のお仕事に全力を尽くされたということの畏怖の念のような気持ちが湧いてきました」とあらためて坂本氏への思いを強くしているようだった。
■109シネマズプレミアム新宿のスペック、そのこだわりとは?
イベントの後半では、坂本氏が信頼を寄せたサウンドエンジニアの1人であり、本館の音響設計の実務を担った株式会社イースタンサウンドファクトリーの佐藤博康氏が登壇。「曇りのない正確な音」というスローガンのもと、どのようにして音響設計を行ったのか、専門家の視点から「SAION -SR EDITION-」の秘密を解き明かした。
坂本氏からの要望として、「ルームアコースティクス(劇場内の響き)」「パワー(必要不可欠な電力の確保と美しい波形)」「ワイヤリング(ケーブル)」という3点があったと説明する佐藤氏。スクリーン裏にはBWVのカスタムメイドスピーカーが設置され、サブウーファーは「バンドパス」と「バックロードホーン」という複雑な方式を組み合わせることで、人間が感じ取ることのできる周波数の限界である20Hzの音域を音圧を落とさずに再生することが可能となった。また、壁面に設置されたサラウンドスピーカーには8個のツィーター(高音を鳴らすスピーカーユニット)を縦に配置するアレイ設計が採用されており、20kHzを超える超音波帯域まで再生することができるスペックを誇る。
そして増幅感が非常に自然で、情報量が細かく出てくる上に、パワーも申し分ない、という特性を持つ英国Linea Research社製のパワーアンプを日本で初めて導入。さらにケーブルに関しては、基本的には太ければ太いほど良いと言われている世界だが、あまりにも太すぎると取り扱いが難しい。そこでオリジナルで開発したケーブルは、アメリカ規格の「13 AWG」というオーソドックスな太さでありながら、1芯あたり最大80本の銅線を入れ込むことで、圧倒的な電流の伝送を実現したものがつくられた。
しかし、これだけの完璧な機材がそろったにもかかわらず、佐藤氏はすぐにはチューニングに取り掛かることができなかったという。「曇りのない正確な音」を出し、坂本氏が理想としていた「スピーカーの存在が消えた状態の音」を作り出すためにはどうすればいいのか、それが解明できるまでは、その一歩先に踏み出すことができなかったというのだ。さいわいなことに、このプロジェクトは納期に追われるという類いのものではなかったため、じっくりと考え、思い悩む日々が続いていたという。
そんな折、佐藤氏は、坂本氏が療養の為に滞在していた仮住まいのアパートにあったオーディオ機器の修理を依頼され、アパートを訪問する機会を得た。その時、佐藤氏が偶然旅先で耳にし、感銘を受けた水琴窟の音源を坂本氏に紹介したそう。その後、部屋の床に夏目漱石の全集があるのに気づいた佐藤氏がおすすめを尋ねると、坂本氏は即座に「夢十夜」と答えたという。
そこでさっそく「夢十夜」を読んだ佐藤氏は、その世界観に触れたこと、そして坂本氏と最後に聞いた水琴窟の音色と相まって、それまで閉ざされていたものが一気に広がっていくような感覚を覚えたと語る。そしてそこから坂本氏が手がける「アウト・オブ・ノイズ」や「async」といったアルバムとのつながりを見いだし、チューニングのテーマを「曖昧な正確」とすることとした。佐藤氏は「正確なものはつくれるが、それを曖昧にぼかしていく作業」こそが、スピーカーの存在を消す鍵だと確信し、チューニングの指針とした。
実際のチューニング作業には、坂本氏が作曲を担当した映画「レヴェナント蘇えりし者」のサウンドトラックから「チャーチドリーム」、坂本氏のBlu-ray作品「async surround」収録の「tri」「andata」、デヴィッド・ボウイの「Five Years」、そして坂本氏が敬愛するグレン・グールドによるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリアなどが使用された。特に「tri」を使った調整では、3音あるトライアングルの中の、3音目の音が「頭の上から降ってくる」ような感覚を得られることが調整作業の目標点となった。
そしてその感覚を実際に観客と共有するべく、この日は実際に「tri」をスクリーンで上映。実は会場となったスクリーン7は、劇場の設計上、天井にスピーカーは設置されていなかったが、それにもかかわらず、3音目のトライアングルの音がまるで天から降りそそいだかのように会場に響き渡り、観客もその音色の違いを肌で感じ取っていたようだった。
さらに佐藤氏は、株式会社ジーベックスと開発した「SSRE(SAION Super Real Effect)」という技術についても解説。これは通常の2チャンネルステレオの音声に、残響音を足すことで、吸音が発達した映画館でも、ライブ会場のような圧倒的な残響感を生み出すシステムのこと。その音響を実際に体験してもらうために、この日は故・高橋幸宏氏のライブ映像「YUKIHIRO TAKAHASHI LIVE 2018 SARAVAH SARAVAH!」より「SARAVAH!」を参考上映。その臨場感あふれるライブサウンドに観客は酔いしれた。くしくもこの日(6月6日)は坂本氏の盟友だった高橋氏の誕生日で、さらに映像には細野晴臣氏の姿も映し出されるなど、坂本氏をめぐる縁が時を超えて会場に呼応するかのような幸せな瞬間となった。
■坂本氏の精神を受け継ぐために毎日メンテナンス
イベントの終盤には、参加者から事前に寄せられた質問に答えるコーナーも。音響クオリティーの維持について質問された廣野総支配人は、毎朝営業を開始する前に社員が全シアターで入念な音のチェックを行っていること、さらには定期的に佐藤氏やジーベックス社による点検を実施し、初期の調整状態が保たれるよう徹底した品質管理を行っていることを明かした。また、音量調整は公開される作品ごとに個別に行われており、特に開業当初の1年間は佐藤氏と共に最適なレベルを探りながら、スタッフ間でその感覚を共有する体制を綿密に築き上げていったことを明かした。
また「他の映画館と比べて音が大きすぎないのに迫力があり、クリアで聞きやすいのはなぜか」という質問に対して佐藤氏は「もちろん機材のスペックもかなりいいものを入れていますし、先ほどの“耳を整える”ということも含めた劇場のこだわりもすごい。でも1番大きいのはやはり坂本龍一が守護神のように後ろにいること、これがすべてだと思います。僕たちとしては、もちろん109シネマズプレミアム新宿のためにやっている仕事ということではあるのですが、一番は坂本龍一さんが僕たちのシステムを聞くんだ、という気持ちでチューニングをしています。彼の存在がここを唯一無二にものにしている。それは間違いないと思います」と力強くコメントした。
この日のファンミーティングは盛況のうちに終了の時間となったが、多くの観客が劇場を退場する際に、廣野支配人たちに感謝と激励のコメントを寄せるなど、終始温かな空気に包まれたイベントとなった。(取材・文・写真/壬生智裕)
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