「憲法9条」朗読音源に波紋
小泉今日子のコンサートで、俳優の佐藤慶が憲法9条を朗読した音源が流れたことが波紋を広げています。しかし、世界各地で戦闘状態にあるいま、特に違和感を覚えるものではありません。アーティストも人間であり、ひとりの市民です。平和をうったえ何らかの意見表明をすることに不自然な点は見当たりません。
ところが、「小泉今日子ではなくキョンキョンが観たかった」と言う批判の声があるのだそう。つまり、エンターテインメントとファンサービスに徹する、“プロのキョンキョン”が観たかったというわけです。
確かに、こうした意見にも一理あるのでしょう。ひとまず嫌な現実から離れるためにお金を払っているのだから、昔のヒット曲でノスタルジーに浸らせてほしい、と。こうした消費者心理にもうなずける点はあります。
けれども、小泉今日子は文筆家や書評家としても名を馳せる存在であり、また政治や社会問題についても鋭い視点を持っていることで知られています。たとえ懐かしのヒット曲を歌うコンサートであっても、いまの時点でそれを歌う小泉今日子という人物は、そうした社会的な視点とセットにならざるを得ません。そして、それはすでに世の中に広く知れ渡っている彼女の一面です。
客としての「正当なクレーム」に隠された本音
「小泉今日子ではなくキョンキョンが観たかった」という意見に疑問点があるとすれば、そうした要素を見て見ぬふりをして、素朴を装っていることなのだと思います。
つまり、本当は憲法9条を支持する小泉今日子に反論をしたいのだけれども、そうやって正面からケンカをするよりは、“エンタメに集中させてくれ”という客としての正当なクレームをしている方が気楽で安全なのですね。客としての当然の権利を主張するフリをする裏には、憲法9条を流す行為が不当だという意図が隠されているのです。
もちろん、憲法9条に対して賛成、反対、様々な考えが存在します。それも小泉今日子は承知の上で、自らの立場を表明した。それだけの話なのではないでしょうか。彼女がそのようなイントロを加えたからといって、「木枯らしに抱かれて」や「あなたに会えてよかった」の価値が下がるわけではないし、過去の思い出が壊れるわけでもありません。
それはそれ、これはこれ、というだけの話なのです。
政治的表明は「すべき・すべきでない」の二択なのか?
誤解があるようなのですが、開演の30分前(客入れ時)から高木完さんのDJタイムが始まりまして、その中で俳優の佐藤慶さんが朗読している日本国憲法というCDの音源をミックスした曲がありました。大好きな俳優さんです。一度だけ共演したことがあります。つづく— 株式会社明後日 (@asatte2015) May 7, 2026
昨今では、アーティストは政治的表明をすべきかすべきでないかについて熱い議論が展開されています。サカナクションの山口一郎は、ミュージシャンが政治に関心を持っていることと、それを創作などの表現に反映させることは領域が異なる、という主旨のことを話していました。彼はこの問題に対する最も真摯な見解を示してくれました。
同時に、それは必ずしも政治的な表現をしないほうがいい、ということを意味しているわけではありません。
結局は、アーティストは政治的な発言をしなきゃいけないわけでも、逆にしてはいけないわけでもない。これだけの話なのです。たとえ自分と違う考え方だったとしても、あの曲はいいよね、という心の振れ幅がないところに、娯楽も郷愁もないのではないでしょうか?
要するに、「小泉今日子ではなくキョンキョンが観たかった」という意見は、小泉今日子の思想が無視できないほどに強靭であることの裏返しなのです。
それを認められず、賢い消費者のふりをすることにこそ、致命的な弱さがあるのです。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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