連載第102回
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
北中米大会でじつに14大会連続のW杯観戦になる後藤氏。今回は、第1回大会からすべての大会に出場し、優勝5回を誇る「ブラジルとW杯」について記します。
1970年メキシコW杯で3度目の優勝を果たしたブラジルのペレphoto by Getty Images
【1958年から4大会で3回優勝】
「サッカー王国」と聞くと、誰もがブラジルのことを思い浮かべるだろう。W杯でも過去5回と最多優勝回数を誇っている。
しかし、2002年の日韓大会以来20年以上もW杯優勝から遠ざかっており、現在のFIFAランキングは6位。サッカー大国のひとつであることに間違いないが、現在のブラジルは必ずしも"最強国"とは言えない。
僕はこれまで13回W杯を観戦してきたが、ブラジルが本当に輝いている姿を見たことがない。1994年アメリカ大会では、僕はニューヨークなど東海岸で観戦していたので、ブラジルを見たのは決勝だけ。しかも、イタリアとの決勝戦はおよそブラジルらしくないスコアレスドローに終わった。
もちろん、2002年日韓大会の優勝は目撃した。
だが、怪物ロナウドやロナウジーニョはいたものの、あの時のブラジルはルイス・フェリペ・スコラーリ監督の戦術とリバウドの献身性で勝利したようなもので、いわゆるブラジル的な華やかなサッカーではなかった。
だが、それでも、ブラジルは今でも世界中から「サッカー王国」として認知されている。それは、いったいなぜなのだろうか?
ブラジル・サッカーの強さと美しさを印象づけたのはなんと言っても1958年のスウェーデン大会から1970年のメキシコ大会までの12年間のセレソンだった。
4大会のうち3大会で優勝という、まさに圧倒的な戦績。しかも、そのテクニックを生かした攻撃サッカーで世界を魅了した。
「ペレの時代」と言い換えてもいいかもしれない。
【ペレの時代】
1958年スウェーデン大会で、17歳でW杯にデビューしたペレ。
現在であれば、ペレほどの逸材がいれば少年時代に全世界から注目を受け、おそらく17歳になる前に欧州のクラブに引き抜かれているだろう。だが、まだ南米と欧州の距離が遠かった時代。欧州の人たちは、それまで全く知らなかったペレという存在に出会って衝撃を受けたのだ(当時のW杯には、そうした大陸間交流の意味があった)。
そのペレだが、1962年チリ大会では2戦目で負傷してそれ以降は出場できず、1966年イングランド大会では欧州勢のラフなタックルに封じ込まれてしまった。しかし、彼にとって集大成となったのは1970年のメキシコ大会だった。
この時のブラジルは、まるでホームチームであるかのような熱烈なサポートを受けながら快進撃を続け、イングランド、ルーマニア、チェコスロバキアという強豪ぞろいのグループリーグから決勝戦までひとつの引き分けもなく全勝で優勝を飾った(南米予選も6戦全勝!)。
まさにW杯史上最強のチームだった。
「ペレの時代」と書いたが、ペレ以外にもブラジルには数多くのタレントがいた。初優勝の時にはジジ、ババ、マリオ・ザガロ、ガリンシャなどがおり、ジウマールというブラジル史上最高のGKも擁していた。
また、1970年のセレソンではトスタン、リベリーノ、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルトといった主役級の選手がペレのために献身的に戦っていた。
【黒人選手と個人技】
歴史的に見れば、ブラジルは南米のなかでもけっしてサッカー先進国ではなかった。
19世紀に、南米で最初にサッカーが盛んになったのはアルゼンチンやウルグアイだった。
というのは、19世紀の初めにスペインから独立した後、アルゼンチンやウルグアイは経済的に英国の支配下に置かれ、数多くの英国人が住んでいたため、早くからフットボールが行なわれていたのだ。
そして、1920年代になると両国は独自のスタイルを確立。1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪でウルグアイが連覇。これがW杯誕生のきっかけのひとつとなって、1930年にウルグアイで第1回W杯が開催されたが、ここでもウルグアイが決勝でアルゼンチンを破って初優勝を遂げた。
1940年代に入るとアルゼンチンが全盛期を迎え、アルゼンチンの攻撃力を止めるためにブラジルは4バックを導入せざるをえず、その結果、4-2-4システムがブラジルの代名詞となった。
アルゼンチン全盛の1940年代は第2次世界大戦のためにW杯はなかったが、戦後初のW杯は1950年にブラジルで開催された。ブラジルは決勝リーグでも2連勝(この大会はベスト4によるリーグ戦で優勝を決める形式だった)。最終ウルグアイ戦で引き分けさえすれば優勝が決まるはずだったのだが、ウルグアイに逆転負け。20万人以上を収容したリオデジャネイロのマラカナンでは観客の何人かがショック死する事態となった。
そして、1958年にようやく初優勝を遂げると、そこからまさにブラジルの黄金時代が幕を開けたのだった。
この頃、ブラジルが圧倒的な強さを見せた背景には、黒人選手たちの活躍が欠かせなかった。
ブラジルには、農園や鉱山での労働力として大量のアフリカ人奴隷が連れてこられていた。そして、20世紀に入ると彼らの子孫たちも見よう見まねでサッカーをプレーするようになっていった。
現在では欧州各国でアフリカ系の黒人選手は数多くプレーしている。フランス代表などは、チームの半数以上が黒人選手だ。
しかし、1950年代当時、欧州には黒人選手はほとんどいなかったし、アフリカ諸国のサッカーも未発展。南米でもアルゼンチンは白人主体の国であり、黒人人口が多いペルーやコロンビアの強化はまだ進んでいなかった。つまり、世界で最初にアフリカ系黒人が本格的にプレーするようになったのがブラジルだったのだ。
第2次大戦前にも、たとえば1938年フランス大会で得点王となったレオニダスのような黒人選手が活躍していたが、当時のブラジルのサッカー界では人種差別が激しかった。
ブラジルのクラブはもともと白人富裕層の社交クラブとして発足したものも多く、そうしたクラブのなかには黒人選手と契約しようとしないところもあった。だが、第2次大戦後は黒人選手は次第にサッカー界に受け入れられていく。
黒人選手は身体能力に優れ、その動きには独特のリズムがある。ブラジル以外の国の選手たちは黒人選手との対戦経験が少なく、彼らの独特の動きを止めるのが難しかった。また、欧州勢はそもそも戦争中に若手選手が育たなかったことによって弱体化していた。
そんないくつもの要因が重なって、1950年代から70年代にかけてブラジルが世界を席巻。そして、ペレをはじめとするブラジル人選手の個人技が世界を魅了した。
【多くのブラジル人選手が来日】
ブラジルに魅せられたのは日本も例外ではなかった。
戦後、日本ではサッカーはマイナー競技だったが、その魅力が見直されたのは1964年の東京五輪と、4年後のメキシコ五輪で銅メダルを獲得したことがきっかけだった。1965年には、初めての全国リーグである日本サッカーリーグ(JSL)も始まった。
1960年代......。つまり、それはブラジルの全盛時代でもあった。
当時の日本ではブラジルの試合映像を見ることは難しかったが、ブラジルが圧勝した1970年のメキシコ大会が東京12チャンネルで「録画放送」の形だったものの全試合放映されたことで、多くのサッカー少年がブラジルの魅力を知った。そして、ブラジルのような選手を育てようという「夢」を抱く指導者も現われ、それがその後の発展につながっていく。
ブラジルには、20世紀初頭から多くの日本人が移民として渡っており、現在も200万人以上の日系人が暮らしている。
そんなつながりもあって、JSLには多くの日系ブラジル人選手が来日した。1967年に来日したネルソン吉村(吉村大志郎)をはじめ、ジョージ小林、ジョージ与那城などが来日。名門コリンチャンスでプロ経験のあるセルジオ越後もやって来た。
そして、日本のサッカーが発展するとともにさらにハイレベルのブラジル人選手が来日。Jリーグが発足した1990年代には現役ブラジル代表選手が何人も日本でプレーしていたのだ。
こうして日本でも「ブラジル=サッカー王国」という認識が確立されたのである。
いよいよ開幕する2026年W杯で、ブラジルはかつてのような"輝き"を取り戻すことができるのだろうか?注目したい。
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