魂の双子という幻想いやらしくて美しい、キャサリンとヒースクリフのセックスをしつこく描く「嵐が丘」【二村ヒトシコラム】

魂の双子という幻想いやらしくて美しい、キャサリンとヒースクリフのセックスをしつこく描く「嵐が丘」【二村ヒトシコラム】

3月19日(木) 22:00

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作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回は、「バービー」のマーゴット・ロビーが主演・プロデューサーを務め、これまで何度も映像化・舞台化されてきたエミリー・ブロンテの名作小説を「プロミシング・ヤング・ウーマン」のエメラルド・フェネルの監督・脚本で映画化した「嵐が丘」。現代的な脚色とセクシャルな描写が話題の今作、“魂の双子”キャサリンとヒースクリフの激しい愛は、ナルシシズムと、メンヘラな情動では?と二村さんが考察します。

※本作品は鑑賞年齢制限のないG区分の映画です。コラム本文にはネタバレと性的な描写を含んでいます。

【フォトギャラリー】映画「嵐が丘」場面写真

めちゃめちゃ面白かった。そして、まったく感動しなかった!わざと観る者を感動させないように作られたシリアスな恋愛映画って、あるんだ。気に入りました。美しい人がいやらしいセックスをしてるのって、いやらしくて美しい。だけど、この愛は美しくない。

「嵐が丘」は魂の双子の物語です。別の親から生まれ、異なる育ちかたをしたのに、なぜか気が合う。親友というのともちがう。おまえは俺か、と双方が感じている。もう一人の自分だとしか思えない。

そんな二人が運命のいたずらで対立することになったとき、心の構造がよく似ているだけに、それまでは自分の分身だと感じていただけに憎悪がいっそう濃くなる。そういう存在(だと相互に思い込んでるだけなのかもしれない相手)がいる人は、どのくらいいるのでしょう。

そういう貴重な相手は、恋人にはしない、恋人なんかにしちゃうのはもったいないって主義の人もいると思いますが、「嵐が丘」はそういう相手を性的に好きになってしまったカップルが運命に引き裂かれ、恋しい、憎い、ひどいことをしてやろう、でも愛してる、そんな激烈なお話です。

書かれたのは180年ぐらい昔のイギリス。日本でだって当時(江戸時代)から歌舞伎とか講談で、魂の双子っぽいキャラ設定の愛憎劇はあったでしょう。そういうことをずっと妄想しつづけている人類がすごい。いいかげんにしたほうがいい。

書いたのは20代の未婚の女性です。それもすごい。作者エミリー・ブロンテは出版してすぐに結核で亡くなってしまったのですが、のちに「英語で書かれた三大悲劇」やら「英米仏露の十大傑作小説」やらの一つに挙げられるようになるほど評価されたんだそうです。

いろんなキャストで何度も何度も映画化もされてます。日本でも吉田喜重監督が舞台を鎌倉室町時代に翻案して、ヒースクリフにあたる男を松田優作、キャサリンにあたる女を田中裕子が演じた 「嵐が丘(1988)」があります。みんなが映画にしたくなるんだな。

▼女性監督エメラルド・フェネルの脚本で、キャサリンを主役に映画化

しかし女性が書いた物語なのに、だいたいの映画化で監督は男性でしたし、だいたい主人公はヒースクリフのほうでした。

こんどの「嵐が丘」は女性(エメラルド・フェネル)が脚本と監督で、マーゴット・ロビーが演じるキャサリンが主役です。マーゴット・ロビーは「バービー」のときと同じくプロデューサーも兼任しています。

そしてエロい場面がいろいろあります。

まず魂の双子は処女&童貞のころに二人して他人の濃厚でSMチックなセックスを盗み見てしまう。興奮したキャサリンは一人、丘の上(屋外!)でオナニーしまくり、それを心の友ヒースクリフ(ジェイコブ・エロルディ)に見つかり。しかしそこでは二人はあえてセックスせず、じらしにじらしたあげくの別離。無意識の判断だとは思いますが、多分そのほうがもっと興奮するからでしょう。

▼現代的な脚色、登場人物に注目

性的な描写以外にも、いくつか重大でひじょうに現代的な脚色がなされています。今回のキャサリンには兄がいません。原作でも他の映画版でも居候のヒースクリフ少年につらくあたるのはキャサリンの兄です。ヒースクリフは兄妹の優しい父親が連れて帰ってきた不幸な浮浪児。けれど彼と仲良くなってしまったキャサリンを祝福することが、兄にはできない。妹や父を取られてしまいそうで不安だからヒースクリフをいじめる。

今回の「嵐が丘」は、この兄のキャラと父のキャラを合体させました。父(マーティン・クルーンズ)には息子がおらず、ヒースクリフを拾ってくる前から実の娘であるキャサリンのことが気に食わない。彼女が生意気で口が立つからです。ヒースクリフ少年がキャサリンといちゃいちゃするのも許せず、お仕置きと称する虐待と拷問。ところが鞭打たれたヒースクリフの背中の傷跡すらキャサリンの目には美しくエロく見えて、彼をますます好きになる。

キャサリンの家を出奔したヒースクリフが数年後に金持ちになって帰還し、キャサリンの兄を陰謀にはめて破滅させ、それでもキャサリンとめでたしめでたしとはいかず、いないあいだに他の男と結婚しちゃってたキャサリンにも復讐する……。というのが普通の「嵐が丘」の世界線ですが、この映画でのキャサリンの父は、帰ってきたヒースクリフに復讐される前から、とっくに自滅しています。どうしようもなく時代遅れの父権的な男で、アルコール依存症にむしばまれている。家族をテーマにしたアメリカの映画でくりかえし描かれてきたモチーフ。今回の「嵐が丘」は、うまく愛してくれなかった不器用な父を憎む娘の物語でもあるのです。

そして今までの「嵐が丘」では脇役だったイザベラとネリーの存在感。イザベラは、キャサリンの夫エドガーの家の居候(原作ではエドガーの妹)です。復讐鬼ヒースクリフはキャサリンを苦しませるために、まったく愛していないイザベラと結婚する(原作では子どもも産ませる)わけですが、この映画でのイザベラを女優アリソン・オリバーは、現代で言われるところの非定型発達の女性のように演じています。とてもいい。

そのイザベラを誘惑というか実質的には犯すとき、この映画のヒースクリフは何度も何度も言葉でイザベラの「性的同意」を取るのです。イザベラはヒースクリフに魅了されてますから、この人は私を好きじゃないとわかっていながらセックスに同意する。ヒースクリフも彼女は自分を受け入れるだろうとわかってる。ひどい話だよ。イザベラはヒースクリフのキャサリンへの愛憎のさやあてに使われただけなのですが、さらに現代的なのは、この映画では、それでイザベラはただ不幸になっていくのではないのです。

ヒースクリフが当然のようにDV的で病的なセックスをするのを、やがてイザベラは楽しんでいくかのように描かれます。それは狂気でもありますが、いったい被害者は誰なのか。男性の監督がこんなふうに撮ったら怒られるだろうし、観ててもただキモく感じられたでしょう。でもこの映画での不気味なイザベラ、魅力的です。

▼もう一人の主人公、キャサリンとともに生きたネリーの気持ち

原作でのネリーは、物語の語り部です。つまり「家政婦は見た」みたいなことです。ところがこの映画でのネリー(ホン・チャウ)は、愛に狂った人々を傍観してるのではない。少女のころからずっとキャサリンといっしょにすごした彼女もまた愛に狂わされる。

この世界線では、ヒースクリフが現れるまではネリーこそがキャサリンの魂の双子だったのです。ところがキャサリンは思春期に、女の子のネリーではなく、男の子ヒースクリフを選んだ。

ネリーにしてみたら裏切りですよね。キャサリンはヒースクリフの存在だけを運命的なものと思い込んでいるけれど、自分でも気がついてないけれど、誰を魂の双子にするかを恣意的に選んでる。

女は、女の親友ではなくイケメンの男を選ぶ。これも男の監督がそういう脚色をしてたら「そんなことはない。この監督はフェミニズムやシスターフッドがわかってない!」と怒られるところでしょう。

でも、そうやってキャサリンは「嵐が丘」のヒロインになった。選ばれなかったネリーの苦しみと憎しみを、この映画の観客以外は誰も知らない。

僕は、この映画でのネリーはレズビアンだったんだと思います。マイノリティ当事者としてのイザベラとネリー。強がってるけど無惨な依存症の当事者であるキャサリンの父親。ヒースクリフも孤児で被虐待児で、キャサリンにも裏切られ(たと思い込み)粘着します。

▼キャサリンとヒースクリフのセックスをしつこく描く「嵐が丘」

憎くて仕方がない魂の双子との情交で「旦那のち◯ぽより俺のちん◯のほうが気持ちいいだろ」などとAVみたいなことを言って勝ち誇るヒースクリフ。そう言われて感じまくっちゃうキャサリン。ずっと愛おしく思ってた相手にやっとありつけて、そこに意地悪とか不貞とか強引さとか、いろんなスパイスがまぶされてるんですからそりゃ気持ちいいことでしょう。

キャサリンとヒースクリフのセックスを、これだけしつこく延々と卑猥に描いた嵐が丘って、おそらく前代未聞です。

不倫関係ですから外で待ち合わせての、せわしないカーセックス(180年前ですから馬車)。そのうちキャサリンの家にまで上がりこむヒースクリフ。どうかしてますが、キャサリンもまんざらでもない。

夫エドガー(シャザト・ラティフ)とのセックス中にも、ずっとヒースクリフのことを考えてるキャサリン。夫相手では不感症。でもセックスレスってわけではないんですよ。ていうかエドガーは、キャサリンを現実的にちゃんと大切にしているんです。いったい彼女はエドガーの何が不満なんでしょう?父とはちがって自分をちゃんと愛してくれているのが、いやなの?

▼「引き裂かれた魂の双子」の概念を考えてみる

そもそもの「嵐が丘」の物語の前提である「引き裂かれた魂の双子」って概念、いったい何なんでしょうね。初恋のエモくてメロい思い出のナルシシズムと、あるいはヒリヒリさせられることをわざわざ好むメンヘラな情動と、何がちがうんでしょう?

僕はキャサリンの父、イザベラ、ネリーの三人が、なぜそれぞれそういう暗い行動をしてしまうのかはさっぱりわかりませんでしたが、こういう人たちを俺は知ってると思いました。寝取られ夫エドガーにも同情しました。だからこの四人には僕は感情移入しました。

一方、キャサリンとヒースクリフの感情と行動には、めっちゃ身に覚えがあります。自分の恋に酔い、魂の双子認定した相手以外の人間を軽んじ、こういう無様なことをやった記憶がある。この映画のヒースクリフがイザベラにしたような仕打ちも、キャサリンがネリーにしたような仕打ちも、僕も誰かにしたことがある。でも、だからこそ感情移入できなかった、ていうか、したくなかった。

二世紀も昔のイギリスの荒野の、いつも雨が降るか風が吹き荒れるかしてて、なのに奇跡のように美しい景色。お屋敷の内装の、とてつもない意匠。貧乏貴族の館のグロテスク描写。なにより俳優たちの演技がすばらしい。いい映画です。

なのに、なぜ感動できなかったのか。映画の中心にいるキャサリンとヒースクリフというキャラクターがやってることが、僕自身の(もしかしたら多くの観客自身の)愚かさとエゴそのものだったからです。この二人は、いったいどこが双子なのか。おたがいを魂の双子だと思い込める、その思い込みの強さと自己中心(ジコチュー)さが、双子のように似ているのです。

自分らは魂の双子だという幻想をエンジンに突進する似た者同士のバカップル、古い壮大な物語の登場人物としては抜群に面白いけど、近くにいたら迷惑なのでは……。新しい「嵐が丘」はそういう映画であったと僕は思いました。自己嫌悪も感じました。あなたはどう感じましたか?

【作品情報】
嵐が丘

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