関節技の鬼藤原喜明のプロレス人生(21)
(連載20:「藤原組がSWSに入ると印象が悪くなる」新団体設立と不穏な船出>>)
プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。
そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第21回は、藤原組の解散危機について語った。
カール・ゴッチの指導を受けるなど、成長を続けていた藤原組だったが......photo by 東京スポーツ/アフロ
【すれ違った藤原と所属選手の思い】1991年3月4日に旗揚げ戦を行なった藤原組だったが、SWSへの参戦など、リング内外で藤原と所属選手の間で溝が生まれていた。
藤原は、SWSのオーナーだったメガネスーパーのオーナー・田中八郎からの支援を受け、初めて団体の社長に就任し、経営者として責任を負った。社長としての日々については、「俺の人生のなかであれが一番いい勉強になった。人にもだまされたし、いろいろあったよ」と苦笑いで振り返る。そして選手との確執は否定せず、自らの団体経営にかけた思いを明かした。
「俺はボスとして、ちょっとでも選手たちにいい生活をしてほしいと思って、精いっぱいのお金を出したよ。だけど、一生懸命やっているうちに、アイツらにとってはそれが当然になるんだな。俺は、会社を軌道に乗せようとテレビとかいろんなもんに出て、芸能活動のギャラを選手のギャラにあててたんだよ。
夜には、チケットを売るためにいろんな人に会った。嫌いな人でも頭を下げていたんだ。でも、『藤原だけ、いい思いをしている』とか、不満を持つヤツがいてな......俺の思いがわからなかったんだな」
それでも団体は、旗揚げから4カ月後の1991年7月26日に、千葉・舞浜の東京ベイNKホールという大会場での興行を開催。旗揚げ1周年となる翌年4月19日には東京体育館で、船木誠勝がプロボクシング4階級制覇の世界王者ロベルト・デュラン(パナマ)との異種格闘技戦(3分10ラウンド)に勝利するなど、注目度の高いマッチメイクも提供した。
【オーナーに「ギャラを下げてください」】この2年目に入る頃、オーナーの田中が藤原にある提案をしたという。
「次の年の契約更改の時に、田中さんがとんでもなく条件を上げてギャラを出すって言ったんだよ。とんでもない額のギャラアップだったな。だけど、俺は田中さんに言ったんだ。『社長、ちょっと待ってください。こんなギャラはやめてください。逆にその半分でいいです』ってな。
それは、選手がみんな"その気"になっちまうからだよ。ただでさえ、1カ月に1試合しかやらねぇのになんだかんだ文句を言って、自分らが偉くなったような気になってたからな。だから、俺はそんなヤツらのギャラを上げちまったら、さらに勘違いするって思ったんだ。
逆に田中さんには、『その代わり、一年でも長くスポンサーでいてください』ってお願いしたよ。メガネスーパーの本業はもちろんメガネの販売だからな。万が一、本業の経営が不振になったら、真っ先に切られるのは俺たちなんだよ。だから、全員ギャラは半分で、長い支援をお願いしたんだ。
田中さんは驚いてたな。上げるっていうギャラを、下げてくださいって言われることなんてあり得ないからな。それで『お前もか?』って聞かれたから、『もちろんです』と答えたよ」
その年の6月18日、レフェリーと外国人招聘を担当していた空中正三(ミスター空中)が、脳腫瘍で49歳の若さで亡くなった。その深い悲しみと、さまざまな問題をはらみながらも、藤原組は10月4日に東京ドームに初進出する。
4万800人(主催者発表)の観衆を集めた大会のメインイベントは、船木とキックボクサーのモーリス・スミス(米国)との異種格闘技戦(3分5ラウンド)。試合は、フルラウンドで決着がつかずノーコンテストと裁定された。一方の藤原は、身長210cmのアームレスリング欧州王者、ツハダゼ・ザオール(ジョージア)と対戦し、アキレス腱固めで快勝した。
その東京ドーム大会が、藤原組にとって頂点だった。
【船木らの退団でふたりになった藤原組】ドームから2カ月後の12月だった。藤原と団体の方向性に決定的な亀裂が生じ、船木、鈴木みのる、冨宅祐輔(現・飛駈)、高橋和生(現・義生)、柳澤龍志が退団した。最後の話し合いを、藤原はこう振り返る。
「あんまり覚えてないけどな......アイツらが『辞めます』って言った感じだったかな。それで、道場のロッカーを全部引き上げたんだ」
船木ら主力選手の退団で、所属選手は藤原とデビュー1年目の石川雄規のふたりになった。団体存続の危機を避けるために、船木たちを引き留めることはしなかったのだろうか?
「引き止めるわけねぇだろ。俺は、ホッとしたな。さっきも言ったけど、俺は団体をよくしてやろうと思って身銭をバンバン切ってるのに、態度だけデカくなって、『こいつらに投資してもダメだ』って思ったからな」
藤原が団体の経営者になったことで、道場で練習に参加する回数が減ったことも亀裂の一因とも指摘された。
「俺はな、東京ドームの大会で、ひとりでチケットを1000万円分くらい売ったんだよ。練習なんかできるわけない。俺の一番嫌いな営業をやってな、頭下げて手売りしたんだよ。練習よりそっちのほうが100倍も200倍も苦痛だよ。一生懸命売ってんのに、『組長は練習に来ない』って陰口言うなんて、ふざけんな!って話だよ」
試合のスタイルも、選手と藤原の間で方向性の違いがあったという。
「俺らがやっているのは格闘技なんだよ。だいたい、道場で俺に勝てないヤツが試合で勝てるわけねぇだろ。だけど、俺はスパーリングやると『強くなったな』って持ち上げてやってたんだ。それを、すぐその気になって勘違いしたんだな」
ふたりだけになった藤原組は、年が明けた1993年1月16日、後楽園ホールで大会を開催した。だが、船木、鈴木らの退団で事前に対戦相手が決まらない異常事態での興行になった。
ファンは、この大会が藤原組にとって最後の大会になると思い込み、会場には主催者発表で超満員1969人が詰めかけた。入場式で藤原は、選手の退団を「すべて私ひとりの責任であります」とファンに謝罪した。そして第一試合でケン・シャムロック(米国)と対戦。さらにメインイベントでは、石川と一騎打ちを演じた。
ファンもマスコミも関係者も、「これで藤原組は解散」と思っていたが、藤原は違っていた。
「ファンが終わりだと思っていたから、俺もそんなようなことを言ったけどな。内心は『そうはいくかい!』って思ってたよ」
その言葉通り藤原組は存続する。そして、新たな闘いに打って出た。そのリングは、"ふるさと"とも言える新日本プロレスだった。
(敬称略)
つづく
【プロフィール】
藤原喜明(ふじわら・よしあき)
1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。
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