Why Japan?私が日本でプレーする理由
ドミトリー・ムセルスキー/サントリーサンバーズ大阪
ロングインタビュー第1回(全4回)
サッカーのJリーグだけでなく、バレーボールのSVリーグにも、さまざまな国からやってきた外国籍選手が在籍している。彼らはなぜ、日本を選んだのか。そしてこの国で暮らしてみて、コートの内外でどんなことを感じているのか。シリーズ初のバレーボール選手は、先日、今シーズンかぎりでの現役引退を発表した元ロシア代表ドミトリー・ムセルスキーだ。
【ロンドン五輪決勝の大逆転勝利の中心にいたスーパーレジェンド】すべてを包み込むような、大きくて分厚い手──。
ドミトリー・ムセルスキーとのインタビューを終え、今こうしてキーボードを叩こうとした時、はじめに想起されるのは、その大きな手だ。握手をした時の感触をはっきりと覚えている。数えきれないくらい何度も何度もバレーボールを打ち、弾き、捕え、時には滑らせるように操ってきたその手で、彼はこの競技の玉座を摑んだ。
穏やかな笑顔で撮影に応じるドミトリー・ムセルスキーphoto by Shogo Murakami
2012年ロンドン五輪の男子バレーボール決勝は、このスポーツの伝説になっている。
前評判の高かったブラジルに2セットを先行され、ロシアは3セット目も追いかける展開に。そこでロシアのウラジーミル・アレクノ監督は当時23歳のサブのミドルブロッカー、ムセルスキーをオポジットに配し、この奇策が奏功。ロシアはまだあどけなさの残る身長218センチの臨時エースに球を集め、ブラジルの2度のゴールドメダルポイントをしのぎ、29-27と逆転で3セット目をモノにした。反撃の狼煙を上げたのは、ロシアの26ポイント目から3連続で得点したムセルスキーだった。
自信と勢いを得たロシアはその後の2セットを連取し、五輪男子バレーボール決勝史上初の2セットダウンからの大逆転で、旧ソ連時代の1980年以来となる32年ぶりの金メダルを手にした。そのドラマティックな優勝劇の中心にいたのが、現在サントリーサンバーズ大阪でプレーするムセルスキーだ。
また彼は2011年のワールドカップ、2013年の欧州選手権、2011年と2013年のワールドリーグなどでも、ロシア代表の一員として頂点を極めている。バレーボールを知る人なら、誰もが敬意を払う真のレジェンドだ。
【「選手としても、人間としても偉大な男」】今年初頭、その現在37歳の世界的なスーパースターが今シーズンかぎりで現役を退くことを表明した。年齢的には、なにも不思議はない決断かもしれない。
ただしサントリーの試合を見れば、ムセルスキーは今でも特大の存在感を放っている。それは数字にも見て取れる。SVリーグ第16節終了時点で、総得点は2位(602)、アタック決定率は1位(53.6)、サーブ効果率は4位(13.2)、1セットあたりのブロック決定本数は2位(0.67)と、リーグが公表しているスタッツのほぼすべてで上位に入っているのだ。
つまり30代後半のベテランながら、まだまだトップレベルで他を圧倒するようなパフォーマンスを披露しているわけだ。サントリーのオリビエ・キャット監督は2月7日のジェイテクトSTING愛知戦後の記者会見で、「来季は彼の不在をいたく惜しむことになる。選手としても、人間としても偉大な男だから」と率直に話していた。「とはいえ、彼は熟考の末に難しい決断をしたのだと思う」と付け加えて。
筆者はもともと、主にサッカーについて執筆してきた書き手で、この外国籍選手とのインタビューシリーズも、Jリーグの選手たちを取材対象として始めたものだった。ただ昨年の暮れ頃からバレーボールの現場を取材する機会に恵まれるようになり、初めて訪れた試合がサントリー対ペルージャの一戦だった。その時、ひときわ目を引いたのがムセルスキーだった。頭ひとつ抜けた巨躯をしなやかに動かす圧巻のプレーはもちろん、優しそうな眼差しが印象的だった。
そして彼が試合後に英語を話している姿を見て、ぜひこのシリーズで直接話を聞いてみたいと思った。そんな矢先に表明された現役引退。「難しい決断」の理由や日本での日々の記憶など、多くの訊きたいことを携えて大阪へ向かった。
チームの練習が始まる前のアリーナは静寂が支配する場所だ。そこにムセルスキーは穏やかな表情を浮かべながら静かに現れ、こちらが差し出した右手を、とても大きな手で包み込んだ。
「英語は自分にとって第二言語なので、先にいただいた質問への回答をメモしたものを見ながら、答えてもいいだろうか」とムセルスキーはインタビューを始める前に言った。
きっと何事にも誠意をもって対応する律儀な人なのだろう。このシリーズだけでも、およそ20人にインタビューしてきたが、最初にそんな断りを入れてきた選手は初めてだ。多くの関係者が、何よりも讃えるムセルスキーの人間性が垣間見えた。
【「帰国した後も日本のことがずっと胸に残っていた」】──こちらにとっても英語は母国語ではないので、互いに理解しにくいところがあれば、繰り返しながら進めましょう。まずは2018年にサントリーに移籍した経緯から聞かせてください。
「当時、所属していたベロゴリエ・ベルゴロド(ロシア)と同意できないことがいくつかあり、最終的に契約を更新しないことになったんだ。同じ頃、サントリーがオポジットの新戦力を探していて、自分に白羽の矢が立った。
私はロシア代表の一員として、その前に何度か日本を訪れたことがあった。そこで日本のバレーボールが著しく成長していることを知り、その理由がどこにあるのかに興味を持っていたんだ。また日本を訪れるたびに、ユニークでオーセンティックなこの国の成り立ちに心を奪われ、帰国した後も日本のことがずっと胸に残っていた。そしていつの日か、妻と一緒に日本に住み、日常的に日本のカルチャーに触れてみたいと思っていたんだ。
だからサントリーに声をかけてもらってからは、すべてがスムーズに運んでいったよ。プロとしての仕事を続けながら、個人的な願望を満たすことができたわけだから」
ムセルスキーが初めて日本を訪れたのは、2011年だった。ワイルドカードで参戦したワールドカップで優勝したこともすばらしい記憶として残っているが、その時に見たこの国の人々や景色にも感銘を受けたという。
「親切で礼儀正しく他者を敬う人々、守るためにあるルール、きちんと整備された街など、私にとってすべてが新鮮だった。誰もが安全に安定した生活を送れるところだと感じたよ。実にポジティブな印象だった」
少しくぐもった低い声で、微笑みながら静かに話すムセルスキー自身、他者に敬意を払う人に違いない。日本に住み始めてから、もともと持っていた印象に変化はあったかと訊くと、彼はこんな返答をした。
【「自分たちから順応していこうと妻と話していた」】「日本では本当に多くのことを楽しんでいるけれど、いくつか自分たちには理解できないこともあった。ただしそれは、完全に違う環境と文化のなかで育ってきた私個人の意見なので、それをここで具体的に話したいとは思わない。所詮、それは私の意見にすぎないのだから」
当然、日本での8年間で色んなところに行ったというが、気に入った場所についても、そんなムセルスキーらしい回答が返ってきた。
「本当に多くの場所を訪れたが、ひとつを挙げるのは難しい。すべての場所を楽しんだとだけ言っておくよ。ただ、人気の観光地の人ごみには参ったね。長い列に並ぶのも好きじゃないんだ。
すべての物事と同じように、完璧な国などありえない。良いところもあれば、そうでないところもある。私たちが日本に住み始めた時、こちらが日本の伝統や文化に敬意を払い、ルールを守り、自分たちから順応していこうと妻と話していた」
そんなふうに、ムセルスキーの口からはなかなか固有名詞が出てこない。いわゆる、メディアが喜ぶ受け答えではないかもしれない。でもそのぶん、信用できる人と思えた。ひとつひとつの言葉に真実味がある。
ただし、質問がマンガに及んだ時、ムセルスキーは初めて具体的な名称を挙げるのだった。
(つづく)
ドミトリー・ムセルスキーDmitriy Muserskiy
1988年10月29日生まれ、旧ソ連・マキイフカ(ソ連崩壊後にウクライナ領となり、現在はドネツク人民共和国の施政下)出身。8歳でバレーボールを始め、15歳でプロになり、23歳の時にロシア代表として出場したロンドン五輪の決勝で大活躍し、金メダル獲得に貢献した。W杯、欧州選手権、チャンピオンズリーグ、クラブ世界選手権など、代表とクラブの双方で様々なメジャータイトルを手にした後、29歳の時にサントリーサンバーズ大阪へ移籍。日本での8シーズン目となる今季かぎりで、現役を退くことを表明している。身長218センチ、ポジションはオポジット(元はミドルブロッカー)。
【関連記事】
ロサンゼルス五輪には「エースで出場したい」 甲斐優斗はプレーと感情表現の向上を目指す
【男子バレー】大学生SVリーガーにして日本代表選手、甲斐優斗の多忙を極めた2025年
【男子バレー】関田誠大が天才セッターと評される裏にある向上心と努力「『いや、これが普通だ』と思っちゃうんですよ」
【男子バレー】関田誠大が語る、移籍したからこそ感じたサントリーの強さ「『これは強いはずだわ』と思いました」
【男子バレー】大阪Bの新主将、西田有志が示すキャプテンシー「準備を大切にし、周りにも求める」