【写真】松重豊を興奮させた相撲に深くかかわる「回向院」無類の地図好き、池上彰と松重豊が古地図を片手に街を歩く「池上彰と歩く謎解き日本地図」(BSテレ東)。4月28日(火)夜7時からの放送では、3月末にリニューアルオープンした江戸東京博物館で粋な江戸文化に触れたり、回向院では江戸中期に描かれた鶴岡蘆水の両国周辺の絵巻物を特別に見せてもらったり、すみだ北斎美術館では100年以上行方知れずになっていた北斎幻の名画が登場したり…。ちゃんこ鍋と長命寺桜もちで孤独“じゃない”グルメも楽しみつつ、松重の相撲うんちくも飛び出すことに。
■1659年まで隅田川に橋がかけられなかった理由
「京都以来ですね」と満面の笑みであいさつする松重に、「お江戸にやってまいりました」と返す池上。すっかりお馴染みとなった“地図コンビ”は今回、隅田川にかかる両国橋で「なんで“両国”っていうんだろうか、とかですね、このあと地図を見ながら謎を解いていこうと思います」と早くもワクワクするテーマを持って探索をスタートする。
両国橋は全長164.5m、建設されたのは江戸のはじめころ…万治2年(1659年)だ。安政5年(1858年)に作られた「安政改正御江戸大絵図」をかかげた“地図隊”の登場を待って、池上が楽しそうに松重に問いかける。“江戸時代にかけられた橋”というと現代人からは十分“昔から存在する”ように思えるが、逆に言えば1659年になるまで川を渡るための橋がなかったということ。
「必要がなかったんですかね?」という松重の予想に、「いえ、あえて橋をかけなかったというんです。どうしてだと思います?」と問題を出す池上。松重は年代を振り返りながら「敵が攻めてくる時代ではもうなくなってきてますよね」と考察するのだが、「花見に行きたいから、いろいろとこう…“人の往来を良くしてくれ”って民意があった…?」と回答は正解に一歩及ばず。
江戸幕府が隅田川に両国橋を造った理由には、ある事件が関わっていた。攻撃されないためにかけていなかった橋をかけるべきと判断した理由が“民を守るため”と知り、松重の表情が納得の色に染まっていく。
■撮影が終わっても“噛り付き”な松重
両国橋に続いて2人がやってきたのは、国技館通りにある「諸宗山 回向院」。明暦3年、1657年に開かれた浄土宗の寺院だ。門を潜ってすぐに見える“力塚”には有名な力士たちの名が刻まれており、相撲好きの松重はたちまち興奮。「さすが両国ですね」と話していると、そこに回向院の本多将敬住職がやってきた。
住職によると「昔、江戸時代から昭和の戦前まで、この回向院の境内においてお相撲が取られていた」と歴史的に相撲と縁が深いことを明かし、明治42年になると旧両国国技館が隣に建てられたと解説。いまではマンションが建てられている場所に両国国技館が会ったと知り、松重だけでなく池上も「ここでお相撲してたんですね~」と感慨深げな笑みをこぼす。
回向院は「明暦の大火」という約6万8千人もの人が亡くなった大火事をきっかけに幕府が建立した寺院。埋葬する遺体がどこの誰かもわからない状態であったため、諸々の宗教の人が迷わないようにと工夫したらしい。そうした経緯もあって人が多く集まることも多く、“人が多く集まるのであれば”というのが同寺院で相撲興行が始まったきっかけだったという。
ちなみに相撲興行は公共社会事業の資金集めを目的にした「勧進相撲興行」という形で運営されており、回向院で春・秋場所のために建てられる相撲小屋は1万人規模の収容が可能だったというから驚きだ。
相撲大好きな松重は、撮影が終わってからも資料に釘づけ。天保13年(1842年)に初代・歌川広重が描いた「両国回向院境内全図」ほか、精緻な筆遣いで描かれた当時の相撲興行場所に見入っていた。その目の輝きは少年のよう。「リアルですね~」とうっすら笑みが浮かぶ顔からは、本気で楽しんでいる気持ちがにじみ出ていた。
さらにねずみ小僧の墓や孤独“じゃない”グルメなど、両国のいまも昔も味わい尽くす2人。古地図に導かれる旅のようすは、4月28日(火)夜7時から。
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