木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第10回:金田喜稔評(10)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
木村和司氏が横浜F・マリノスの指揮官に就いていた当時を振り返る金田喜稔氏photo by Miki Sano
木村和司は2010年から2011年の2シーズン、(前身の日産自動車時代から)自らが長く現役でプレーした横浜F・マリノスで監督を務めた。木村のキャリアにおいて、これがJクラブを率いたただ一度の監督歴である。
木村の現役引退から16年、ついに実現した"ミスター・マリノス"の監督就任にあたっては、金田喜稔の強いあと押しもあったという。
木村を推した理由として、金田は「それは和司のことを知ってるからですよ。頭ええし、絶対周り見えるし」と、ひとつ年下の後輩に対する信頼を示しつつも、そのために必要な条件があったことを明かす。
ひとつは、「和司が考えてることを言語化できるコーチがそばにいること」。
そして、「(フロントが)和司を守ってあげること」。
金田が続ける。
「極端なことを言うと、和司が日産(横浜FM)に帰る時には、ワシも覚悟してGMか何か(の立場)で戻って、周りは全部ワシが変えると思ってたから」
木村が横浜FMの監督に就くにあたり、金田は「和司をちゃんとサポートしてやらないかん」と考えていた。と同時に、その役目は自分が担わなければならないのではないか、との思いもあったのである。
だが、「ワシは名蹴会を立ち上げたばかりで、会長としてやらないかんこともあったんで、そういう決断ができなかった」。
金田が言う名蹴会とは、日本サッカー名蹴会のこと。木村の監督就任とほぼ時を同じくして、2010年に立ち上げられた組織である。詳細についてここでは触れないが、日本代表、日本リーグ、Jリーグで一定条件以上の実績を残した元選手たちが入会し、サッカーの普及、発展、社会貢献を目指した活動を行なっている。
金田は現在も会長を務めており、全国でシニア向けのサッカー教室を行なうなど、日本中を駆け回っているが、当時は自らが発起人のひとりとなって会を発足させたばかり。しかも、自らが会長とあっては、二足目のわらじを履くのは難しかった。
「それでも、チーム(横浜FM)から強いオファーがあったら......」
金田は15年ほど前を回想して、そうつぶやき、「いや......、(自分が)いたからといって、どうなってるかも全然わからんこと。でも、ワシがおったほうがよかったんじゃないかなとは思うけどね......。あるいは、イシ(石﨑信弘/現松本山雅FC監督)を(コーチとして)入れるとかね。そういうのもね、まあ、いろいろあるよ」と続け、表情に悔恨の色をにじませた。
とはいえ、木村の監督在任中、横浜FMの成績はそれほど悪かったわけではない。
確かにタイトル獲得はなかったが、J1では8位、5位と、順位は向上。木村が監督に就任する以前、直近5年の順位が9位、9位、7位、9位、10位だったこと考えれば、チーム状況を着実に上向かせていた、ように見える。
特に2年目の2011年はシーズン前半を首位で折り返すなど、優勝争いに加わっての5位である。
にもかかわらず、シーズン終了を待ちかねたかのように、クラブから木村の監督解任が発表された。
「そうよ。最後の頃は、ワシもアイツからよう話を聞いとったけど、もう裏切られたみたいな話もしとったし。だって、リーグ戦(の成績)もそこまで悪くなくて、だけど、いきなりやったからね」
突然の決定に、金田は「でも、(監督の評価は)成績だから。たぶんF・マリノスとしては、やっぱり上位にいて、いつも(三冠のうちの)どっかでタイトルを獲らなきゃいけないと......」と理解はしながらも、「でも、(成績が)悪いわけじゃないのにっていうのは、すごくあった。ワシも『なんでおまえが切られるんや』みたいな話はしたかな。その時もなんか一緒に歌、(カラオケで)歌いよったような気がするわ(苦笑)」。
その一方で、木村には監督時代から、すでに体調面の不安があったことを、金田は承知している。
「プレッシャーもあったろうし、(監督を)やめる間近なんて、みんな離れていくから、最終的に孤立するやん。そこは相当ストレスだったと思うよ、たぶん」
金田は、指揮官としての木村の才覚や適性を信じていた。だからこそ、あっけない結末を心底残念がる。すでに15年ほどの時間が経過した今も、その気持ちに変化はない。
だがしかし、それによって偉大なサッカー選手の実績すべてが色あせるわけではない。
金田は、高校時代から続いた木村との関係を振り返り、「(一緒にサッカーをやっていて)楽しかったな、やっぱり。もう(互いの)動きがわかるし、わかってくれるから」。
木村とのコンビネーションは、金田が一緒にプレーした選手のなかでも、「トップですよ」。なぜなら、「だって、他(の選手)とはコンビ組んでないもん。全部自分でやってたから(笑)。ワシが『自分でやらんでも、コイツに預ければ大丈夫』って思ったのは、和司だけよ」。
「天皇杯にしても、日本リーグにしても、(1988-1989~1990-1991の3シーズンにかけて)7冠連続でタイトル獲ってる時の和司のスーパープレーって、たぶん相当だったと思うし、日本リーグでMVPを3回も獲ってる。Jリーグが始まっても、そんな選手いないし、それってたぶん、もうできないよね」
金田喜稔にとって木村和司は、比較対象すら存在しない、まさに唯一無二の存在だったのである。
(文中敬称略/つづく)
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
金田喜稔(かねだ・のぶとし
)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高→中央大を経て、1980年にJSLの日産自動車入り。同郷で1年後輩の木村和司らとともに一時代を築く。大学2年生の時に初選出された日本代表でも奮闘。変幻自在のドリブルと独特なフェイントで攻撃の主軸を務めた。19歳119日という日本代表最年少得点記録を保持する。1991年に現役引退。以降、解説者、指導者として奔走し続けている。国際Aマッチ出場58試合6得点。
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