錦織圭と過ごした壮絶な2年間逃げ出したい厳しいトレーニングでも「帰りたいという言葉は一切、聞かなかった」

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錦織圭と過ごした壮絶な2年間逃げ出したい厳しいトレーニングでも「帰りたいという言葉は一切、聞かなかった」

5月26日(火) 6:50

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錦織圭という奇跡【第28回】

喜多文明の視点(2)

◆01松岡修造の視点>>◆02細木秀樹の視点>>◆03奈良くるみの視点>>

◆04石光孝次の視点>>◆05玉川裕康の視点>>

◆06デイビッド・ロウ&マット・ロバーツの視点>>◆07土居美咲の視点>>

◆08伊藤竜馬の視点>>

◆喜多文明の視点(1)>>「当時はまったく負ける気がしなかった」

喜多文明さんのIMGアカデミーでの朝は、錦織圭に「おーはーよー」と大きな声であいさつすることから始まったという。

ただ、その多くのケースで、錦織からの返事はない。

「圭は低血圧だったので朝が弱く、起きてもしばらくはボーッとしちゃっているらしいんですよ。でも、子どもの頃はそんなこと知らないから、『なんだよコイツ』って思っていました」

メガネの奥の目を優しく細め、喜多さんは20年以上前の日々を懐かしそうに回想する。

IMGアカデミー時代の喜多文明さん(左)、錦織圭、富田玄輝さん(右)photo by Fumiaki Kita

IMGアカデミー時代の喜多文明さん(左)、錦織圭、富田玄輝さん(右)photo by Fumiaki Kita



現在、株式会社リコーテニス部の監督を務める喜多さんは、錦織より一学年上の37歳。小・中学生の頃は数々の国内タイトルを勝ち取り、盛田正明テニス・ファンドの奨学生としてアメリカのIMGアカデミーへと赴いた。その時にともに渡米し、約2年間『同じ釜の飯』を食べたのが、のちの世界4位の錦織圭である。

フロリダ半島の西海岸沿いに位置するブラデントンは、真冬の時期でも気温は高く、スポーツに打ち込むにはふさわしい町だ。その地に広がるIMGアカデミーには、世界中から金の卵が集い、生き残りをかけて日々しのぎを削る。

日本から来た少年たちも、否応もなくその弱肉強食の渦に放り込まれた。喜多さんはIMGアカデミーで過ごした約2年間を「壮絶な日々だった」と回想する。

「あの年、一緒にIMGアカデミーに行ったのが僕と圭、それから岡山県出身の富田玄輝の3人でした。みんな部屋は別々だったんですが、朝ごはんは食堂に集まって一緒に食べたりしていましたね。

IMGの通常練習は朝の8時や9時から始まるんですが、その前に6時頃から、僕らは盛田ファンドの専属コーチだった米沢(徹)さんのレッスンを受けていたんです。

まだ外は、ぜんぜん明るくないんですよ。練習が始まる前に、水道でジャグに水を入れることから始まるので、そこで圭ともバッティングする。その時、僕が『おはよう』って言っても、ボーッとしていて返事がないんです。

練習前のウォームアップでは、野球のボールやアメフトボールを投げるんですが、圭は少しでもボールが逸れると取れなくて後逸する。それをまた、トロトロと歩いて取りにいくんですよ。毎朝、けっこうなストレスでしたね」

【朝から1回か2回は吐いた】当時を回想する喜多さんの表情は、語り口とは裏腹に柔らかい。それはあの時、あの空間をともに過ごした者たちだけが共有する、ある種の絆なのだろう。

眠気まなこの錦織にあいさつし、ジャグに水を入れ、ウォームアップを終えると「きつい一日」が幕を開ける。

「とにかく毎日、トレーニングが2回あるんです。まず朝は、米沢さんと球出しなどの基礎練習。練習メニューが独特だったので、当時の自分には何のためにやっているのか、よくわからなかった。

9時からようやくIMGの練習がスタートして、11時頃までやる。そこからトレーニングが始まるんです。基本はとにかく、走る。サッカーフィールドを走り、小高い丘を駆け上がり、またフィールドに戻って走って......。もうこの時点で、1回か2回は吐くんですよ。

トレーニングのあとは、お昼にまずいチキンを食べて、学校に行って、帰ってきたらIMGの子たちと練習試合。そして最後に、またトレーニング。ここではジムに行って、バイクとかでめっちゃ追い込む。午前と午後の終わりに必ずトレーニングがあるので、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのをよく覚えています」

錦織と同様に小柄だった喜多さんは、ミスの少ない粘りのテニスが武器。「それで勝ってきたという自負もある」と言うが、その彼が音をあげるほどにつらい日々だった。

そんなほろ苦い思い出のなかで、錦織は「まじめに取り組む人」として異彩を放っていたという。

「圭はトレーニングも、めちゃめちゃがんばっていましたね。僕は途中から『これはきつすぎるから、どうやってサボろうか』とずっと考えていました。ただ、フィジカル面でつらかったのは間違いないですが、メンタル的にもちょっときつくなってきたのもあると思います。

圭は試合で結果を出すようになっていく。その時に僕は、『同じ練習やトレーニングをやっているのに、なんで自分は試合で勝てないんだ』みたいに思ってしまったんですよね。一度そのメンタリティに陥ると、なかなか戻ってこられない。一方で圭は、ずっと真面目にやっていました」

【アカデミー2年目ですごいことに】渡米したばかりの頃は同等......いや、むしろ自分のほうが上だと思っていた相手に、抜かれたという焦燥と失望。それは、時間の経過とともに膨らんでいったという。

「一緒に練習している時は、そんなに差は感じないんですよね。なぜなら、毎日のことだから。一カ月の間に誰がどれくらい強くなっているかなんて、よくわからないんです。

ところが遠征に行くと、圭のほうが結果を残す。アメリカや中南米のジュニア大会に出た時、僕と玄輝はだいたいよくて3回戦に行く程度。圭はどうかというと、今週は1回戦負けで、翌週は準優勝。次の週はまた1回戦負けで、翌週は優勝みたいな感じだったんです。い行く時は、カーンと一気に決勝まで行く。すると次の週は体調を崩したり、の繰り返しでした。

ただまあ、自分たちじゃなかなか到達できないところを、圭はすぐに乗り越えていく。テニスの強さの指標って、結局のところは試合で勝つか負けるかじゃないですか。そうなるとやっぱり、結果が出ているのは強くなっていることだと納得するしかなかったんです」

最初は、大会での最高戦績という形で目立ち始めた錦織の成長。その事実を喜多さんがリアルに実感したのは、アカデミー内での練習試合だったという。

「アメリカに行って1年目は、まだそんなに圭が強くなったとは思わなかった。でもそのうち圭は、アカデミーのなかでも年上の強い選手に勝てるようになっていったんです。

僕らからしてみたら、向こうは体も大きいし、めちゃめちゃ強いし、勝てる気がしなかった。もちろん圭も、最初はボコボコにされていたんです。でもだんだん、だんだん勝つようになっていった。その時に『マジでハンパないな』と思ったんですね。アカデミーに行って2年目くらいから、『なんかすごいことになってきたな』って感じたと思います」

思うように戦績が出ないと、練習やトレーニングは一層きつく感じられる。加えて寮生活では、自由もない。

【帰国して「やっと自由になれた」】「夜は21時に完全消灯。電気をつけていたら怒られるんですよ、見回りが来て。だから、光がもれないように布団を頭から被って、隠れてパソコンを見たりしていました。でも疲れているから、結局は寝ちゃうんですけどね。

本当に毎日きつかったから、僕は日本に帰りたくて仕方なかった。でも圭からは、嫌だとか帰りたいという言葉は一切、聞かなかったですね」

やっぱり変わっていますよ、彼──そう言い、喜多さんが不思議そうに笑った。

渡米3年目を迎えた時、喜多さんは帰国する。

「やっと自由になれた」

真っ先に胸を満たしたのは、そんな思いだった。

(つづく)

◆喜多文明の視点(3)>>「18歳でトップ5の選手に勝つとか、ありえない」



【profile】

喜多文明(きた・ふみあき)

1989年1月21日生まれ、埼玉県出身。5歳からテニスを始め、2000年に全国小学生テニス選手権で優勝を飾る。中学時代に錦織圭らとともに渡米し、フロリダのIMGアカデミーへテニス留学。世界のトップジュニアの環境で研鑽を積む。帰国後、慶應義塾大学に進学し、1年生で全日本学生テニス選手権(インカレ)男子ダブルスを制覇。大学卒業後にリコーへ入社し、実業団で長年活躍。現在は同テニス部男子チームの監督を務めている。2010年全日本テニス選手権男子ダブルス準優勝。JTAランキング最高13位(ダブルス)。身長170cm。

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