木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第5回:金田喜稔評(5)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
若かりし頃の木村和司氏(右)と金田喜稔氏(左)写真提供:(有)シュート
日産自動車に入社して1年目、金田喜稔はサッカー部監督の加茂周に声をかけられた。
「キンタ、ちょっと一緒にメシに来てくれ」
加茂は意中の大学生、木村和司を口説くため、県立広島工業高校で木村の先輩だった金田に協力を求めたのである。
「ワシ、何しに行くんですか」
「いや、そばにいて、いろいろ話したり、スキあらば、『(日産に)来いや』みたいな話もしてくれたらいい」
金田は自分が木村の勧誘に役立つとは思えず、あえて聞き返したのだが、加茂の答えは実に直截的で明快だった。
「ワシからしたら、そんな役割かよって感じだったけど、美味しいステーキ食わしてもらえるなら、しょうがないか、みたいな(笑)」
金田が入社1年目のこのシーズン、日産は2年連続で日本リーグ1部の最下位に終わり、2部降格が決まった(この年から1部最下位は2部へ自動降格)。新人獲得において不利な条件となっても不思議はなかったが、それでも木村は日産入りを決めてくれた。
「多少はワシがいるっていうのもあったかもしれんけど、やっぱり加茂さんや(コーチの)鈴木保さんのサッカーに対する情熱っていうのに、和司は引っ張られたんじゃないかな。アイツも、その時はもう日本代表だったわけやから」
当時の日産は、上記の成績が物語るように、「悪いけど、みんなヘボやから、『なんや、このクソチーム』みたいな感じやった」と金田。だからこそ、「(木村が日産に入って)めっちゃうれしかった。だって、弱かったから。和司が来てくれたら、絶対変わると思ってたから」。
金田が続ける。
「だからといって、ワシがいいプレーをたくさんして、それでも勝てなかったっていうことじゃなくて、ワシもいいプレーができてなかった。当時の日本リーグ1部と日産の力関係で言うたら、全然違いますよ、そりゃ。(2部に)落ちるべくして落ちたし、自分の責任でもあったし」
社会人1年目から苦い経験を味わわされた金田は、しかし、決して投げやりになっていたわけではない。それどころか、日産に入る時に加茂からかけられた、「キンタ、5年で日本一になろう!」という言葉を実現したい。その気持ちは、熱を帯びたままだった。
「でも、それには人が来ないと無理なんですよ。トレーニングでうまくなるって言っても、所詮は才能なんで。だから、和司が来れば、(日産は)絶対変わるって思ってた」
木村の日産加入が、チームにとって大きな戦力アップとなったことは、今さら言うまでもない。その後の成績が示すとおりである。だが、それと同時に金田と木村、それぞれにとっても大きな転機をもたらすことになる。
それは、木村が日産に入って3年目のシーズンのこと。それまで主にウイングとしてプレーしていた木村が、攻撃的MFへとコンバートされることになったのだ。
「中盤をやることで、和司の能力が一気に開花した」
金田はそう言って、当時を振り返る。
「ロサンゼルス五輪の予選が1984年の3月ぐらいやったかな......。それもあって、たぶん(当時の日本代表監督である)森(孝慈)さんが、『和司を中(MF)にして、キンタを外(ウイング)にしたい』って、加茂さんに言ってくれたんだと思う。それで加茂さんも、(日産の布陣を)代表仕様にして、ワシと和司のポジションを入れ替えたんじゃないかな」
当時の金田は、高校、大学、そして日産と、ずっと中盤を主戦場としていた。だが、そのプレースタイルは、本人曰く「ワシの場合は、中盤でボール持っても、結局全員抜いて決めるような感じ。それでも一応はできてたけど、そんなにゲームメイクはしてなかった」というタイプだったのである。
このコンバートは、結果的に金田と木村の両方を適材適所に配し、彼らの能力を最大限に引き出す格好となった。
「才能的に言ったら、和司が中のほうがいい。だって、アイツはキックの精度が高いし、何でもできるから。そりゃ、合ってますよ、やっぱり」
結局、日本代表はこのポジション変更の甲斐もなく、ロサンゼルス五輪の出場権を逃すことにはなったのだが、その一方で日産は、「和司にボールを預けるようになって、チームとしてめちゃめちゃ(攻撃がうまく)回るようになった」という。
「ワシは外(左サイド)で1対1の勝負をする。加茂さんも『キンタにサポートはいらん。おまえ、全部勝負しろ』と。ワシが相手の背後をとって走ったら、だいたい勝つ。それを和司はわかってるわけやから、パスが来る。
だから、ゲームのなかで和司と目合わせるの、嫌やったんですよ。『あ、コイツ見てるわ。裏に走らないかんのか......』って。ワシは足元で(パスが)ほしいのに、走れっていう目をされるからね。和司にも、よう言うとったもん。『おまえと目合わしたない』って(笑)」
いわば、あうんの呼吸。ふたりは、走り出すタイミングについて話し合うことなどまったくなく、次第に目を合わせることすら必要としなくなっていった。
「アイコンタクトっていうけど、いやいや、ワシら、目合わせてないから。よく和司も言うとったけど、動作でわかる、みたいな」
見る者をうならせる抜群のコンビネーションは、金田の表現を借りれば、「ハートコンタクト」によるものだった。
「目を合わせてるようじゃ、おしまいですよ」
(文中敬称略/つづく)
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高→中央大を経て、1980年にJSLの日産自動車入り。同郷で1年後輩の木村和司らとともに一時代を築く。大学2年生の時に初選出された日本代表でも奮闘。変幻自在のドリブルと独特なフェイントで攻撃の主軸を務めた。19歳119日という日本代表最年少得点記録を保持する。1991年に現役引退。以降、解説者、指導者として奔走し続けている。国際Aマッチ出場58試合6得点。
【関連記事】
◆盟友が語る木村和司のFKのすごさ「世界でもトップクラスじゃない。PKより壁があるFKのほうが決める」
◆関東大学リーグ1部・中央大所属の金田喜稔が、木村和司がいる同2部・明治大と試合するのが「嫌だった」ワケ
◆「とにかく何でもできる子やった」と語る金田喜稔が最も衝撃を受けた、木村和司のあまりにも意外な"伝説"とは?
◆金田喜稔&木村和司がいた"県工"だが、「スーパーだったのは楚輪さんたちの代で、ワシらは雑魚だった」
◆「ようコイツ、こんなキックできるな」 盟友・金田喜稔に強烈なインパクトを与えた木村和司のプレーとは