フランスで開催されていた第79回カンヌ国際映画祭で、ナ・ホンジン監督の『HOPE(英題)』が初上映され、大きな話題となった。17日の夜に行われたワールドプレミアでは、約2300席を埋めた観客が、文字通り息をのんでスクリーンを見つめていた。ナ・ホンジン監督の9年ぶりの新作『HOPE』の衝撃――それは、カンヌが久しく経験していなかった「映画の祭典」本来の熱狂を取り戻したかのようだった。
【写真を見る】第79回カンヌ国際映画祭に参加した『HOPE』ナ・ホンジン監督とキャスト陣
ナ・ホンジンとカンヌの縁は長い。長編デビュー作『チェイサー』(08)がミッドナイト・スクリーニングで上映され、2作目『哀しき獣』(11)はある視点部門に出品。3作目『哭声/コクソン』(16)はアウト・オブ・コンペティション部門での上映だった。4作すべてがカンヌで上映されながら、コンペティション部門参加は初となる。
今年の審査委員長を務めるのは、韓国映画界の先輩であり世界的巨匠のパク・チャヌク。話題性だけではなく、映画のジャンルとして様々な議論を呼んでいる『HOPE』と審査委員長の組み合わせは、上映前からある「歴史的な文脈」を呼び起こしていた。
2004年の第57回カンヌ国際映画祭。審査委員長を務めたクエンティン・タランティーノは、パク・チャヌク監督の『オールドボーイ』(03)を激賞し、パルムドールに次ぐグランプリを授与。「本当はパルムドールをあげたかった」という名言を残した。この年のパルムドールはマイケル・ムーア監督の『華氏911』(04)が受賞しており、激しい暴力描写と衝撃的なラストから賛否が大きく分かれた『オールドボーイ』が最高賞に届かなかった背景には審査の難しさもあったとされる。それでもジャンル映画としての評価とカンヌという権威ある舞台のあいだで、グランプリ受賞は異例の輝きを放ち、パク・チャヌク監督の才能が世界に知れ渡るきっかけとなった。
そして今年、『HOPE』が同じ地点に立っている。クリーチャーが登場するジャンル映画、息もつかせぬアクション映画ともとれる本作への評価は劇場を出た批評家や観客のあいだでも割れており、審査委員長のパク・チャヌク作品がかつて直面したように、審査員団は「ジャンル映画をカンヌで正面から評価する」という選択をするかどうか。5月23日の授賞式に向けて、その話題は映画祭全体に広がっていた。結果的には『HOPE』は受賞には至らなかったものの、映画祭会期12日間において、人々の間で最も語られた作品であったことは間違いない。
物語の舞台は1980年代、韓国と北朝鮮を隔てる非武装地帯に近い小さな港町「ホープ湾」。村の警察署長・ボムソク(ファン・ジョンミン)が、家畜が何者かに襲われたという通報を受けるところから映画は幕を開ける。ボムソク、警察官のソンエ(チョン・ホヨン)、猟師のソンギ(チョ・インソン)は、村の惨状と犠牲者の姿が積み重なるなかで、まだ見ぬ謎の生命体を追うことになる。映画開始から45分間、怪物は一切姿を見せない。音と気配と破壊の痕跡だけで積み上げられていく恐怖は「クワイエット・プレイス」シリーズを引き合いに出す声もあり、目に見えない何かとの戦いを、スクリーンの前に座っている観客たちも余儀なくされる。そしてそこからの疾走感は圧倒的だ。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15)を思い起こさせる豪速でシーンが畳み掛けてくる。撮影監督は、ナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』から続けて組む盟友ホン・ギョンピョ。『バーニング 劇場版』(18)、『パラサイト 半地下の家族』(19)でもその名を知られる映像の達人だ。ホン・ギョンピョのカメラは自由自在に動き、疾走し、160分の上映のあいだ観客の緊張感を最後の1フレームまで手放さない。謎の生物に荒らされた村の美術は徹底的に作り込まれ、荒廃した村に放り込まれたような没入感を生みだす。
『HOPE』は、恐怖だけの映画ではない。コメディ、アクション、ホラー、SF…複数のジャンルが高速で入れ替わりながら、演出と撮影・編集の力技で成立させる。ボムソクの援護射撃に、「イカゲーム」で世界的人気となったチョン・ホヨンが演じるヨンエが現れた際には、劇場中から大きな拍手が自然発生した。約2300席の空間に、制御しきれない感情が溢れた瞬間だった。2時間40分の上映のあいだ、爆笑と拍手は絶えることなく続いた。いつもはシニカルな視点で見ているプレス試写でも、同様に拍手と爆笑が続く上映だったという。
この映画は、ナ・ホンジン監督が長年温めてきた問いから生まれているそうだ。プレミアの翌日行われた記者会見でナ・ホンジン監督は、「暴力、戦争、社会のあらゆる問題、それらがなぜ生まれてきたのかを考え続けていました。前作『哭声/コクソン』では宗教について多く語りましたが、今回はより深く宇宙について掘り下げています。宇宙といえば当然、地球外生命体、エイリアンの話につながってくる。それが出発点でした」と語っている。「基本的にはスリラーを作るつもりでいたのですが、編集の段階で見ていくと、これはアクション映画だ、と気づいて、自分でも少し戸惑いました」と監督は苦笑いとともに認める。その戸惑いごと映画に刻み込んだような、ジャンルをまたぐ奔放さが『HOPE』の核心にある。
本作が世界的な注目を集める理由の一つが、ファン・ジョンミン、チョ・インソン、チョン・ホヨンという韓国映画界を代表するキャストに加え、マイケル・ファスベンダー、アリシア・ヴィキャンデル、テイラー・ラッセルという国際的な顔ぶれが揃っていることだ。アリシア・ヴィキャンデルは長年、ナ・ホンジン監督との仕事を夢見ていたという。「21歳の頃にサン・セバスティアン映画祭でアジア映画に恋をして、そのあと『チェイサー』を観て、『哭声/コクソン』が公開された時には完全に打ちのめされました。自分が彼の映画に出演するなんて、想像すら及ばないほどの大事件です」。数年越しの縁がようやく実を結んだ形で、マイケル・ファスベンダーとテイラー・ラッセルも揃って「アリシアに出演を勧められました」と答えて会場を笑わせた。
韓国人主演キャストの3人もまた、前例のない現場に正面から向き合った。ファン・ジョンミンは、この映画の演技の本質をこう語る。「『肉体的に大変だったか』という観点で語れるかどうか、正直よくわかりません。演技はいままで経験したことのない非常に独創的なものでした。実在しない生き物に対してどう反応するか、そのエネルギーをすべて想像力でつくりださなければならなかったからです。実在の人物が相手であれば、『もうあんなやつを追いかけるのはやめた』と言い出したかもしれない(笑)。でも未知の生き物が相手だったからこそ、とても楽しく、遊び心あふれる体験になりました」。
チョン・ホヨンも続ける。「新しいものを作り上げるためには勇気が必要で、私たちは皆その勇気を持って参加しました。肉体的にはかなり要求の高い現場でしたが、精神的に強い生存本能を表現したかったので、そちらのほうがより難しかったかもしれません」。車の運転から銃器の扱いまで、撮影準備に5〜6か月を費やしたという。「実際のアクションシーンは私にとって全く新しい体験で、最初は少し怖かった。でも監督をはじめクルー全員が撮影前の準備を非常に丁寧に整えてくれました。こんなに長い準備期間はこれまでの経験ではありませんでした」。
チョ・インソンは、「監督は最初から、撮影中も常にこのエネルギーを求めていました。現場の雰囲気を思い切り楽しめたと思っています」と話す。現場でファン・ジョンミンからは「とにかくやってみろ」と背中を押された。「そのおかげで、困難なシーンを全て乗り越えることができました」。精神的・肉体的な準備を経て、俳優たちの体を張った演技が力強いアクションシーンを作り上げている。
音楽を手掛けたのは、ジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』(17)、『NOPE/ノープ』(22)で知られるマイケル・アーベルス。今回がナ・ホンジン監督との初タッグとなる。「私にとって師匠のような存在で、多くのことを教えてもらいました。映画のなかに本当に大きなものを作り上げてくれた」とナ・ホンジン監督は話す。確かに、ジャンルを横断する映画作りは、ジョーダン・ピール作品と通じるところもある。
『HOPE』の熱狂を背景に、今年のカンヌにおける韓国映画の存在感は例年以上に際立っていた。審査委員長をパク・チャヌクが務め、併設マーケットにはポン・ジュノ監督も来場。新作アニメーション映画のキャスト発表も行われた。
また、韓国映画は複数の部門に名を連ねた。ミッドナイト・スクリーニング部門では、『新感染ファイナル・エクスプレス』のヨン・サンホ監督による『Colony(英題)』が上映された。『暗殺』(15)以来、11年ぶりの映画復帰となるチョン・ジヒョンを主演に迎えた本作は、正体不明のウイルスによって封鎖されたショッピング・モールを舞台に、進化を続ける感染者と生存者たちの死闘を描くホラー作品。チョン・ジヒョンのほか、ク・ギョファン、チ・チャンウク、シン・ヒョンビン、キム・シンロクらが出演する。
監督週間には、日本を含む韓国・フランス・ルクセンブルクの4か国共同製作となる、チョン・ジュリ監督の新作『DORA(英題)』が選出された。原因不明の病を抱えるドラ(キム・ドヨン)が、真夏の海辺の別荘で安藤サクラ演じるナミら家族と過ごすうちに初めて愛を知り、静かに世界が揺らぎ始める姿を描く。キム・ドヨン、安藤サクラのほか、ソン・セビョク、チェ・ウォニョンが出演する。チョン・ジュリ監督は、長編デビュー作『私の少女』(14、ある視点部門)、2作目『あしたの少女』(22、批評家週間クロージング作品)に続き、これで全3作品がカンヌに選出。“カンヌ育ち”とも言える存在感を見せつけた。
『HOPE』は受賞とはならなかったものの、コンペティション部門で異彩を放ち、カンヌの街の話題を独占した。その爪痕は、映画の冒頭で未確認生物が残した大きな衝撃と比肩するものだ。『HOPE』の日本公開はギャガ配給にて2027年を予定している。
文/平井伊都子
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